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上田市大手1丁目にある長野県立上田高等学校の敷地(地図)は、上田城三の丸内に位置し、関ヶ原合戦(第二次上田合戦)の後、真田昌幸の長男・信之はここに居館を構えました。
真田氏が松代藩に移封した後は仙石氏・松平氏と藩主が代わりましたが、居館はそのまま残り、歴代藩主はここで藩政を執ったと伝えられています。
(写真:上田藩主居館跡に現存する薬医門=平成28年12月18日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 上田藩主居館跡
上田藩主居館跡配置図 |
堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺(一三五・五m)、南北が七十四間二尺であった。
屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。屋形の入口側から、御表・勝手・御奥の三つの殿舎群に分けられていた。御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
(案内板から)
<参考資料>
上田市指定文化財
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁
上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠斉(ただまさ)時代の寛政二年(一七九〇)にその前年焼失した居館とともに再建されたものです。
前面には、四本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に掘った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の藥医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施工されたものであり、濠の幅も道路の拡張により狭められています。
(上田市教育委員会設置の案内板から)
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