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081213_1256_高島城(諏訪市)

諏訪湖に突き出ていたことから「諏訪の浮城」とも呼ばれた高島城(地図)は、豊臣秀吉の部将であった日根野織部正高吉によって築城されたもので、江戸時代には、諏訪藩主の居城となり、中山道や甲州街道の往来を取り締まる任に就きました。維新後の明治8年(1875)、政府により天守閣が撤去され、翌9年5月、城跡は高島公園として一般に公開されました。現在の天守閣は、昭和45年に復興されたもので、三層の天守閣内部は諏訪藩に関する資料を展示した博物館となっています。
(写真=13日撮影、640×480拡大可能)
 
 <参考HP>
・ 諏訪市ホームページ
  http://www.suwakanko.jp/

<参考資料> 高島城
この地は高島城本丸跡である。この城は、およそ三百八十年前、文禄・慶長年間日根野織部正高吉が七年を要し彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われている。関が原役の後は諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新までつづいた。
この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった。
本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方、また賄方などがあり、能舞台、米餅部屋など多くの建物で埋まっていた。
明治維新の改革で高島藩は消え、明治八年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城二百六十余年間、一度も一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であった。
明治九年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人々の心のよりどころとして親しまれてきた。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿をのこして近世の城郭を考えるいい資料である。今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。
庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩木諏訪市長が自らの設計により、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表わし、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。
(昭和四十五年五月建立の碑から)





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