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新潟県糸魚川市にあるフォッサマグナ(大地溝帯)の西縁に存在する糸魚川-静岡構造線( Wikipedia )の断層面を見学できる野外施設(地図)。
フォッサマグナ( Fossa Magna )は、西縁を糸魚川-静岡構造線、東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線(現在の説)の、その間に存在する1600万年前に陥没してできた地溝のことです。日本列島をほぼ縦断するように存在し、北は新潟県糸魚川市~新発田市間、南を静岡県静岡市~千葉県千葉市間とする地域がその地溝帯とされています。したがって、長野県内はそのほとんどが、フォッサマグナと呼ばれる地溝帯に存在することになります。
地溝帯は200万年前から隆起が始まり、かつての海は山地・盆地・平野となりました。山々が連なる長野県の山間地で、海中生物の骨格や貝殻などが発掘されるのは、陥没した地溝帯が隆起するまでの間、海として存在していた名残りといえます。
(写真:新潟県糸魚川市にあるフォッサマグナパーク=平成23年5月4日撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
これまで「糸魚川-静岡構造線」と「フォッサマグナ」は 同じ ものだと思っていました 。
<参考HP>
・ 糸魚川市ホームページ (新潟県糸魚川市)
http://www.city.itoigawa.lg.jp/
・ 糸魚川世界ジオパーク (新潟県糸魚川市)
http://geo-itoigawa.com/
・ 長野県の地学
http://www2.ueda.ne.jp/~moa/
・ 戸隠地質化石博物館 (長野市)
http://www.avis.ne.jp/~kaseki/
・ 信州新町美術館・有島生馬記念館・信州新町化石博物館 (長野市)
http://www.ngn.janis.or.jp/~shinmachi-museum/
・ 中央構造線博物館 (下伊那郡大鹿村)
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/
<参考資料> フォッサマグナパーク
糸魚川市のジオパーク(野外博物館)の一つであるフォッサマグナパークでは、日本第二位の規模を持つ活断層「糸魚川-静岡構造線(糸静線)」と日本で最大級の規模を持つ「枕状溶岩」を見学することができます。
入口から糸静線の露頭までの間は、舞鶴帯の一部である約2億5000万年前の黒色頁岩と変はんれい岩が露出し、糸静線から先はフォッサマグナ地域で活動した約1600万~1400万年前の玄武岩~玄武安山岩が露出しています。遊歩道沿いには糸魚川の大地の歴史を紹介した解説板が設置されていますので、見学を通して糸魚川の地史を学習できるようになっています。見学に要する時間は約40~60分ほどです。
また、美山公園にある地質博物館フォッサマグナミュージアムも合わせてご見学ください。(ここから車で日本海方向へ15分)
ナウマン博士のフォッサマグナ 詳しい図は 糸魚川市ホームページ をご覧ください |
ナウマン博士とフォッサマグナ
フォッサマグナはラテン語で、「大きな溝」という意味です。ドイツ人地質学者のナウマン博士によって、1886年に名づけられた上図(参考:ナウマン博士のフォッサマグナ)のような溝状の地質構造をさしています。
上図で、「新しい岩石」を取り除くと、「古い岩石」でできた大きなU字溝が現れます。この溝がフォッサマグナの名前の由来であり正体です。ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁が糸魚川-静岡構造線、東縁は、直江津と平塚を結ぶ線と考えましたが、現在は、右図(略)のような範囲がフォッサマグナと考えられています。
現在のフォッサマグナ
フォッサマグナで行われた深度6000m級の石油ボーリング調査(黄丸印・略)によっても、フォッサマグナの底にある「古い岩石」に到達することができません。
このことは、フォッサマグナの深さが6000m以上であることを示しています。さらに、フォッサマグナの東西の「古い岩石」でできている越後山脈(※2000m)や北アルプス(※3000m)の標高を合わせると深さ8000m~9000mに及ぶ地質の凹地が日本列島の中央部に横たわっていることになります。
ナウマンのフォッサマグナは修正され、上図(略)のようなフォッサマグナ(新潟大学理学部教授 植村 武(当時) 1988年提唱)が、現在、受け入れられています。すなわち、明瞭でなかった、ナウマンのフォッサマグナの東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線に求めました。こうすることで、溝状構造が明瞭になったのです。この場合、関東山地はフォッサマグナの範囲内に含められます。
しかし、問題も残ります。ナウマンはフォッサマグナを関東山地西側の火山列が南北方向に並ぶ地帯とし、伊豆-小笠原弧(こ)と本州弧(こ)の衝突によってできた裂け目と考えました。東縁は明瞭ではありませんが、ナウマンが主張したフォッサマグナも明らかに存在するのです。
フォッサマグナと日本海
日本列島は、上図(略)のように、日本海が広がることによってできたものです。フォッサマグナの溝は、日本海の発生期の落ち込み(2000年万年前)と同時にできたものと考えられています。
<2000万年前>
フォッサマグナの陥没、やがて日本海になる陥没帯ができる。
※案内によれば、当時の日本列島は朝鮮半島の北にあり、大規模なマグナの上昇の後に陥没した「フォッサマグナ」と呼ばれる溝とともに、ユーラシアプレートの移動に伴い大陸を離れ、徐々に太平洋側へ移動したようです。
<1600万年前>
陥没帯は拡大し、日本海ができる。フォッサマグナは拡大せずそのまま移動し、その海底に砂岩、泥岩、火山灰、溶岩などの「新しい岩石」がたまっていく。
※日本列島は更に移動し、現在の東は太平洋プレート、南はフィリピン海プレート付近まで移動。「フォッサマグナ」の溝はには海水が流入し、海底には「新しい岩石」が堆積しました。長野県内の山間地(長野市の戸隠・鬼無里・信州新町、松本市四賀など)から海中生物の骨や貝殻が発見されるのはこのためかもしれません。
<300万年前>
糸魚川-静岡構造線の一部が、プレート境界(※北アメリカプレートとユーラシアプレート)になる。日本列島が隆起し、フォッサマグナの岩石が削られていく。
※日本列島はやがて、東から太平洋プレート、西からユーラシアプレート、北から北アメリカプレート、南からフィリピンプレートの力の均衡が保てる位置まで移動。糸魚川-静岡構造線の一部が北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界になったことで左右からの圧力により隆起し、現在のような姿となりました。
フォッサマグナの海のうつりかわり
<1600万年前>
フォッサマグナの地域が落ち込んで、海が進入してきました。フォッサマグナの大部分は、海になりました。
<1400万年前>
フォッサマグナの海の中央部が隆起して、北と南のフォッサマグナの海に分かれました。
<1200万年前>
フォッサマグナの北の海は、どんどん深くなり、水深3000mほどの海になりました。
<700万年前>
フォッサマグナの北の海は、あいかわらず深い海でしたが、陸地から運び込まれた土砂で浅くなっていきます。
<400万年前>
日本列島は、隆起しはじめ、フォッサマグナの海も土砂で埋め立てられながら、浅くなっていきます。
<200万年前>
日本列島は、どんどん隆起し、山地、盆地、平野の区別ができはじめていきます。
<現在>
現在の日本列島の完成です。完成と言っても、今も隆起はつづいています。この結果、陸上に姿を現したフォッサマグナの「新しい岩石」は、現在も削られつづけています。
北部フォッサマグナの地震活動 詳しい図は 糸魚川市ホームページ をご覧ください |
フォッサマグナと地震帯
フォッサマグナに関係する地震帯は、(1)糸魚川-静岡構造線活断層帯、(2)信濃川地震帯、(3)関東地方の異常震動帯です。(1)は、糸魚川-静岡構造線の中央部が現在活動的なことを示し、(2)は、新発田-小出構造線と並行する断層が信濃川に沿う地下にかくされており、それが現在活動的なことを示しています。(3)は、関東地方では、柏崎-千葉構造線が地震の通り道(揺れやすい地帯)となっていることを示しています。
北部フォッサマグナの地震活動
フォッサマグナの地震活動を見ると、どこでも地震が起きているわけではなく、ある限られた地域に多いことがわかります。それらの地域は、現在の断層活動が活発な地域です。糸魚川-静岡構造線活断層帯では、マグネチュード(M)6以上(参考:北部フォッサマグナの地震活動にある黄色部分)の、信濃川地震帯では、M5以上(参考:北部フォッサマグナの地震活動にある緑色部分)の地震が起こっています。他に、高田平野、能登半島、飛騨地域も大きな地震が起きている地域であることがわかります。
日本列島周辺のプレート境界
人工衛星を使ったGPS観測によって、詳細な地盤の動きの変化がわかるようになり、現在の日本列島周辺のプレート境界のようすもよくわかるようになりました。糸魚川-静岡構造線の中央~南部は北アメリカプレートとユーラシアプレートの南のマイクロプレートの境界となっています。この部分は現在も活発な地震活動が起こっています。一方、ここフォッサマグナパークを含む糸魚川-静岡構造線の北部はプレート境界ではなく、断層の東西の岩盤はユーラシアプレートの一部として一緒になって東(1cm/年)へ動いています。
フォッサマグナの発見・命名者
エドムント・ナウマン ( WIkipedia )
(1854-1902、ドイツ)
フォッサマグナを発見して命名したナウマンは、フォッサマグナの西縁を次のように述べました。
西縁は、静岡から富士川に沿って北上し、途中で北西に向きを変え、宮川に沿って諏訪湖に達する。松本で再び向きを北に変え、姫川の河口に至る、としています。しかし、この西縁の線には名前を与えませんでした。
フォッサマグナは、日本列島が太平洋側へ水平に移動して張り出したとき、七島山脈(伊豆-小笠原弧)と衝突してできた裂け目であると考えました。プレートテクトニクスが提出されたのは、1960年代後半ですから、ナウマンの日本列島の水平移動説は、それからさかのぼること80年ほど前になります。このことはナウマンの鋭い直感と深い洞察力を示しています。
糸魚川-静岡構造線の命名者
矢部長克 ( Wikipedia )
(1878-1969、東北大学理学部所属)
糸魚川-静岡構造線(命名は構造線ではなく地溝線。以下、糸静線)を命名したのは、当時、東北大学理学部教授の矢部長克でした。それはナウマンがフォッサマグナを1885年の論文で提唱してから、33年後の1918(大正7)年のことでした。
矢部はじめ、多くの人たちによって調べられた糸静線の通過経路は以下のようです。糸魚川を起点にほぼ姫川に沿い南下、青木湖を通り、鳳凰山の東を通り、山梨県早川、静岡県安倍川に沿って静岡市に至ります。
矢部は、糸静線のほか、中央構造線、地層や古生物など幅広い分野で研究を行い、日本の地質学の発展に大きく貢献しました。1953(昭和28)年に地質学文やで初めて文化勲章を授与されています。
断層露頭
断層露頭 左(西):西南日本 (ユーラシアプレート) 右(東):東北日本 (北アメリカプレート) |
断層の右側(東側)は、安山岩(約1600万年前)であり、地質学的に東北日本に属し、フォッサマグナの構成岩石です。一方、左側(西側)は、変はんれい岩であり、2億6000万年前より古いことがわかっており、西南日本に属する岩石です。
断層破砕帯と断層運動
断層破砕帯とつくるのは、未固結な破砕物質であり、径10cm以下のさまざまな破砕岩片からなる断層ガウジと断層角礫です。ともに断層をつくる岩石の名称です。左から右へ、あずき色・暗緑色ガウジ(幅約85cm)、白色・灰色縞状ガウジ(幅約2cm)と変わり、破砕されたもとの岩石を反映して色がついています。
断層ガウジの変形構造から、この断層に沿って少なくとも4回の断層運動が起こったことがわかっており、いずれも、右側(南南東側)がずれ落ちる正断層の動きを示しています。
現在のフォッサマグナ
ナウマンのフォッサマグナは修正され、上図(略)のようなフォッサマグナ(新潟大学理学部教授 植村 武(当時) 1988年提唱)が、現在、受け入れられています。すなわち、明瞭でなかった、ナウマンのフォッサマグナの東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線に求めました。こうすることで、溝状構造が明瞭になったのです。この場合、関東山地はフォッサマグナの範囲内に含められます。
しかし、問題も残ります。ナウマンはフォッサマグナを関東山地西側の火山列が南北方向に並ぶ地帯とし、伊豆-小笠原弧(こ)と本州弧(こ)の衝突によってできた裂け目と考えました。東縁は明瞭ではありませんが、ナウマンが主張したフォッサマグナも明らかに存在するのです。
(以上、糸魚川フォッサマグナパークに設けられた案内板から)
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