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Screenshot_20191130-113600_《駅ハイ》高萩の歴史と食材を味わうコース
aruku&(あるくと)
https://www.arukuto.jp/
令和元年10月1日(火)から12月1日(日)まで開催されたJR常磐線高萩駅(茨城県高萩市発着の駅ハイ「高萩の歴史と食材を味わうコース」(No.0619008)に参加しました。 このコースは、高萩駅(高萩観光案内所メモリア・長久保赤水銅像)から、能仁寺、茨城県指定有形文化財・穂積家住宅、松岡小学校・アプローチ広場・丹生神社を経て、高萩駅に戻るもので、歩行距離は約10km。所要時間は、途中、常陸きこりの会(ブログ)の方に、整備中の竜子山城(松岡城)址本丸までご案内いただいたことや、松岡小学校に設けられている郷土資料室就将館の見学等々があったため、概ね4時間ほど要しました。
(写真:茨城県高萩市周辺=令和元年11月30日撮影、640×480拡大可能)

開催日時:
令和元年10月1日(火)
集合場所:
常磐線高萩駅(茨城県高萩市)
集合時間:
午前10時~午前12時30分
歩行距離:約10km
所要時間:約4時間
参考HP:
駅からハイキング&ウォーキング
https://www.jreast.co.jp/ekihai/
高萩市
http://www.city.takahagi.ibaraki.jp/
高萩市観光協会
http://www.takahagi-kanko.jp/


191130_0655_JR長野駅(長野市) 191130_0700_JR長野駅(長野市)
JR長野駅 北陸新幹線
191130_0840_JR上野駅(東京都台東区) 191130_1054_JR常磐線高萩駅(茨城県高萩市)
JR上野駅 常磐線乗換 JR常磐線高萩駅

長野市から茨城県高萩市へは、北陸新幹線・常磐線を利用しました。参加当日は、長野駅発午前7時7分の金沢発東京行のかがやき500号で先ずは上野駅へ。上野駅からは、午前9時発の特急ひたちで水戸・日立を経て高萩に向かいました。
切符は、1週間前に長野駅のみどりの窓口にて手配しましたが、既にかがやき500号は満席で、幸いにもそのうちの1席が確保できたという状況でした。また復路については、金沢行きのかがやきが満席だったため、後に出発するはくたかを案内され座席を確保することができました。このはくたか、長野駅到着時に同じ車両で下車した乗客は自分も含めてたった3人だけで、多くは富山・金沢に向かう人たちでした。北陸新幹線は、もはやその名前の通り、北陸に住む人たちの大事な足になっているんだなぁと改め感じたのでありました。
また、この日は福島県いわき市が最終目的地であったため、みどりの窓口で途中下車しながらの旅行である旨を相談したところ、週末限定で利用できる週末フリー切符を案内されました。長野といわきを単純に往復する切符よりも安価で、しかも今回のように途中下車を目的とする場合でも1枚で改札を通過できるので、迷うことなくこちらを購入しました。北東北を除いて、JR東日本エリアのほぼ全域で利用できるのでおススメしたい切符として紹介しておきます。

《駅ハイ》高萩の歴史と食材を味わうコース
JR常磐線高萩駅→高萩観光案内所メモリア→長久保赤水銅像→(4700m、徒歩約60分)→※北宿並木一本松跡→穂積家住宅(高萩茶寮)→(1500m、徒歩約20分)→※竜子山城跡本丸→松岡小学校郷土資料室就将館→(100m、徒歩約2分)→アプローチ広場→(100m、徒歩4分)→丹生神社→(3500m、徒歩約45分)→JR常磐線高萩駅

191130_1055_JR高萩駅前に設置されている長久保赤水銅像(茨城県高萩市) 191130_1054_JR高萩駅前に設置されている長久保赤水作成の日本地図(茨城県高萩市)
長久保赤水銅像 赤水作成の日本地図

<参考資料> 長久保赤水銅像
(長久保)赤水( Wikipedia )は、享保二年(一七一七)に水戸領赤浜村(高萩市赤浜)の農家に生れ、享和元年(一八〇一)まで地理学の先駆者として活躍しました。子どもの頃は体が弱く、不運にも弟・母・父にも先立たれてしまいます。その逆境に耐え、赤水が学問に専念できたのは継母の支えによるものです。さらに、地元の鈴木玄淳や柴田平蔵、水戸の名越南渓など良き師友にも恵まれました。
四十歳半ばには、時代を先取りした研究への批判に遭い、学者の道を断たれそうになったこともあります。しかし、並外れた努力が報われ、水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講(おそばに仕える先生)に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学・地理学・天文学などを教授しました。
そして、当時としては地の果てといってもいい東北や長崎の旅の経験を基に、渋川春海・森幸安らの日本地図を参考にし、奥州道を行きかう旅人や高山彦九郎、木村蒹霞堂、古川古松軒などから得た情報を整合させ、緯度経線を付した新しい日本地図を完成させました。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は大阪から発刊され、後世、赤水図と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道しるべとなったのです。
侍講として江戸に赴いた翌年六十二歳の時、農民生活の窮状を水戸藩主に命をかけて上奏し、農政や藩政の改善に尽くしました。退官後八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理史編纂に専念した後、生れ故郷の赤浜に隠居しました。
赤水没後、かのシーボルトも赤水図を海外に持ち出し、今でも欧米の博物館や大学に大切に収められています。
赤水図の約半世紀後に作成された伊能忠敬の日本地図は幕府が非公開としたため、赤水図が江戸時代から明治時代初期まで広く世に用いられました。幕末の吉田松陰も赤水図を頼りに旅をし、赤水のお墓をお参りしています。
ここに、多くのご賛同をいただき、赤水先生の逆境を乗り越えた勇気と努力に学び、東日本大震災を乗り越える復興のシンボルとして、銅像を建立いたします。
(JR常磐線高萩駅前に設置された長久保赤水先生銅像建立実行委員会による案内板から・平成24年)

191130_1103_北宿並木一本松跡(茨城県高萩市) 191130_1150_能仁寺(茨城県高萩市)
北宿並木一本松跡 能仁寺

<参考資料> 北宿並木一本松跡
徳川家康は、慶長五年(一六〇〇年)の関ケ原の合戦に勝利した三年後の慶長八年(一六〇三年)に、江戸に幕府を開いた。その基盤を確保するため、江戸幕府は慶長九年(一六〇四年)に諸国に対して、五街道などへの一里塚の設置や松並木の植栽などを命じ、同時に宿場の設置なども推進した。
北宿並木一本松(きたじゅくなみきいっぽんまつ)もこれを受け、戸沢政盛が慶長一一年(一六〇六年)に当時の岩城街道に並木として植えたと考えられる。この北宿並木一歩松は、街道に残る最後の松といわれていた。
戸沢政盛は、慶長一一年(一六〇六年)に、竜子山城を松岡城と改め、この年から居城した。すでに、慶長七年(一六〇二年)から松岡地方を領有していたこともあり、この松並木の整備も戸沢政盛の時代に行われたものと推察される。
この北宿並木一本松は、「さがり松」という大層姿の良い松であり、樹高十六メートル、幹回り二・一メートルにおよび、市の文化財として指定されていた。しかし、平成二十一年の夏にマツノザイセンチュウの被害に遭い枯れ死したため、平成二十二年四月にやむなく伐採した。
(高萩市教育委員会設置の案内板から・平成25年)

191130_1159_穂積家住宅(茨城県高萩市) 191130_1207_朝香神社(茨城県高萩市)
穂積家住宅 朝香神社

<参考資料> 茨城県指定文化財 穂積家住宅
一、名称
  穂積家住宅 四棟
  主屋 一棟  長屋門 一棟
  前蔵 一棟  衣装蔵 一棟
  敷地 四一七二・七一平方米
   附 屋敷絵図屏風 一隻
一、指定年月日
  平成元年一月二十五日(建第六七号に指定)
一、所在地
  高萩市上手綱二三三七番地
一、所有管理者
  高萩市

概略
穂積家住宅は、江戸時代後期の民家として貴重なものである。
この住宅の主体をなす主屋は、五段茅葺屋根寄棟造りで、安永二年(一七七三年)の建築である。その後多少改造されているが、建築の時の原状が比較的良く保存されており、この地方における江戸時代の豪農住宅の代表的なものということができる。また、長屋門・土蔵・庭園・水路等も一体的な価値をもつものと判断される。
さらに、水戸領内の特色の一つである郷土制度の実態を考えるうえでも、これらの建築物の歴史的価値は大きい。
穂積家を支えていた財政的基礎は農耕・酒造・造林等の多角的経営であるが、これらは現存する屋敷絵図によっても明らかである。たとえば、屋敷の一部を流れる水路は、酒造用の水車を回転させるために用いたものである。
また、池の庭園は、当時、各地の文人を招待して、詩や歌の会を催した風雅な生活の一端を偲ぶことができる。
この住宅は、単に、建築様式を知るうえだけではなく、歴史を考えるうえにも大切な役割をもっている。
(高萩市教育委員会設置の案内板から・平成31年)

191130_1221_アプローチ広場(茨城県高萩市) 191130_1225_丹生神社(茨城県高萩市)
アプローチ広場 丹生神社
191130_1258_竜子山城址・松岡小学校(茨城県高萩市) 191130_1258_竜子山城址・中山家の蔵(茨城県高萩市)
松岡小学校 中山家の蔵

<参考資料> 竜子山城(松岡城)址
竜子山城( Wikipedia )は階段的連郭式の城郭であり、高萩市域の城館址の中では最大規模を有するものである。応永の末(一四二〇)ごろから高萩地方の地頭となった大塚氏が居城、慶長十一年(一六〇六)には出羽から国替えとなった戸沢政盛( Wikipedia )が現在の松岡小学校敷地の部分まで城地を拡張して山城を平山城とし、名も松岡城と改称した。戸沢氏の国替え後、城をあずけられた水戸藩家老中山氏は、文化元年(一八〇四)から館の普請を行った。
左図は文政二年(一八一九)の松岡城郭草之図である。最高地である本丸におかれた櫓台や折邪(おりひずみ)と呼ばれる土塁などに中世城郭の様式が残されており、山城の部分は大塚氏地代のものにさして手を加えたものではなかったように思われる。
(竜子山城址に設置されている案内板から)

<参考資料> 中山家の蔵(復元)
幕府は、江戸時代初期に尾張、紀州、水戸の徳川御三家をつくり、藩主の補佐役として有能な家臣を附家老として任命した。その際、水戸藩の附家老に選ばれたのが中山家であった。
中山家の蔵の建築年月は不明であるが、戦前は天皇・皇后の写真を安置する奉安所として使われていた。
以前は松岡小学校敷地の北西側にあったが、平成二十二年の校舎改築に合わせて現在の場所に移設した。
平成二十三年三月十一日の東日本大震災で被災したため、平成二十五年十一月に再建した。
(高萩市教育委員会設置の案内板から)


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