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100817_1212_法華寺(諏訪市)

諏訪市中洲にある禅宗の寺院(地図)。
天正10年(1582)4月、武田勝頼を滅ぼした織田信長が本営として滞在した場所で、ここで甲州攻めの論功行賞が行われました。その際、多くの武将が居並ぶ前で明智光秀を叱責したと伝えられており、このことが後の本能寺の変に繋がったとされています。
また法華寺には、赤穂浪士の討ち入りで知られる吉良上野介義央の養嗣子である義周(義央の長男で米沢藩主上杉綱紀の次男、義央の孫)の墓があります。義周は、元禄15年(1702)12月に起きた討ち入りの対応について幕府から咎めを受け、改易。諏訪高島藩に流され、その3年後に病のため亡くなりました。
(写真:法華寺=17日撮影)

<管理人ひとこと>
松本タウン情報に、織田信長と明智光秀の法華寺における事件について、松本市内にある高校の先生が記事を寄せていたことを思い出しました。幸いにもご本人がブログで詳しく紹介されていましたので参考にご覧ください。

<参考HP>
・ 諏訪市観光ガイド
  http://www.suwakanko.jp/
・ ホムタすわ 地域発、諏訪市の総合情報サイト
  http://homtasuwa.net/
・ 熱く、散って、逝った武将・もののふ達へ
  http://ameblo.jp/yamazakibakufu/
 
<参考資料> 鷲峰山法華寺
もと天台宗であったが、鎌倉時代寛元年間領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて禅宗に改めた。天正十年織田信長が甲州征伐の時、この寺を本営として対陣して論功行賞を行ない、多くの武将たちが集まった。信長が明智光秀を愚弄して恨まれ、本能寺の変の原因の一つをつくったのは、ここの寺である。

<参考資料> 吉良義周墓
吉良左兵衛義周(一六八六~一七〇六)は米沢藩主上杉綱憲の次男であったが、祖父にあたる吉良義央(上総介)の養子となり、元禄一四年(一七〇一)吉良家を継いだ。
元禄一五年一二月一四日、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討入りに遭遇し、自身も手傷を負う。翌年、評定所に呼び出され、大目付より「仕方不届」として領地召上を申し渡され、諏訪安芸藝守忠虎(四代高島藩主)へお預けの身となった。高島城南之丸へ囲われた義周への処遇は、丁重かつ儀礼を尽くしたものであったことが伝えられている。
しかし、配流から三年後の宝永三年(一七〇六)一月二〇日、二一歳の若さで病死してしまう。幕府による検死の後、同年二月四日、法華寺裏手に埋葬された。
墓石には「室燈院殿岱嶽徹宗大居士神儀寶永三丙戌天正月廿日」と刻まれている。
(諏訪市教育委員会設置の案内板から)





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