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管理人が利用しているウォーキングアプリ「aruku&(あるくと)に紹介されているウォーキングコース・新日本歩く道から「松代藩の名所旧跡をるぐる歴道と寺めぐりルート」を、夏季休暇の一日を利用して歩いてみました。
(写真:長野市松代町周辺=令和元年8月23日撮影、640×480拡大可能)

「aruku&」紹介文
歴史的道すじと真田十万石の城下町「真田家ゆかりの寺巡り」を楽しめる一挙両得のコースです。宝物館や文化財を巡り歴史や文化を知り、後半は、「真田家ゆかりの寺巡り」スタンプラリーが楽しめます。歴史的道すじは、戦国→江戸→幕末→第二次世界大戦と各時代に沿ったポイントがあり、風情ある町並みを存分に味わうことができます、それぞれの趣味思考に応じた新たな発見が期待できます。

《aruku&》新日本歩く道~
松代藩の名所旧跡をるぐる歴道と寺めぐりルート
S:松代城跡(海津城)→真田邸→真田宝物館→※旧樋口家住宅→文武学校→※旧白井家表門→象山神社(※高義亭・佐久間象山生家跡)一山寺常山邸→※竹山随護稲荷神社→恵明寺→象山地下壕→※象山山頂→象山記念館→旧横田家住宅→大英寺→旧金箱住宅(寺町商家)→蓮乗寺→願行寺→長国寺→梅翁院(※魚濫観世音)→松代藩鐘楼→矢澤家表門→G:松代城跡(海津城)
※はスポット指定のないもの


190823_1001_松代城跡(長野市松代町) 190823_1003_松代城跡案内図(長野市松代町)
松代城跡(海津城)
190823_1005_真田邸(長野市松代町) 190823_1007_旧樋口家住宅(長野市松代町)
真田邸 旧樋口家住宅
190823_1009_旧白井家表門(長野市松代町) 190823_1015_象山神社(長野市松代町)
旧白井家住宅表門 象山神社

<参考資料> 松代城(海津城)跡
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。
海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献で確認できるのは永禄三年(一五六〇)ですので、この頃にはすでに築城されていたことがわかります。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。
元和八年(一六二二)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。
その後、江戸時代の半ばには、水害などにより、本丸御殿の機能は城に南西に位置する花の丸御殿に移りました。
(案内板から)

<参考資料>
長野市指定有形文化財 旧白井家表門
この門は、表柴町に建っていたものだが、平成十二年に現在地に移築復元した。建築年代は、松代藩文書などから弘化三年(一八四六)であることがわかっている。
白井家は、松代藩の中級武士であり、真田家家中明細書によると、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めた。子の平左衛門も文武学校権教授に出仕し、また、佐久間象山との親交も密にしていた。
表門は、三間一戸門形式の長屋門で、門部は、太い槻の角材でつくってある。間口が二十メートル余の長大な門で、背面に三つの居室部を付設し、白井家の陪臣節などが居住したと見られ、門に住宅が続いているのも珍しい例といえる。桟瓦葺の大型長屋門は、松代藩では、天保期から多くなっているが、それ以前には茅葺の門が一般的であった。
旧白井家表門は、長大な間口に対して、茅尾根を低くおさえ、正面は間口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性に優れている。松代藩中級武士の代表的な表門として、旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から・平成28年)

<参考資料> 
長野市指定有形文化財 高義亭
もと松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあった建物である。安政元年(一八五四)佐久間象山( Wikipedia )は吉田松陰( Wikipedia )渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺(さんかわらぶ)きとする。下屋敷も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関(二坪)・取り次ぎの間(六畳)・次の間(九畳)・客間(一〇畳)・茶の間(六畳)・勝手(四畳半)と、西に納戸を造り出す。玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。客間と次の間は襖で仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付して二階の昇り口とする。
二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に六畳間、北に置床つき七畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間である。
明治以降住民が替わり、原型も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から・平成7年)

<参考資料> 御祭神 佐久間象山について
幕末の大先駆者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(一八一一)に生まれる。六才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、二十才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
二十三才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山・藤田東湖等と親交。三年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。
二十九才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
三十六才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
四十一才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の再、軍議役として横浜警備に当る。開国論を唱え横浜開港を主張する。松陰密航事件に連座して投獄される。
四十四才から九年間松代に蟄居される。この間、高杉晋作・久坂玄瑞( Wikipedia )・山形半蔵( Wikipedia )・中岡慎太郎・石黒忠悳(ただのり)らが面会に訪れ、時世について激論、象山の学識に感動して去る。
五十四才元治元年(一八六四)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士( Wikipedia )の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和十三年十一月三日県社として創建された。
(象山神社にある財団法人佐久間象山先生顕彰会設置の案内板から)

<参考資料> 県史跡 佐久間象山宅跡
ここは象山の曽祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化八年(一八一一)二月十一日この地で生まれた。天保十年(一八三九)の二度目の江戸留学まで二九年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学または神渓とも号した)といい、五両五人扶持(七〇石相当)の家だったが、剣は卜(ぼく)伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門であった。
屋敷の指定面積は、八七七・八平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。住宅は屋敷東寄り中央に東西五間、南北三間半の茅葺平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所があり、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
万治元年(一八六四)三月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、同年七月十一日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年五四歳。佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 茶室 煙雨亭(えんうてい)
佐久間象山は、松代における九年の蟄居の後、元治元年(一八六四)三月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。その家は平屋で広く、茶室までも備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めの良い家であった。象山は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけた。同年七月十一日、攘夷論者のため悲業の最後を迎える迄に僅か二ヶ月の住居であった。
この茶室は、その煙雨楼内の茶室で、昭和四十年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏がその資材を譲り受け保管されていた。
昭和五十六年にこの資材をご寄贈いただき、象山の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、象山ゆかりの地に同年移築したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)


190823_1023_山寺常山邸(長野市松代町) 190823_1025_山寺常山邸(長野市松代町)
山寺常山邸
190823_1031_竹山随護稲荷神社(長野市松代町) 190823_1039_恵明禅寺(長野市松代町)
竹山随護稲荷神社 恵明禅寺

<参考資料> 山寺常山(やまでらじょうざん)邸
山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山( Wikipedia )を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、通称源太夫(げんだいゆ)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。八代藩(※松代藩の間違いか?)主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってはその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬:たいちくろ)が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦( Wikipedia )らが、長野城山に建つ碑文の摩耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。
(長野市設置の案内板から)

<参考資料> 武家屋敷庭園の特徴
松代町の武家屋敷庭園の特徴は、大名庭園とは異なり、武士の日常の暮らしと密着した生活の庭であるということです。鑑賞専用の庭ではないため、巨石、銘木なども少なく岩組みも質素なもので、伝統的な日本庭園の様式を感じさせるものはほとんどありません。泉水(池)には、観賞用だけでなく食用として鯉が飼われ、別に洗い場も作られ洗濯などにも利用されていました。また、庭園の植木は造園樹木だけでなく、カキ、ウメ、アンズなどの食用の果樹も植えられました。多くの庭園には縁起物としてカシワが植えられ、その葉は柏餅など食べ物を包むためにも利用されました。
松代町の武家屋敷庭園のもう一つの特徴として、周辺の山並みを景色として取り込んだ借景式庭園であることがあげられます。この山寺常山邸の庭園も象山を借景としています。
(案内板から)

<参考資料> 泉水路(せんすいろ
松代町の各武家屋敷の泉水(池)は、「泉水路」と呼ばれる水路でつながっています。さらに城下町には、「泉水路」の他にも、住民の誰もが利用できる水路網が張り巡らされていました。この水系システムが貴重な文化遺産として注目されています。
水路はその機能ごとに3つに分類されます。まず、武家屋敷の池から池へ流れる「泉水路」と呼ばれる水路で、泉水(池)の水量を確保しただけでなく、農業用水、防火用水、夏の散水、冬の雪落し、下流での洪水を防ぐ遊水池、養鯉など、極めて多様な機能を果たしていました。次に「カワ」と呼ばれる道路の脇を流れる水路で、周辺の農業用水や選択などの家庭用中水道としての役割も果たしていました。元来は道路の中央を流れていました。さらに、屋敷裏の背割りを流れる「セギ」と呼ばれる水路で、武家屋敷の畑の灌漑用として利用されていました。
この水系システムは、江戸時代から現在まで受け継がれており、松代町の武家屋敷の特徴です。全国的にいても、このような水系システムを有しているのは、この松代町だけといわれています。
(山寺常山邸に設置された案内から)

<参考資料> 
寺号 黄檗宗 象山 恵明禅寺
本尊 釈迦如来
大本山 黄檗山 萬福寺(京都市宇治市)
黄檗開祖 隠元禅師(中国僧一五九二~一六七三)
恵明禅寺は第三代松代藩主真田伊豆守幸道公の開基で、延宝五年六月(一六七奈)の造営であり開祖は黄檗二祖木庵禅師(中国僧一六一一~一六八四)である。文政八年五月(一八二五)本堂から出火、おりからの烈風にあおられ本堂、開山堂、霊屋、庫裡、鐘楼そして木庵禅師伝来の佛像、什物等ことごとく灰燼に帰してしまい、僅かに地蔵堂、不二庵、山門を残したのみであるが、また暫くして不二庵から出火、地蔵堂とともに焼失してしまい、当時から残るは山門のみである。
このようにして再度の災禍によるも、天保四年十月(一八三三)第八代松代藩主真田伊豆守幸貫公により本堂、霊屋、鐘楼、庫裡が再建される。堂内には釈迦三尊をはじめとして、中国佛師による木庵禅師像、幸貫公自作の布袋和尚像、それに享保八年三月(一七二三)第四代松代藩主真田伊豆守信弘公により真田屋敷より遷座された稲荷大明神等が祭り祀られている。また、境内には第三代松代藩主真田伊豆守幸道公の奥方「豊姫」、松代雅楽の祖宮島春松先生、松代文化財愛護功労者長岡助治郎先生、天文学者西澤茂台先生等の墓がある。

寺号の由来 開祖木庵禅師が中国で最後に住持されていた寺が泉州の象山慧明寺であり、これに因み象山恵明禅寺と号す。
(境内に設置された案内板から)

<参考資料> 
第三代松代藩主 真田幸道公の奥方
豊姫の霊屋
豊姫は伊予宇和島藩主伊達宗利公(仙台藩祖伊達政宗公の孫)の息女で、万治二年十二月十日(一六五九年)江戸邸で生まれる。
延宝元年七月二十六日(一六七三年)十五歳にして、幸道公(十七歳)に嫁ぐ。豊姫が実家から「鉢植の杏」を取りよせ愛賞されていたことがあって、これが杏の樹が松代に来た始めであると言われている。
以来、アンズが薬用樹として松代藩の殖産興業の一つとして藩内に広く採植されるに至った。享保十八年七月五日(一七三三年)七十五歳にて卒。
法名 法雲院 殿慈栄元光尼禅師
(案内板から)

<参考資料> 宮島春松
松代雅楽の育成者 松代町竹山町
嘉永元年(一八四八)~明治三十七年(一九〇四)
享年五十七歳 菩提寺・恵明寺

松代藩士宮島嘉織(※)の長男として生まれ、漢学を松木厳八に、雅楽を金井御楯に、英仏語を武田斐三郎に学ぶ。陸軍省翻訳官となり、多くのフランス式兵書を訳した他、「欧州小説 哲烈 禍福譚」等も翻訳。雅楽の造詣が深く、東京本郷で雅楽協会を組織する一方、郷里松代での後継者育成にも心血を注ぎ、自らも「松代雅楽」と称される五十余曲を作曲、日本三代雅楽の一つに育てあげた。
(案内板から)

<参考資料> 長岡助治郎
文武学校の保存・松代雅楽の普及者
明治四年(一八七一)~昭和十四年(一九三九)
享年六十九歳 菩提寺・恵明寺
松代藩士長岡茂一の次男として生まれ、松代小学校音楽教師となる。飯島忠夫らとともに、宮島春松から松代雅楽を学び、春松の衣鉢を継ぎ、雅楽協会松代支部を組織し雅楽普及につとめた。
文武学校の保存・大門踊の復興・松代城模型制作等にも力を尽くし、松代の伝統文化を後世に残す。大正八年、松代町史編纂につとめた。
(案内板から)


190823_1042_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1043_松代象山地下壕(長野市松代町)
松代象山地下壕入口 地下壕内部
190823_1047_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1050_松代象山地下壕(長野市松代町)
削岩機ロッド 未完の地下壕
190823_1054_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1057_松代象山地下壕(長野市松代町)
トロッコ枕木の跡 見学最深部 測点跡

<参考資料> 松代象山地下壕
松代大本営地下壕( Wikipedia )は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山、象山に基盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約十キロメートル余りに及んでいます。
ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日から翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約八割が完成しました。
この建設には、当時の金額で一億円とも二億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります。
松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
松代象山地下壕の現況
総延長 五、八五三.六メートル
(うち一三八・七メートルは信州大学宇宙線地下観測室となっている。)
概算堀削工量 五九、六三五立方メートル
床面積 ニ三、四〇四平方メートル
(長野市設置の案内板から)

削岩機ロッド
削岩機はコンプレッサーから送られる圧縮空気を操作する搾手部と、回転する鉄棒のロッド部と、その先端についた岩を砕くビットから成っている。
当時はこの削岩機により岩に穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け破砕した。この時抜けなくなったロッドが壕内に数本ある。
なお、削岩機のロットによる穴跡は壁面に無数に残っている。

トロッコ枕木の跡
壕内で彫った石屑(ズリ)はトロッコに乗せて壕外に搬出された。トロッコは土木工事用の運搬手押し4輪台車で、枕木によって固定されたレール(軌条)上を走行していた。
その枕木の周囲に砂が落ち凹ができた。その凹の跡が当時の作業を如実に物語っている。

測点跡
壕を精巧な網の目状に堀削するにあたり、壕の東西・水平を測量した跡といわれている。
天井に四角い杭がささっており、その先には釘の先端が残されているが、これは測量時におもりをぶら下げたものと考えられている。


190823_1112_象山登山道(長野市松代町) 190823_1122_象山登山道(長野市松代町)
象山登山口 途中の東屋
190823_1130_象山山頂(長野市松代町) 190823_1131_象山山頂(長野市松代町)
象山山頂 山頂からの眺め

今回は、ウォーキングルート(スポット)には指定されていない象山山頂も訪ねてみました。前日の雨降りの影響もあり、登山道には多少の泥濘があったものの、どうにか山頂にたどりつくことができました。


190823_1157_旧横田家住宅(長野市松代町) 190823_1207_寺町商家(長野市松代町)
旧横田家住宅 旧金箱住宅(寺町商家)
190823_1213_蓮乗寺(長野市松代町) 190823_1222_長国寺(長野市松代町)
蓮乗寺 長国寺
190823_1235_梅翁院(長野市松代町) 190823_1243_旧松代藩鐘楼(長野市松代町)
梅翁院(魚濫観世音) 旧松代藩鐘楼

<参考資料> 大英寺の歴史
皓月山大英寺は、松代藩初代の藩主真田信之が、その奥方であった小松姫(大蓮院殿)の菩提を弔うために建立した寺である。
小松姫は徳川家の重臣本田忠勝の娘であり、しかも徳川家康の養女となって嫁いだので、信之を助け大変立派な奥方だったといわれたが、元和六年に小松姫が亡くなると信之は大変に落胆して嘆きもひとしおであった。
小松姫の戒名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼で、大英寺の名前もこれによる。
小松姫が亡くなったのは、信之がまだ上田城主の頃だったので、上田の常福寺(今の芳泉寺)に葬られて、お墓やお霊屋が建てられたが、元和八年、信之は松城(松代)へ転封になったので、松城に大蓮院殿の寺を移し、これが今の大英寺である。
上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。(このお霊屋が現在の本堂で県宝に指定されている。)その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに、諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。
完成した大英寺は、常福寺の含霊大和尚によって開山された。
慶安二年には幕府より百石の御朱印を頂戴し、宝永七年に本堂と庫裏、衆寮などを建立した。享保十九年火災を起こして焼失し、寛保元年に再建に着手し同二年完成した。また天明五年お霊屋の大修理等、全て松代藩真田家によって行われた。
明治維新のあとは、真田家の援助も領地もすべて無くなってしまったので、大きな寺の維持は困難になり、いくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いして、お霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏も造った。
大英寺は、江戸時代初期からの歴史が境内の所々にみられる、浄土宗の由緒ある寺である。
(皓月山大英寺設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 大英寺本堂及び表門
この本堂及び表門は寛永元年(一六二四)真田信之が、夫人大蓮院殿英譽皓月大禪定院尼(徳川家康の養女、実は本田忠勝の娘、小松姫)の霊屋として建立したもので、萬年堂とも称した。明治初年大英寺の諸堂が取り壊された際に、この霊屋を同時の本堂に代要したものである。外観は円柱に舟肘木(ふなひじき)、一軒で簡素であるが、内部は、内・外陣境に円柱を立てて、中敷居格子の間仕切りを設け(今、格子戸はない)柱上に出組の組物を置き、内陣奥に来迎柱を立て、禪宗様仏壇をおく。但し来迎壁を取り除いて佛像を安置しているのは、寺の本堂にしたときの改造である。
内部の彩色は天明五年(一七八五)修理の再彩色である。柱や組物には、極彩色が施され豪華な建物である。
太い柱で、木割も太く垂木には反りをもち縁束(えんづか)を柱筋に揃えているなど古風な造りで、真田家霊屋中最も古い建物である。
表門も霊屋の正門として同時に建立されたもので、霊屋にふさわしい豪壮な桟瓦葺(さんかわらふ)き四脚門である。
(長野市教育委員会・大英寺設置の案内板から・平成15年)

<参考資料> 松代製糸改良組跡地
明治後期に結成された松代の産業組合製糸。明治42年(1909)の松代町内製糸工場一覧(農商務省工務局工務課編纂)に、松代製糸改良組再繰工場、代表者大里孝、職工数男4人、女15人の記載がある。揚げ返し仕上げの再繰工場だった。
(案内板から)

<参考資料> 松代 魚濫観世音
真田十万石松代藩初代信之公側室
多摩川井豫守女 右京
梅翁院殿正岳妙貞大姉淑霊
寛文十一年辛庚年(一六七二)十一月五日歿

当院開基は極めて聡明なひとにて、信之公に忠義甚だ厚く寵愛を一身にあつめ、公が晩年隠居万治元年入門して一當齋と号されたが、その極老にまで日夜身辺に付き添われた。一當齋は同年十月十七日柴村にて九十三歳薨去(「御遺物雑記」によれば多摩川井豫守女右京は金子千両の配分を受けられた)。
その後は剃髪して妙貞と云い清花院殿と稱された。京都の尼寺に住して日頃信仰の魚濫観世音をまつりて信心を込め専ら信之公の冥福を念じたといわれる。歿後真田家が右京尼とその両親の菩提を弔うため当寺を創立開基として改めて戒名を梅翁院殿正岳妙貞大姉と尊稱した。当院にその墓所がある。開山は長国寺六世稟室大承和尚である。
當山二十世、あるとき感応を蒙り魚濫観世音を勧請し、一心に信仰していたが、はからずも開基右京尼が生前守り本尊として祭祀していたことが口碑に伝わっていることを知り驚き、深く感銘を受ける。
魚濫観世音は水縁深くものを生み、また育てる力を具備し、妙智力を持って善男善女に利益を授けられる菩薩である。憶念の信力により加護を蒙るは必定なり。この祈願殿安座の尊像は江戸中期の作と云われる。
(案内板から)

<参考資料>
本尊  釈迦牟尼仏
観音堂 魚濫観音
松代藩初代藩主真田信之の側室玉川伊豫守女右京(梅翁院)とその両親の菩提を弔うため真田家が創立。開山は長国寺六世稟室大承。
右京は、魚濫観音を篤く信仰。水と縁が深い観音様で、善男善女に多くの利益を授けるとされ、観音縁日や二年参り祈祷祈願法要などには多くの人が参集する。
現本堂は文久元年(一八六一)の再建。天蓋は真田家霊屋から移したもの。曹洞宗参禅道場も併設されている。墓地入口に右京の墓、かわいらしい一つの光背の六地蔵、童謡「見てござる」の歌碑がある。
(案内板から)

<参考資料>
長野市指定有形文化財 旧松代藩鐘楼
旧松代藩鐘楼は真田信之が松代に入封直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓の役割を兼ねていた。
昼夜の区別なく一刻(二時間)ごとに時刻を知らせたほか、城下で出火があった際にも鐘を撞いて非常を知らせていた。
その後三度の火災に見舞われ、現在の鐘楼は享和元年(一八〇一)の再建にあたり、鐘楼と火の見櫓を別棟にして造営された。
また鐘は太平洋戦争で供出され、現在のものは平成三年に旧鐘の寸法や重さを摸して取り付けられたものである。
この鐘楼で、江戸の末期に、佐久間象山が電信実験をしたという言い伝えが残されている。
構造は石積みの基壇の上に立つ井楼式高櫓形鐘楼で、高さは約十二メートル、屋根は切妻の瓦葺きである。
屋根まで伸びる四隅の柱を保護するため、支え柱を立て、下見板張りとしている。
内部は三層になっており、土間を除いて床は板張りとし、各階をはしごでつないでいる。
平成二十二年度から、保存修理工事を実施、あわせて周辺を広場として平成二十六年三月まで整備した。
(長野市教育委員会設置の案内板から)


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