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伊那市西春近諏訪形と上伊那郡宮田村境近くの山沿いにある猪垣(地図)。
平成6年1月に伊那市史跡に指定。
(写真:復元された猪垣=7日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 諏訪形の猪垣跡
伊那市西山三六には、猿、ハクビシンなどによる農作物の被害が多く見受けられるが、過去には猪や鹿による被害が多く、農村ではその対策として猪垣を構築した。
この諏訪形の猪垣は、構築された年は不明だが藤沢川から大田切川に至る標高七〇〇メートルの地域に猪避けのために作られたものの一部である。かなり大がかりな作業によって築かれはしたが、時の経過によって損傷が生じるのでしばしば修理が行われたようで、寛保元年(一七四一)と文化五年(一八〇八)には宮田と共同して再普請が行われたことなどが古文書に記されている。そのうち文化五年諏訪形の発案で宮田三カ村 中越 下牧 表木 赤木村と共同で代官に願い出て、行った再普請は大規模なもので、全体で延べ七二〇〇人余、諏訪形だけでも延べ二六〇〇人余の人足が出て修理が行われたとある。この猪垣は、私たちの先人たちが自然災害、特に動物たちからの災害を防ごうと堅固な施設を作り、農作物を保護するために如何に闘い続けて来たかをうかがわせる貴重な遺構である。尚、このような猪垣は、西山山麓に多く構築されたものと思われ、各所にその形跡が認められる。
猪垣の歴史
私たちの先人が農作物を守るため、構築した猪垣の年代は定かではないが元禄前とも言われている。猪垣の出来る前は焚火、添水、小屋番、板叩き、木柵、等で被害を防いでいた。
諏訪形の猪垣は寛保元年(一七四一)今から二五一年前宮田と共同して修理をした記録がある、修理前の構築については現在のところ古文書がないので不明である。
その後、文化五年(一八〇八)今から一八三年前、諏訪形の発案で、北割・南割・新田と協議し、なお中越・下牧・表木・赤木の同意を得て八ヶ村連名で郡代、代官に願出している。それが許可になり諏訪形分は藤沢川~大樋(北割界)まで一八町二六間(約二km)で、その人足一一、六六一人とある。その後度々修理をしたようだか現在の猪垣は当時のもののようである。
猪垣復元想像図 |
<参考資料> 猪垣改修事業
改修の経緯
諏訪形の猪垣は、平成六年に伊那市教育委員会により「猪垣跡」として市史跡に指定され、平成七年諏訪形区の協力により復元された。
以後長い歳月の中で構造物の劣化が進み、住民の間で再構築の願いが高まってきた。折しも平成二十年度から西春近地域で取り組んでいる農林水産省補助事業「農地・水・環境保全工場対策事業」により、先人が農地を農業を野生動物から守ろうと築いた歴史ある伝統的施設を次世代に残そうと、この改修工事を実施し、ここに完成をみた。
猪垣の構造
平成七年に構築された猪垣は、乱杭と呼ばれる直径約十五センチメートルの丸太を三十センチメートル感覚に埋設してあった。
本事業では、今後の維持管理もふまえ一メートル間隔に主杭となる「プラスチック擬木」を打ち込んだ、
古文書にある横木を取り付け、主杭の間に約二十センチメートル間隔に大小様々な間伐材を利用し縦木として不規則に配置した。そして猪垣の長さは既存の十メートルから四十メートルに延長改修した。
(西春近の環境をよくする会・諏訪形区猪垣改修委員会設置の案内板から)
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