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《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
※新型コロナウィルス感染拡大を考慮して中止
開催日時:
令和2年1月7日(火)~3月31日(火)
集合場所:
北陸新幹線上田駅・上田駅観光案内所(上田市)
集合時間:
午前9時30分~午前11時
歩行距離:約8km
所要時間:約3時間30分
参考HP:
駅からハイキング&ウォーキング
https://www.jreast.co.jp/ekihai/
信州うえだ ロケ地探訪マップ
https://map.umic.jp/loca_map/director.html

《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
JR北陸新幹線(しなの鉄道)上田駅→上田駅観光案内所→(桝網用水・蚕影町)→常田館(姿三四郎)→(科野大宮社)→上田蚕種株式会社→(毘沙門堂跡・宗吽寺・横町)→上田劇場(青天の霹靂)→海野町(閉鎖病棟-それぞれの朝一-)→袋町(兄消える)→本陽寺(姿三四郎)→柳町(犬神家の一族)→矢出沢川・高橋周辺→(芳泉寺)→上田城跡公園野球場(ラストゲーム最後の早慶戦)→上田城跡公園→(サマーウォーズ)→けやき並木遊歩道(およう、 LOVE SONG)→上田市観光会館→(旧上田市立図書館)→上田駅

新型コロナウィルスの影響で開催中止(令和2年2月28日~3月31日)となる前の24日に参加(No.1219045)しました。
(写真:長野県上田市周辺=令和2年2月24日撮影、640×480拡大可能)

《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
200224_0852_しなの鉄道長野駅(長野市) 200224_1015_しなの鉄道上田駅(上田市)
しなの鉄道 長野駅 しなの鉄道 上田駅

<参考資料> 桝網用水
桝網(ますあみ)用水は、坂城まで続く千曲川右岸で最大の用水です。取水口は、江戸時代中頃には上田城崖下の尼ヶ淵に入る千曲川の分流から取り入れていたようですが、その後上流に移されました。
明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池、製糸工場などができ、下流の秋和・塩尻地区では、長い間農業や生活用水として利用されてきました。
(上田まち物語案内板から)

<参考資料> 蚕影町(こかげちょう)の由来
蚕影町の名前は、明治二十一年に完成した「上田停車場」の下に眠る「蚕影神社」に由来したと考えられる。
明治二十二年、上田橋が竣工すると駅前から東方へ道がひらけ、権現坂までを蚕影町と名づけられた。
この周辺は一面の桑畑であったが、同二十三円小県蚕業学校(現上田東高校)が常入に新築移転されると、駅からの通学路として賑わった。また常田館が設立されて機械製糸が主流となり、この町は蚕の道(シルクロード)と呼ばれて蚕都(さんと)の全盛を迎えた。現在は天神一丁目である。
(蚕影町商店会設置の案内板から・平成15年)

200224_1026_旧常田館製糸場(上田市) 200224_1041_科野大宮社(上田市)
旧常田館製糸場施設 科野大宮社

<参考資料>
重要文化財 旧常田館製糸場施設
上田市指定文化財 笠原工業常田館製糸場
笠原工業に残る製糸工場の遺産は、明治・大正期に隆盛を極め、「蚕都」とうたわれた当上田地域の製糸工場に関連する倉庫群や建造物が、セットとして残っていることにその価値が集約されます。近代には全国に偏在し、日本の近代化の原動力となった製糸工場には、直接生産の工場だけでなく、従業員の衣・食・住に加え、文化施設や医療施設までも備えていましたが、戦後の製糸業の衰退の中でこれらの公表は次々と姿を消していきました。
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれた笠原房吉は、開通したばかりの信越線上瀧に近いこの地に、明治33年(1900)「常田館製糸場」(屋号は〇ニ)を創業しました。以来110余年、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転等の紆余曲折を経ながら今日に至っています。かつてあった娯楽場や病室は失われてしまっているものの、近代製糸工場の特徴を示す多層式倉庫群(乾燥通風用の窓が多く開けられ、階層も多い倉庫)や建造物がまとまって残っているのは、県内ではここだけとなっています。
製糸場遺構では群馬県の富岡製糸場が有名ですが、富岡製糸場は国営の模範工場としてフランス敷の製糸を行っていたのに対し、この常田館をはじめとする諏訪・岡谷では民営で、イタリー式製糸を行っており、日本の近代製糸業を語り対比する上で欠かすことのできない遺産です。
個々の建物でも、五階繭倉庫などは木造倉庫として国内最高層の貴重な存在となっているほか、大正時代末の鉄筋コンクリート造りの繭倉庫、外観の一階が和風で二階が洋風の事務所兼住宅(常田館)など、稀少な建物も多く遺っています。特に4棟残る繭倉庫は、初期の多窓式多層倉庫から、繭乾燥機が発達した時代の倉庫までの変遷を歴然と残り、学術的にも貴重な近代化遺産として指定されました。
(上田市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>
市指定天然記念物 科野大宮社の社叢
科野大宮社は、大巳貴命(おおなむらのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭神とする。延喜式にはないが、それ以前からの古社で、国分寺との関係も考えられ、あるいは信濃国府の総社であったかと思われる。境内は、東西四十九メートル、南北三十八メートル、面積二、一四二平方メートルで、社叢の三十余本のうち主なものは、けやき四本(枯死した神木一本を含む)、すぎ三本、むろ二本、大いちょう一本などがある。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

200224_1046_上田蚕種株式会社(上田市) 200224_1054_毘沙門堂(上田市)
上田蚕種株式会社 毘沙門堂跡
200224_1059_日輪寺(上田市) 200224_1105_宗吽寺(上田市)
日輪寺 宗吽寺 石幢

<参考資料>
市指定記念物 活文禅師遺跡一号 毘沙門堂跡
文政七年に龍洞院を辞した禅師は岩門の大日堂に隠居し寺子屋を開いた。文政十二年(一八二九)に、この毘沙門堂へ移り寺子屋をつづけ、ここで生涯を閉じた。
師に教えをうけた人は、佐久間象山をはじめ、一〇〇〇余人に及び幕末から明治維新にかけて、この地方で活躍した者が多い。禅師は禅学は勿論、和漢の学、彫刻、詩歌等にも通じ、蘭学を修め、時勢の動きに通じ、その学識と見識は、まことに髙く深いものがあった。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

<参考資料>
上田市有形文化財 宗吽寺石幢
石幢は普通六角形の石灯篭型で、六面に六地蔵を浮彫りにするか、六面に窓をあけて内部に六地蔵を置くのが普通であるが、これは切妻屋根の家型で正面と左右側面に二躰ずつ浮彫りにし、中央の前後に長方形の口をあけた極めて例の少い貴重な遺例である。
しかも裏面の正平二二(※)年丑己(※)七月五日の陰刻銘は、南北朝地代の南朝の年号で紀元一三四九年に当り、北朝年号の多い当地方では、唯一の貴重な歴史資料である。二二年は死に通じる音の四をさけて二を二つ並べたものである。
左右にあけた日月形の窓は石幢の意味を知らない後人の改造であり、台石も後補である。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和57年)

200224_1109_上田映劇(上田市) 200224_1110_上田映劇(上田市)
上田映劇
200224_1112_海野町商店街・志まんやき(上田市) 200224_1116_香青軒(上田市)
海野町商店街 志まんやき 香青軒
200224_1122_本陽寺(上田市) 200224_1126_浄念寺(上田市)
本陽寺 浄念寺

<参考資料> 横町の由来
城下町のうち海野町が発展するにつれて、旅籠屋・商家職人などが増加し、海野町から南に折れ街道筋にできた横の町であるため横町と呼んだ。この町は北側にも延びて鍛冶町に続いた。横町と鍛冶町は寺が多く、城下町防備のために並べたといわれる。
(案内板から)

<参考HP>
・ 海野町商店街(ブログ)
  http://unnomachi.naganoblog.jp/
・ 上田映劇
  http://www.uedaeigeki.com/

<参考資料> 日蓮宗 妙栄山 本陽寺
本尊・久遠実成本師釈迦牟尼仏
二代目上田藩主となった仙石氏が、元和八年(一六二二年)移封の時小諸から移したお寺。
仁王門をくぐると正面に本堂、右手のお堂は番神堂で三十番神を祀ります。その前に建つのが鬼子母神堂で鬼子母神を祀ってあります。
奥の左ての大きな玄関は上田藩主の館から移築された由緒ある玄関です。
毎年十月十四日・十五日には地域の多くの人々に親しまれている「おばんじんさん」「ざくろまつり」が盛大に執り行われます。
(案内板から)

<参考資料> 浄土宗 七重山 浄念寺
本尊 阿弥陀如来
本堂と観音堂が合築された珍しい様式
創建は永禄二年(室町時代後期一五五九年)
第四次川中島合戦の二年前
現在地 田町には元禄九年(一六九六年)移転
・本尊阿弥陀亥如来の西脇には脇侍として観音菩薩と勢至菩薩が立ち、本堂奥手に焔魔堂が配されています黒光りした十王像があり時代を感じさせます
・聖観音像は治承年間(一一七七年)海野弥平四郎幸広(木曽義仲の臣)の守り本尊であったものを聖誉上人が観音堂を造って安置したと伝えられます
・縁切り地蔵は市内でも一、二誇る巨大なお地蔵様 悪縁を切ることに神通を発揮すると伝わることから最近は不景気も切ってくれると親しまれている
(案内板から)

200224_1134_旧北国街道・岡崎酒造(上田市) 200224_1136_旧北国街道・柳町(上田市)
柳町 岡崎酒造 保命水
200224_1137_旧北国街道・武田味噌(上田市) 200224_1140_旧北国街道・柳町(上田市)
柳町 武田味噌
200224_1152_矢出沢川(上田市) 200224_1200_旧北国街道道標(上田市)
矢出沢川 高橋近くにある道標

<参考資料> 旧北国街道 柳町
柳町のご案内
真田昌幸(幸村の父)は上田城を築き、約15年後の慶長3年(1598)、上田城下に北国街道が通ります。
この北国街道は参勤交代の大名(加賀百万石など)や佐渡金山の金の通路として、また庶民の善光寺参りの参道として賑わいました。柳町が面する通りが北国街道です。
柳町の見どころ
①軒高が揃った美しさ
北国街道沿いの町並みを色濃く残す柳町。江戸末から明治にかけての2階建て平入りの町屋が並びます。軒や屋根の高低差が少なく、整然と揃った美しさを感じさせます。
②親付き切り子格子
2階に取り付けられた格子を注意深く見てください。長いもの(親)と短いもの(子)があり、それぞれの本数も家によって異なっています。親付き切り子格子といい、これほど集中して見ることのできるのは上田の中心地では柳町だけです。
③うだつが上がる!
所々に袖うだつが見られ、町並み景観に軽快なリズム感を与えています。うだつには鶴や亀がいたり、文字が描かれているものもあります。
④川辺のなまこ壁
北に約200メートル行くと三叉路があり、左に路を採ると緑橋に出ます。橋から左を見る蛭沢川(ひるさわがわ)に面して土蔵が並び、表の町並みとは異なった趣が展開します。右を見ると蛭沢川が矢出沢川に合流し、時折鴨が数羽泳いでいるのに出会います。また、上田では数少ないなまこ壁の土蔵を見ることができます。
(案内板から)

<参考HP>
・ 岡崎酒造株式会社
  http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/
・ 武田味噌醸造株式会社
  https://www.takedamiso.jp/

保命水について
この井戸は保命水といいます。明治十四年(一八八一年)に柳町の先人達が、新田の海善寺の境内に湧きでる清水を木管で引き、その後、町の北と南に四角な石の井を造り、その中間二ヶ所に蛇口管を立てて、町中の人達の生活用水とし、また非常用水としましたが、これは北国街道の往来の人々にも喜ばれ、多くの人に利用されてきました。
大正十二年(一九二二年)上田市に上水道が開設されるまで、市内に良質の飲料水が少なかったので、この保命水は町民の負担でたびたび修理をし、また改修をして維持されてきました。昭和二十四年(一九四九年)夏、上田市に水道事故があり、全市が断水した時には全市の水源として、大きな功績をあげました。しかし上田市に上水道が敷かれてからは、保命水の利用も次第に少なくなり、また水源の水圧も減ったため、今ではこの井だけになりました。
上田市の水道史上特に重要な存在なので昭和四十二年(一九六七年)に明治百年を記念して、区民の総意により、また市当局の補助金を得て大改修が行われました。
先人の偉業に感謝し、保命水の重要性、公共性とその由来を記し長く保存したいものであります。
(柳町自治会設置の案内板から・昭和53年)

<参考資料> 諏訪部(すわべ)の由来
諏訪部は古代には須波郷(すわのごう)に含まれていた古い由緒をもつ地名である。千曲川をへだてて諏訪形のあることなどから、古代において、諏訪氏に関係があったと考えられ、鎌倉時代に勢力をのばした諏訪部氏の本拠地があったところと伝えられている。

200224_1229_芳泉寺(上田市) 200224_1223_芳泉寺・小松姫の墓(上田市)
芳泉寺 小松姫の墓
200224_1240_上田城跡公園野球場(上田市) 200224_1300_上田城跡公園・けやき並木遊歩道(上田市)
上田城跡公園野球場 けやき並木遊歩道
200224_1311_旧上田市立図書館(上田市) 200224_1316_上田高校・旧藩主居館跡(上田市)
旧上田市立図書館 旧上田藩主居館跡

<参考資料>
浄土宗 総本山知恩院直末(じきまつ)
松翁山 圓覚院 芳泉寺
第二十四代徹誉水阿 遊宝真純
薫香 拝識 和南
上田城を日へ徒歩五分千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地(こち)常福寺坂の上。往古、当山は左岸の三楽寺(安楽 常楽 長楽)と右岸の三福寺(大福 常福 眞福)の一山常福寺として『ふくらくおうげん福楽往還』の徴憑(ちょうひょう)。
慶長五年(一六〇〇年)、上田藩祖真田信之公(上田城主昌幸の嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊(ぜんしょうあんしゅがんれい)様を迎えて菩提寺と定めた。そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ『年々 信州の 四季の物』等が届いたのは公の正室小松姫様(本田忠勝娘、家康の養女)の心ばえであったという。昭和・平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ『真田六文会』の続柄不断(ぞくへいふだん)の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。
元和六年(一六二〇年)二月二十四日、公はお姫様(大蓮院殿様)のご逝去に『ああ、わが家のともしび消えたり』と嘆き、たもうとぞ。当山とお姫様の密葬の大導師不残上人(ふざんしょうにん)御住持の勝願寺様(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺様(群馬県沼田市)の三ヶ寺に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立して分骨、更に当山には、お霊屋(たまや)をも造立(ぞうりゅう)。その霊屋は信之公と倶(とも)に松代(皓月院 大英寺様)へ遷る。当山本堂南の弁天池は名残りの史跡。
元和八年(一六二二年)上田城主信之公(大鋒院殿様)は、長野市松代へ移封。十一月小諸城主仙石忠政公(法光院殿様)が入部。霊地常福寺を修営。翌春正月小諸市の松井山歓喜院 宝芳寺(しょうせいざんかんぎいん ほうせんじ)から父秀久公(円覚院殿様)の遺骸を、小松姫様墓北隣へ改葬。円覚院芳泉寺と尊称、香華院(こうげいん)と定めた。秀吉の小田原征伐の武勲者仙石氏の中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五右衛門を生け捕るなど<※まるむ>の権兵衛さんで通る剛の者、秀吉は名品「千鳥之香炉(ちどりのこうろ)」を褒美とした。仙石氏後裔は《率土の物品に非ず》と明治天皇の献上。
上田城主政俊公(直政)(松翁院殿様)は年少にして父忠政公を喪い、仙石氏の家宝たる<※まるむ>の旗印と共に水利土木に励み、灌漑用の<俗に塩田四十七池>A六ヶ村堰・B桝網用水・C網掛用水など。そして仙石氏のお霊屋には重臣たちの奉献する『十八基の石灯籠』に公の篤信愛民(とくしんあいみん)の功業を仰ぎ見ることが出来る。
当山本堂内陣の城主のお位牌壇には やがて、
出水(いずし)藩からお国替の藤井松平氏の五三桐紋付「御城主代々神儀」の古霊牌(これいはい)を奉祀して今日に至る。
境内に化儀(けぎ)と四季星降る松の美しい、それは夏空に爽やかな木槿(むくげ)の花が、そして涼風に涼風に波打つ白萩、小松姫様や武人を偲ぶ雪明り花明かりにも、趣きの深い城主の菩提寺。
A六ヶ村堰
①小牧②諏訪形③御所④中之条⑤上田原⑥神畑
B桝網用水
①小牧②国分③踏入④天神⑤常磐城⑥秋和⑦上塩尻
C網掛用水
①網掛②上平③上五明④力石⑤新山⑥上山田
(芳泉寺に設置されている案内板から・平成21年)

<参考資料>
市指定史跡
 小松姫の墓(真田信之夫人大蓮院殿の墓)
上田城及びその城下の創始にあたった真田信之の正妻で、真田家存亡の際、影の功を果たした小松姫の墓である。
小松姫は、徳川家康の養女(本田忠勝の娘)として天正十四年(一五八六)信之に嫁いだ。たいへん賢く、女丈夫として数々の逸話を残している。元和六年(一六二〇)二月二十四日、四十八歳で埼玉県鴻巣市にて歿(勝願寺で密葬)した。
元和八年信之が松代に移封されたとき、姫の御霊屋は松代に遷されたが、この石垣積み基壇上の高さ二.八八メートルの二重塔身宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、その銘文より、信之が小松姫(法名 大蓮院殿英誉皓月大禅定尼)の一周忌に建てたものであることがわかる。
基壇北の石灯籠は、真田信吉寄進のものである。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

小松姫のエピソード
姫の婿選びのため、家康公に呼ばれて平服している諸大名の髷を、姫が掴んで顔を見た。その態度に立腹し、鉄扇で手を打ち据えた大名が信之公であった。姫はこれに怒るどころか、他の大名のだらしなさを軽蔑し、彼の正室となり上田へ嫁いで来た。やがて不幸なことに、信之と昌幸(父)幸村(弟)が敵・味方となって戦うようになった時(一六〇〇)に、最後に孫の顔が見たいと訪ねる昌幸に対し、姫は侍女達にも武装させ城門を警護し昌幸を追い払ったという。しかし関ケ原の合戦に敗れ、九度山に蟄居した昌幸・幸村に上田の食物を送り続けたという。
(案内板から)

<参考資料>
市指定史跡 仙石家霊廟
真田昌幸は上田城の築城にあたり、下之城村の金称庵をこの地に移し、常福寺とした。元和八年(一六二二)真田信之の松代(長野市)、転出後小諸(小諸市)から移封した仙石忠政は、菩提寺の宝仙寺を小諸から移し(常福寺を下之城へ移す)、松井山宝仙寺と改称した。延宝二年(一六七四)忠政の子で二代上田城主政俊の死後、松翁山芳泉寺と改称した。仙石氏の上田在城は宝永三年(一七〇六)三代政明が出石(兵庫県豊岡市)に移封されるまでの八十四年間であった。
仙石家の霊廟(墓とその霊魂を祀るお堂の一体のこと)は、一辺約十二mの瓦葺コンクリート造りの塀に囲まれ、その中に、政俊を中心に、左後方には祖父秀久(小諸城主)と秀久の長子久忠や秀久側室の墓がある。
政俊の墓は総高一八八cmの五輪塔だが、秀久のものは総高二〇二cmの舟形石塔で、ともに瓦葺宝玉造(かわらっぶきほうぎょうづくり)の覆屋に納められている。ともに損傷もなく、市内本陽寺の仙石家墓所(市指定史跡)にある忠俊(政俊の子)の墓碑同様建立当時とあまり変わっていない。また、塀の内側四面には、主だった家臣が献じた名入り石灯籠十八基が整然と立ち並んでいる。
なお初代忠政の墓は東京都港区の東禅寺にある。
(上田市教育委員会設置の案内板から・平成27年)

仙石氏霊廟
石川五右衛門を生け捕りにしたことで知られる仙石秀久(権兵衛)公そして忠政・政俊(直政)三代の霊廟である。
仙石忠政は真田氏に替って上田城主となり、やがて城を修築(今日の上田城)塩田平の灌漑池の造成など藩主として手腕をふるい、松平氏とのお国替えで兵庫県出石に移封されるまでその子政俊と共に城下町の殖産振興につくされた。
(案内板から)

<参考資料>
上田城お勧め見学ルート その3
二の丸西虎口(百間堀と小泉曲輪)
この周辺は二の丸の西の出入口(絵図①)で、「大手門」の反対側、すなわち裏門にあたります。上田城の背後を守る百間堀(②)や捨堀(③)、小泉曲輪(④)があった場所です。
二の丸堀の一部は真田昌幸の時代に矢出沢川の旧河床を改修したものと考えられています。仙石忠政の上田城復興工事の際には、堀は絵図のような配置となりました。百間堀には現在、野球場や陸上競技場があります。昭和3年に昭和天皇即位を記念して造られた施設です。観客席を堀の斜面に造るなど、地形を活かした工夫には目を見張るものがあります。なお、捨堀と呼ばれたところには現在、上田高校第二グラウンドとなっています。
小泉曲輪は真田昌幸の上田築城以前に小泉氏が拠点にしていた場所とされていますが、詳しいことは分かっていません。松平氏が藩主だった頃には、茶屋や馬場が設けられていました。小泉曲輪の南側も尼ヶ淵(あまがふち)のように上田泥流層の断崖となっています。切り立った崖が城の守りを固めた様子をぜひご覧ください。
(案内板から)

<参考資料> 国指定史跡 上田城跡
上田城は天正十一年(一五八三年)真田昌幸によって築かれた平城である。
当時の千曲川分流尼ヶ淵に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り囲まれた天然の要害に拠っている。竣工の翌天正十三年昌幸が徳川家康の命に従わなかったため、その怒りに触れ、大久保忠世・鳥居元忠等の率いる信濃・三河の勢八千でこの城を攻めたが遂に陥れることができなかった。
また慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の合戦に際し、豊臣方に属した昌幸・幸村父子は、この城にてたて籠り徳川秀忠率いる二万五千の大軍の西上をはばんで、関ケ原の戦いに不参させたことは、上田城を一躍天下の名城と言わしめるに至った。
現在三の丸は市街地に変ってしまったが、本丸と二の丸には土塁・石垣・濠跡がのこり、特に本丸の東西虎口に三基の隅櫓と石垣が昔の姿を留めている。
(文化庁 上田市教育委員会設置の案内板から・平成25年)

お堀の移りかわり
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていました。その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。昭和47年2月に電車が廃止され、現在に至っています。
(案内板から)

<参考資料>
上田市指定文化財 旧上田市立図書館
(現石井鶴三美術館)
大正四年(一九一五)、上田男子小学校同窓会は、一般市民の寄付を募り、「明治紀年館」を建設しました。この建物は、図書館機能を備え、大正十二年(一九二三)に上田市に寄付された後も、上田市立図書館として、昭和四十五年(一九七〇)まで利用されていました。
大正時代の近代洋風建築には、明治以来の派手で力強い流れと、優しい表現を主とする二つの流れがあります。この建物は後者の代表例です。凹凸の少ない壁面処理や、浅い軒の出、マンサード屋根(勾配が途中で変化する屋根)など、建物全体が一つの面に包まれているような意匠、壁面の各所にはめられたパネルなど、一九世紀末~二十世紀初頭に世界のデザイン界を席巻した「アールヌーヴォー」の流れを汲む、長野県の代表例です。
近代の上田市は、「蚕都(さんと)」の経済力を背景に、学習・芸術活動が盛んで、革新的・先取的な気風が支配しており、この建物は、そうした時代を伝える文化遺産としてきわめて貴重なものです。
(上田市教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料>
真田対徳川 上田合戦物語
第一次上田合戦(神川合戦)
天正十年(一五八二年)三月、武田氏が滅亡。信濃国を含む旧武田領の分割配分に圧倒的な動きを見せた織田信長に対し、真田昌幸はすかさず臣属の意を表した。しかし、同年六月「本能寺の変」で信長が明智光秀の急襲による討ち死。信濃・上野・甲斐国は、徳川・北条・上杉の争奪地の場と化した。いったんは北条氏直に臣属した昌幸だったが、弟の加津野信昌(かつののぶまさ)らに誘われ徳川家康に臣属。天正十一年三月頃より、上杉に対峙する徳川勢力最前線として、海士ヶ淵城(尼ヶ淵城・伊勢崎城=上田城)築城が開始された。
ところが、天正十二年(一五八四年)中央覇権争いにより羽柴秀吉(後の豊臣)と徳川家康の対立が深まり、「小牧・長久手の戦い」へと発展。これを機に真田昌幸は徳川家康と断絶し、秀吉と和睦していた上杉景勝に属することとなった。
上杉の臣従した昌幸の動きにおさまらぬ家康は、天正十三年(一五八五年)八月、鳥居彦右衛門尉元忠、平岩主計新吉、大久保七郎右衛門尉忠世、大久保平助忠教らに、諏訪頼忠、保科正直、知久頼氏、松平(依田)康国、屋代秀正、小笠原信嶺など信州先方衆を付け、都合七千余人で上田城を攻めさせた。これを迎え撃つ真田方は、騎馬二百余騎、雑兵千五百余人、都合二千余騎に過ぎない。そこで昌幸は二男信繁(幸村、当時十七歳)を上杉景勝に対し人質として差し出すことで、北信の須田満親、清野左衛門左、西条治部少輔、市川信房などの援軍を得ることとなった。
戦いは、神川を中心とした上田平全域に展開され「神川合戦」とも呼ばれる。真田方が、民衆三千人余りに紙旗を持たせ、谷や峰々に潜伏させ、城内の兵の合図とともに一斉に蜂起するなどの攪乱戦法を駆使。領内の百姓子女までを動員し、石つぶてを投げさせるなどの総力戦の結果、徳川の大軍は当初上田城に迫るものの、幾重にも備えられた真田の術策にはまり、神川まで押し戻されて大混乱に陥り、大勢の戦死者を出した。
この戰において、昌幸は、徳川軍を油断させた上で場内(※城内)までおびき寄せ、あらかじめしつらえておいた丸太を徳川勢の頭上に落とす、後退する徳川勢に対し城下に火を放つと言った奇策をこらしたと逸話も残されている。
この間、上杉方の協力により普請が進められていた海士ヶ淵城(尼ヶ淵城・伊勢崎城)は、天正十三年九月末から十月頃に一応の完成を見ることとなり、天正十七年頃に真田昌幸により「上田城」と命名。城と城下町がそっくり川と掘割りで囲まれた堅牢な構えであり、後に再び徳川軍を大いに苦しめることとなった。

秀吉の天下統一から天下分け目の関ケ原へ
天正十四年(一五八六年)秋頃になると秀吉の家康に対する対応が一転、それまで武力による制圧から、秀吉の生母大政所(おおまんどころ)を人質に差し出すほどの懐柔策へと大きく変化した。それに応じ家康は秀吉に対して臣下の礼をとり、豊臣秀吉による天下統一は大きく前進。天正十五年三月、秀吉の命により真田昌幸は徳川家康に臣属。同十七年二月には、嫡男信幸が駿府城に出仕し、父とは個別に家康の家臣になり沼田城主となった。
天下統一の偉業を成し遂げた豊臣秀吉が慶長三年(一五九八年)に亡くなると、真田氏は再び試練に立たされることになる。嫡男秀頼を支える石田三成ら豊臣恩顧の大名たちは、豊臣家を危うくする家康打倒を決意し、反家康連合軍の挙兵計画を進めていた。
慶長五年(一六〇〇年)七月家康が上杉征討のため大坂より関東へ下向したのを機に、石田三成は五奉行とはかり秀頼をたてて兵を挙げ、「関ケ原合戦」の幕がきって落とされた。

犬伏の別れ
七月二十日家康の命に従い下野犬伏(栃木県佐野市)に着陣した昌幸、信繁(幸村)父子の元に長束正家、増田長盛、前田玄以ら三奉行連名の勧誘状が届く。「この度の家康の上杉征討は、秀吉の遺言に背いて秀頼様を見捨てたもので、相談の上、家康を討つべく挙兵した。太閤様のご恩を忘れていないなら、秀頼様に中世を尽くしてくれるように」との内容であった。昌幸はすぐに犬伏の陣所へ信幸を呼び、信繁を交えて密かに対応を協議した。この密談の内容は次の二つのことによるものと推測されている。
一つは、昌幸は秀吉の援助で大名にまでなれたことの恩義、信繁は青年時代秀吉に出仕したことへの恩義、また三成の盟友大谷吉継の娘を娶っていること。
一方信之は二十三歳で家康に出仕、翌年家康の重臣本田忠勝の娘を妻に向かえ、家康の家臣として沼田城主となっていること。
もう一つは、東西いずれか破れても他方は生き残ることで「真田」の加盟の存続をはかる。
結果、昌幸と信繁は豊臣方(西軍)に、信幸は徳川方(東軍)に、父子兄弟が東西陣営にわかれることとなった。
犬伏で信幸と別れた昌幸、信繁は、直線コースの碓氷峠越えで上田へ向かうのではなく、沼田経由の迂回路をとった。その理由は、東軍徳川勢との衝突を避けるとともに、沼田城の孫たちの顔を一目見たいとの昌幸の思いがあったと考えられる。

第二次上田合戦
東海道を西へ上る家康軍とは別に中山道をすすむ秀忠軍は、榊原康政、大久保忠隣ら徳川の重臣および森忠正(川中島)、仙石秀久(小諸)、石川康長(松本)、諏訪頼水、真田信幸ら信濃の諸将を加え総勢三万八千人余で碓氷峠を越え九月二日小諸へ入城。出来れば支障なく通過したいことから説得工作を行うも、昌幸の揺動により激高した秀忠は五日に上田攻めを開始、上田城東二kmの染屋台地に陣を張った。昌幸があっさりと空け渡した砥石城には真田信幸が入るよう、秀忠に命じられた。
九月六日、上田城の東、染屋馬場台に陣を進めた秀忠は、真田の陣営を望見し、時あたかも実りの秋であったため、上田城周辺の刈田(敵地の稲の刈り取り)を命じた。
この刈田の様子を目の当たりにした真田方の襄平は、それを妨害しようと刈田の士卒と衝突。この時、功を焦った徳川方の多数の部隊が、攻撃合図を待たずに大手門まで進撃。真田方城兵との攻防戦に突入した。城兵は矢倉(櫓)の上から弓矢で応戦。ッ門前では敵味方が槍を合わせるなどかなりの激戦となったが、城方の反撃に合った徳川方の死傷はおびただしかった。
また、昌幸は後退する徳川軍に対し信繁率いる鉄砲隊二百余を前夜に染屋台に潜ませ、更に追い討ちをかける。徳川軍が神川まで後退するのを見計らって、あらかじめ上流に堤防を築き密かに塞ぎ止めておいた堰を切ると、多くの人馬が飲み込まれたとの逸話も残されている。
三万八千余の徳川大軍勢を僅か二千五百余の真田軍が九月三日から十一日まで九日間にわたり足止めした結果、秀忠軍が木曽福島の山村良勝の館にようやくたどり着いたのは九月十六日。九月十五日午前八時に火蓋が切って落とされた天下分け目の関ケ原合戦は、午後になって西軍小早川秀秋が寝返ったことにより、午後四時頃には東軍の大勝利で終わっていた。
その後、上田領は徳川方で功績を上げた真田信幸に与えられ、信幸の懇願により処刑を免れた真田昌幸・信繁父子は、高野山へ配流となった。上田合戦において昌幸・信繁父子の活躍により名声を高めた真田家の武勇は、時を経て慶長十九年(一六一四年)大坂冬の陣「真田丸」における真田幸村(信繁)・大助父子の活躍により、再び歴史の表舞台へ登場することとなる。
(「上田市誌歴史編⑨『真田氏と上田城』」・案内板から)


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