忍者ブログ
管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


150919_1130_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)

茅野市ちのにある曹洞宗の寺院(地図)。
江戸時代初期の寛永8年(1631)に、信州高島藩初代藩主諏訪頼水( Wikipedia )を開基として開創されました。境内には、諏訪頼水(頼岳寺殿)と父頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院殿)の御廟が祀られています。
(写真:頼岳寺本堂=19日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 頼岳寺(らいがくじ)
  http://www.raigakuji.or.jp/

<参考資料>
開創
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。開創は江戸時代初期の寛永八年(一六三一)で開山(初代住職)は大通関徹(だいつうかんてつ・群馬県双林寺第十三世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水( Wikipedia )である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩三万石の大名であった。

上原城周辺
寺の右側の金比羅山(九七八メートル、甲州街道からの比高はおよそ二〇〇メートル)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪総領家の居城として築城され、政満・頼満。頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。
天文十一年(一五四一)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで諏訪の政治・経済の中心地であった。上原には城下町が経営され繁栄した。とくに城下にんは鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合併して放光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。
上原五山のうち永明寺は向富山と号し、現在の頼岳寺よりおよそ五〇〇メートル南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(一五〇四~一五一一)で、開山は慈山永訓(じさんえいくん・静岡県真珠院第二世)、開基は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後七代一三〇年間続いたが、寛永七年(一六三〇)同寺に駆け込んだ科人(とがにん)の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。

頼岳寺の沿革
開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領一〇〇石を賜り、末寺は十四ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集した。さらに第三十二世孤峰智璨(こほうちさん)は明治四十年以来五十年間にわたる在任中に、人材の育成、伽藍の整備に尽力し、のち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て、大本山総持寺独住第十八世円応至道禅師となった。

境内と文化財
本堂(間口十四間)とその後方の開山堂は大正六年、本堂右の庫院は明治三十五年の建立である。山門の額「鵞湖(がこ)禅林」は頼岳寺の別名で、鵞湖は諏訪湖を指す。山門と鐘楼は昭和二十七年の建立で、山門にいたる杉並木は樹齢約三〇〇年で、茅野市文化財に指定されている。開山堂後方の坐禅堂は昭和五十三年の建立で、一般にも公開されている。最近になった庫院の増築、墓地の増設などが行われた。
本堂右後方にある御廟(市指定史跡)には、開基の諏訪頼水(頼岳寺殿昊窓映林大居士)と頼水の父頼忠(永明寺殿昊山宗湖大居士)、頼水の母(理昌院殿玉英貞珠大姉)をまつる。文化財としては諏訪頼忠の念持仏(虚空蔵菩薩)、頼水が徳川家康から拝領した琥珀観音(聖観音)、吉山明兆(きちざんみんちょう)の十六羅漢が市の指定文化財である。国道わきの石柱「少林山頼岳寺」と総門額「少林山」は江戸時代の中国僧東皐心越(とうこうしんえつ)の書による。本堂正面の欄間彫刻は、天保十五年(一八四四)立川流二代和四郎冨昌の作である。境内八十二アール、山林約六ヘクタールは金比羅山一帯に拡がっている。

貞珠山 理昌院
曹洞宗に属し、頼岳寺の末寺である。頼岳寺第十八世尊応教堂が開山、開基は諏訪頼水の弟諏訪頼雄(二ノ丸家初代)で、母(理昌院玉栄貞珠大姉)のために開創した。はじめ上原城本丸下の曲輪(理昌院平)にあったが頼岳寺開創後に現在地に移る。
本尊は聖観世音菩薩、諏訪霊場百番札所の中一番。
(境内の案内から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
頼岳寺山門前杉並木
150919_1127_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
頼岳寺山門前杉並木
少林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院である、高島藩初代藩主諏訪頼水は、寛永八年(一六三一)上野国最大山雙林寺(群馬県北群馬郡子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。
参道の杉並木は、かつて目通り幹周り三.五メートル、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合わせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料> 梶(穀)の木
150919_1132_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
境内にある「梶の木」
クワ科の落葉樹、楮属(こうぞ)。本州の中部以南に分布、樹皮は紙・布を製する。梶葉・梶紋とよばれる紋章はこの若木の葉を模様化したもので昔から神木として尊ばれている。
古代から諏訪地方に政権を保持した大祝諏訪氏の衣服に、鎌倉時代には旗印として用いた。現在の図案化されたものは江戸時代以降である。
頼岳寺の開基となった高島藩初代藩主諏訪頼水公の縁により、藩主家の紋章を寺紋として用いている。(略)
(頼岳寺設置の案内板から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
諏訪氏頼岳寺御廟所
150919_1133_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
諏訪氏頼岳寺御廟所
少林山頼岳寺は曹洞宗に属し、諏訪地方における名刹である。永明寺の破却後、高島藩初代藩主諏訪頼水が寛永八年(一六三一)群馬県北群馬郡子持村の最大山雙林寺十三世大通関徹を招いて、諏訪氏の菩提寺として開創した寺である。
御廟は三室に別かれ、中央が頼水の父頼忠(永明寺殿)、右が頼忠夫人(理昌院殿)で、と塔婆はともに五輪塔と訪篋印塔である。左側は頼水(頼岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置されている。
二代藩主忠恒が、後に城下町上諏訪にあらたに菩提寺を建立したので、以後歴代藩主の墓所は温泉寺に移った。
境内には、三代藩主忠晴の早逝した二人の子、大祝家、二の丸家および旧藩士の墓がある。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
E-Mail
URL
Comment
Password   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
ブログ内検索
ブログランキング投票
- ランキングに参加中 -
ポチっとクリック!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 長野県情報へ
にほんブログ村
プロフィール
HN:
管理人ひろさく
性別:
男性
趣味:
里山めぐり
自己紹介:
長野県長野市在住。
カテゴリー
最新コメント
[11/23 たっきー]
[11/22 管理人ひろさく]
[11/22 管理人ひろさく]
[11/21 ロクエフ]
[11/21 たっきー]
カウンター
アクセス解析
忍者アナライズ

Template By Emile*Emilie / Material by Auto-Alice
忍者ブログ [PR]