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150505_1417_羽広観音 仲仙寺(伊那市)

伊那市西箕輪の羽広観音 仲仙寺(地図)で、4月18日から5月8日まで、御本尊である秘仏の十一面観世音菩薩の御開帳が行われました。
(写真:羽広観音 仲仙寺観音堂=5日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 信州伊那路 羽広観音仲仙寺
  http://chusenji.or.jp/
・ 伊那市観光協会 
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/

<参考資料>
まほら伊那 仲仙寺
130518_1009_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻)
伊那街道「坂下の辻」
(平成25年5月18日撮影)
弘仁7年(816)今から千年以上の昔、慈覚(じかく)大師は夢のお告げで京の都から信濃に下り、この山奥にて霊木を得て十一面観音像を刻みました。観音様を刻んだ木片に写経し、経塚を作って納めたところから、この山は「経ヶ岳(きょうがたけ)」と呼ばれ、その観音様をご本尊として開山したのが、このお寺の始まりと伝えられています。
開山当初は今とは別の場所にあり、寺名も藤宝寺(とうほうじ)といいました。最盛時には12の坊(僧侶の住居)を数えましたが武田信玄の兵火に焼かれ衰退しました。慶長18年(1613)領主小笠原秀政の発願でこの場所に移り「羽広山仲仙寺」と名を改め、現在にいたります。ここ仲仙寺は通称「羽広観音」と親しまれ、特に「馬の観音様」として、遠く諏訪、木曽、飯田からも広く信仰を集めました。農耕馬が家族の一員だったころ、6月の田植えが終わると馬を連れて多くの農民んがお参りに来るため、市内坂下区常圓寺(じょうえんじ)下の辻から続く「羽広道(はびろみち)」は、きれいに飾り立てられた農馬で大変ににぎわいました。
羽広道には丁石(一丁=約109mごとに立てられた道しるべ)と呼ばれる石仏が、かつてあった五十五体のうち現在も三十数体残っていると言われています。一つ一つ見つけながらここまでお参りに来るのも、また楽しいでしょう。
(案内板から)

<参考資料> はびろ道「丁石 丁観音」
150505_1416_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
境内にある「丁観音」
はびろ道は、伊那の中心を南北に通る伊那街道坂下の辻から羽広山仲仙寺に至る五十四丁の信仰の道である。
仲仙寺は秘仏の十一面観世音菩薩を本尊とする、千二百年の歴史ある信濃観音霊場の第二十二番札所、伊那諏訪第一番礼所の古刹である。
伊那街道の起点の辻には、いくつかの道標と石仏が安置されている。そのなかに、「右ぜん可うし道(善光寺) 左はび路道」と刻まれた古い石柱と、起点を示す馬頭観音像がある。
江戸時代中期から大東亜戦争のころまで、馬が農耕と交通の主役であり、大切な一家の一員であった時代、馬の安全祈願のため人と馬が共に、仲仙寺へ参拝する信仰の道であった。一丁(約一〇九メートル)毎に道標となる観世音石仏が寄進奉納され、数多の参詣者でにぎわったという。
馬の観音様として親しまれ、千人余の人が力を合わせて奉納しら千疋馬(せんびきうま)絵馬(伊那市指定有形文化財)と呼ばれる巨大な絵馬がいくつかある。
最近、この古い歴史の道が伊那市と伊那市観光協会によって整備され、再び注目されている。
(伊那市設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 木像仁王立像
密迹金剛(みつしゃこんごう)
150505_1410_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
密迹金剛
檜材を用い寄木造り、肉身朱彩し玉眼を用い、単髯、面を斜右に向け、開口す。左手を上にし屈臂して鈷杵を握る。右手を下げ五指を延して掌を下に向ける。左足に重心をかけ、右足を斜前に出す。裳裾を膝頭から後方に翻転す。天衣は頭部後方より両腕の前にかけ腰に至り、更に両足外側に垂れ下る。頭部は耳後で前後縦矧ぎ。腕は肩・臂・手首矧付け、脚は腰下横で縦矧ぎ、足先矧付けとする。
那羅延金剛(ならえんこんごう)
材質・構造は密迹金剛に大体同じ。単髯、面をやや右に向けて閉口。左手臂を後に引き、拳を前に押出す形とし、右手臂を屈げ五指を開いて前方に向ける。右足に重心をかけ、左足を横に出し、爪先を左に向ける。
法量は像高両金剛力士共二五五cmである。
この寺の縁起に「文亀元酉年五月十三日より閏六月十八日迄に大旦那家満朝臣並に十方多力を以って執金剛神二躰を彫刻せり仏工は雲慶法印より十代七条大蔵郷康忠法眼なり同人多門(聞)治(持)国二天を修理彩色せり」とあり、作者並に造立の年紀を知ることが出来る。(文亀元年は西暦一五〇一年である。)
この像、全体の調和・均衡がとれ、堂々としていて室町時代の作品として優秀で貴重な彫刻である。
(案内板から)

<参考資料>
伊那市有形文化財彫刻指定
木像持国天 多聞天立像
本堂(観音堂)の本尊厨子の両側に安置してあり、持国天は像高一六七cm、多聞天は一五〇cmの立像である。持国天は檜材寄木造り、胡粉(こふん)地彩色、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)。兜を冠えい、唐革甲を着け、左膝を屈し両足で邪鬼を踏む。頭部は前後を縦に矧(はぎ)付け、首柄で体部に押込む。体部は前後縦に矧付け両肩先、肘先、手首先矧付け両足先も矧付けとする。地髪をあらわす。
多聞天は、品質、構造はほとんど持国天に同じ。但し玉眼を欠失して小板でとめている。この像の作者年代等不明であるが、造立は鎌倉時代と推定される。
二天のそれぞれ首柄の部に墨書があり「藤宝寺二天之事 本堂願主金剛仏子賢宗 二王建立之時修理彩色奉所也 文亀元年辛酉壬六月吉日成就」と記されている。藤宝寺というのは仲仙寺の前の寺号である。この像において寄木法は鎌倉時代通有の手法に依っており、顔貌・形態共に鎌倉様で、写実に勝った作品である。殊に天衣の彫り強く稜もかなり高く力強い量感のある像である。但し文亀元年以後において度々修理彩色が行われ、かつての像容を損している点が惜しまれる。
(案内板から)

<参考資料>
伊那市有形文化財工芸指定
鰐口(わにぐち)
仏家で用いる青銅円形の鉦には勤行の際たたく鉦鼓(しょうこ)、僧侶が布教のとき首にかけて打ち鳴らす金鼓(こんく)等があるが、これに類した大型のものに鰐口がある。鰐口は、社殿・仏堂の軒下につるし、参拝者が布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らす。扁円・中空で、下方に横長い口があいている。銘「奉下野国殖野保東光寺亀峯山薬師之鰐口大旦那祐山本願 大永四年甲申八月十二日敬白作者 大田右衛門二郎宣定」
(案内板から)

<参考資料> 桜本地蔵
150505_1434_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
桜本地蔵
江戸時代中頃からその由来が伝わる地蔵さまです。
要旨:伊那町の入船の舟問屋に、みねうるわしい生まれつき口のきけないおなみという娘がいました。娘が12歳の時、母の枕元に定期的に参拝するようにとのお告げがありました。町からお寺まで54町、翌朝から母娘連れだって1日も欠かすことなく参拝。満願の日、強風と小雪が吹き付け身が凍えるばかり。娘が「かあさん寒いよう」と母の体にしがみついた。母は「お前、今何と言った。」と娘を抱きしめ、お地蔵様の前に泣き伏した。舟問屋ではお地蔵様のお陰と感謝し、お地蔵様も寒くないようにと三河木綿の着物に厚い綿を入れて作り着せたという。
注:地蔵菩薩;釈尊の入滅後、弥勒仏の出生の間、無仏の世界に住して六道の衆生(しゅじょう)を教化(きょうげ)・救済するという菩薩。子安・六・延命地蔵などがある。(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天)。
(案内板から)





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