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正面の小山が烽火台 | 本郭にある方位版 |
烽火台からニの郭 | 烽火台から望む佐久方面 |
東御市八重原の千曲川と鹿角川とが合流する高台にある城跡(地図)。
高く土が盛り上げられた烽火台からは、小県から佐久まで一望できます。
郭の規模や敵への備えを見ると、それほど強固なものとは思われず、戦闘用よりも、敵の動きを監視したり、情報を伝達する拠点として築かれたものと考えられます。
(写真:東御市史跡 外山城跡=13日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 東御市ホームページ
http://www.city.tomi.nagano.jp/
・ 信州うえだ観光データベース
http://www.ueda-trenavi.jp/
<参考資料> 史跡 外山(とやま)城跡
この城跡は烽火台を中心の本郭と二の郭・大堀切からなっている。
烽火台は高さ約七m、周囲約二〇m、本郭は東西一八m、南北九〇mの規模である。
伝承によれば天文年間(一五三二~一五五五)武田信玄・上杉謙信戦斗の際築いたといわれているが、あるいはそれより早く、文明年間(一四六九~一四八六)村上氏の佐久進出の頃に築かれたと見るのが妥当であろう。
天文一〇年(一五四三)武田・諏訪・村上三氏の連合軍によって海野氏の攻略を図った海野平の合戦( Wikipedia )、天文一七年(一五四八)・天文一九年(一五五〇)の二回にわたった武田氏の村上攻め等、本城跡から一望できる佐久・上田・小県の地域は戦国期の歴史に残る戦乱の舞台であった。
本城跡は当時これらの軍事的な情報・連絡の重要な拠点として活用された地であった。
武田氏滅亡後は依田信蕃( Wikipedia )の臣、依田十良左衛門がここを守ったといわれている。
(東御市教育委員会設置の案内板から)
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