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上伊那郡宮田村の宮田村役場前にある中越(なかこし)遺跡は、縄文時代前期初頭から室町時代にかけて、周辺一帯に形成された集落群の遺跡。整備された公園内には、縄文時代の竪穴式住居も復元されています。
写真は、中越遺跡で新たに行われている発掘調査の様子です。
住居跡発掘の記録更新となりますでしょうか。 (写真=20日撮影)
<マピオン地図>
・ 上伊那郡宮田村町 ( 1 / 21000 )
<参考資料> 県史跡 中越遺跡
今からおよそ六千五百年前、縄文時代早期と呼ばれている時期が終わるころ、次の時期の幕あけをつげるかのように、地球の気温が上がり、それまで寒冷な気候のため現在より約百五十mも下にあった海水面が、逆に現在よりも二~三m上まで上昇する出来事がありました。いわゆる「縄文海進(じょうもんかいしん)」です。
実は、適度な高台と抱負な湧水に恵まれたこの台地を選んで、それまでは多くても数軒程度の大きさの集落しかなかった中部高地に、初めて巨大集落を作った人々こそ、この縄文海進によって住む場所を失い、河岸段丘上に広がる雑木林に実るクリやドングリ類を糧に、新たな定住の地を求めて、島の中央の湖(諏訪湖)から流れ下る川(天竜川)を遡ってきた、海辺の民の一段の一つであったと考えられています。
東西三百五十m、南北百五十mの範囲に、数世代の間に建て替えられた家の跡が三百軒以上。これが、今日までの発掘調査の結果をもとに推定されている中越遺跡の縄文時代前期の集落の大きさです。
彼らは、西日本的な独自の土器(中越式土器)を作り、八つに裂けた山(八ヶ岳)の麓から持ってきた黒曜石を原料に大量の石器を加工し、旺盛な生産活動を続けていましたが、その集落は縄文時代前期の中頃で一度途絶えます。そして、縄文時代中期になると再びこの地に人が住み始め、今度は台地の南側に、縄文時代晩期まで続く息の長い大集落を営むようになるのです。
このほか弥生時代や平安時代、さらに室町時代にも人々が生活していた跡があり、それらをあわせて中越遺跡と呼んでいます。
中越時代では、大正十四年に鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)が初めて考古学的調査をして以来、昭和三十一年の村内では初めての組織的な調査の後も、昭和四十三、四年の大規模な調査の後も、道路や住宅の建設に伴う発掘調査を継続してきており、今までに発見された家の跡は三百九軒。そのうち、縄文時代前期の家は百七十七軒を数え、この数字は今も増えつづけています。 (宮田村教育委員会設置の案内板から)
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