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平成31年4月、長野運動公園発着で、長野市村山から長沼を経て赤沼までの、北国脇街道(現県道村山豊野停車場線)を歩く機会がありました。
のどかな田園地帯を歩き、宿場町の佇まいを堪能した街道歩きでしたが、その6ヵ月後、台風19号による千曲川堤防の決壊という大惨事に見舞われ、残念ながら僅かに残っていた宿場町の面影の多くが失われました。
(写真:北国脇街道村山から長沼宿を経て赤沼交差点まで=平成31年4月29日撮影、640×480拡大可能)

北国街道( Wikipedia )は、江戸幕府により整備された街道で、善光寺への参拝のほか参勤交代の道として、また佐渡の金を江戸に運ぶ重要な役割を果たしました。
北国脇往還は、本能寺の変の後、北信濃を掌握した上杉景勝が長沼城・海津城を結ぶルートとして設けたもので、後に江戸幕府により街道整備が行われ、中山道追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)から善光寺を経て、直江津(新潟県上越市)に至るルートが主流となった時代においても、千曲川や犀川の増水時には、布野の渡し(長野市・須坂市境)から長沼宿、神代宿(長野市豊野町)を経て、平出宿(上水内郡飯綱町)で再び北国街道に接続するこの街道を利用することが多かったと伝えられています。

<参考HP>
・ 国土交通省関東地方整備局
  emoji 長野国道事務所

北国脇往還ウォーキングルート (27,909歩)
長野運動公園→柳原研修センター→秋葉社→長沼神社→林光院→西厳寺→善導寺→吉祥庵→《長沼城跡》大手門跡・守田神社(洪水により社殿流出)→北三日月堀跡・櫓台跡・本丸跡・二ノ丸跡・内堀跡・南三日月堀跡・天王宮・おんま通り・三ノ丸跡・西三日月堀跡・土塁跡(長野市長沼支所北側)・妙笑寺→村山豊野停車場線分岐(左:街道・右:赤沼公園)→妙願寺→大田神社→赤沼交差点→(北陸新幹線側道沿いに)→長野運動公園


北国脇往還
村山~長沼
190429_0959_長野運動公園(長野市) 190429_1035_柳原附近(長野市)
長野運動公園 柳原付近から望む 飯縄山
190429_1054_柳原研修センター(長野市) 190429_1103_りんごの花(長野市)
柳原研修センター りんごの花
190429_1106_秋葉社(長野市) 190429_1108_長沼神社(長野市)
長沼宿入口にある 秋葉社 長沼神社
190429_1122_林光院(長野市) 190429_1121_林光院前にある道標(長野市)
林光院 林光院前の 道標
190429_1124_西巌寺案内板(長野市) 190429_1126_西巌寺 「西島禾堂の碑」(長野市)
西厳寺 西厳寺にある 西島禾堂の碑
190429_1133_善導寺(長野市) 190429_1146_長沼城侍屋敷跡「吉祥庵」 長沼十哲の俳句案内板(長野市)
善導寺 吉祥庵

<参考資料> 秋葉社
北国脇街道の道しるべとして、又休憩場所として利用された。右から養蚕神(明治二九年・天神(文政二年)・三峯神社(明治七年)・秋葉社の石祠がある。弘化三年(一八四六)の大火災で地区二六軒を焼失した。この事から御灯明番が組織され、現在も防火・防災を祈願し、交代で石灯籠に明かりが灯し続けられている。
(案内板から)

<参考資料> 長沼神社
創立年代は長沼の里が開かれた平安時代といわれている。御神体は奇岩。永禄十一年(一五六八)武田信玄が神殿を再建。木像、笛、獅子頭、薙鎌を奉納。境内社には長沼天満宮、川除社、飯綱社、神明社、熊野社、稲荷社がある。祭神は建御名方命。
(案内板から)

<参考資料> 長沼宿
長沼宿は北国脇街道・別名雨降り街道に設けられた宿駅で主に上町が担った。天正十一年(一五八三)上杉景勝は川中島を領有すると、春日山城から海津城へ通じる宿駅と伝馬を定め、牟礼から香白阪を経て長沼を通るよう命令している。戦国時代は長沼城、海津城と続くこの道筋が本道で長沼城下に長沼宿が成立した。

<参考資料> 林光院
医王山林光院、曹洞宗。慶長十一年(一六〇六)妙笑寺八世の時の分寺。本尊は薬師如来。山門の上に十王像が安置されている。道標・筆塚・石仏などの石造物がある。
(案内板から)

<参考資料> 西厳寺
成田山西厳寺。浄土真宗、大谷派、京都本願寺末寺。建長八年(一二五六)茨城県に創立、暦応元年(一三三八)長沼に遷った。宝徳元年(一四四九)蓮如上人が滞在しており、蓮如堂がある。寺内には三ケ寺の坊がある。
(案内板から)

<参考資料> 西島禾堂(俳号士英)の碑
西島禾堂は天明四年(一七八四)長沼大町に生まれる。通称次郎次農および酒造を業とし、また江戸の書家市河米庵(三亥※さんがい)に師事して所を能くし、近郷の人々に書を教え、門弟数百人におよんだ。さらに俳諧は小林一茶に学んで士英と号し、長沼門弟十哲の一人である。
この碑は禾堂が天保十三年(一八四二)十一月二十五日 齢五十九歳で没した翌年の十四年冬、嗣子尚文や弟子村松処信(春甫)らの願いにより菩提寺である西厳寺境内に建立されたものである。
米庵五十四歳の筆である。米庵は安永八年(一七七九)亥の年亥の日亥の刻に生まれ、よって三亥を号した。
幕末の三筆と称せられた近世随一の書家である。もっとも楷書をよくし門弟五千人を数えた。
(西厳寺境内に設置されている案内板から)

<参考資料> 善導寺
悟真院終南山善導寺。浄土宗、知恩寺末。創立は弘長元年(一二六一)と言われる。宝永年間に建てられた鐘楼がある。鎌倉光明寺の記主禅師良忠の開基で、善導大師を本尊としている。聖観音、不動明王を奉る観音堂がある。
(掲示板から)


北国脇往還
長沼城跡
190429_1150_2_長沼城跡復元図(長野市) 190429_1209_「桜づつみ」案内板(長野市)
長沼城跡復元図 「桜づつみ」の歌詞
190429_1226_長沼城 大手門跡(長野市) 190429_1149_守田神社(長野市)
大手門跡 守田神社
190429_1152_長沼城 北三日月堀跡(長野市) 190429_1154_長沼城 櫓台跡(長野市)
北三日月堀跡 櫓台跡
190429_1156_長沼城 本丸跡(長野市) 190429_1158_長沼城 二ノ丸跡(長野市)
本丸跡 二ノ丸跡
190429_1159_長沼城 内堀跡(長野市) 190429_1216_長沼城 南三日月堀跡(長野市)
内堀跡 南三日月堀跡
190429_1217_長沼城 天王宮(長野市) 190429_1220_長沼城 おんま通り(長野市)
天王宮 おんま通り
190429_1222_長沼城 三ノ丸跡(長野市) 190429_1223_長沼城 西三日月堀跡(長野市)
三ノ丸跡 西三日月堀跡
190429_1228_長沼城 土塁跡(長野市) 190429_1231_長沼城 妙笑寺(長野市)
土塁跡 妙笑寺

<参考資料>
川中島合戦の舞台ともなった長沼城
〔長沼城の略歴〕
長沼城( Wikipedia )は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。
弘治三年(一五五七年)、甲斐(山梨県)の武田信玄が信濃侵攻のおり、長沼の島津氏( Wikipedia )が撤退した後、築造した平城である。この城は、川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって、幾度も改造が行われ、十六世紀後半には、激しい戦いの舞台となっている。
武田氏滅亡後は、織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣(直轄)・松平忠輝等の領地へと移り変わった。
長沼藩( Wikipedia )として独立したのは元和二年(一六一六年)、初代藩主佐久間勝之( Wikipedia )からである。元禄元年(一六八八年)四代目勝茲(勝親)の地代、故あって改易廃藩となり、廃城となった。
このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後、千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流出している。
〔城跡の概要〕
この図は江戸中期、廃城となる前(一六八〇年頃)の長沼城を、数枚の古城図や検地帳、地積図を元に現地調査を行い、想定し作成した図である。
城域は、南北約六五〇m、東西には約五〇〇mにおよび、約三十四ヘクタールの面積となる。北端は妙笑寺(堤防沿いの森)の南、南端は貞心寺(南西の赤い屋根)の南まで。西端は、家並みを通る県道より一三〇mほど西、東端は、堤防より約一五〇m東である。
本丸は、現在地から堤防沿いを北へ一五〇mほどの位置となる。
天守はなかったと云われている。
現在、遺構として天王宮の土丘、北の三日月堀・日の三日月堀の一部が見られるのみである。
また、長沼城の門扉二枚が津野区妙笑寺に保存されている。
(長沼歴史研究会による案内板から)

長沼城 大手門跡
城の正門(※長野市役所長沼支所前)
古地図には、「大手」の記述と城門のマークがある。当時の門扉2枚が妙笑寺に保存されている。

守田神社
延喜式内社。延喜年中(九〇一~九二二)以前に創立された。境内社には瀬石社、天神社がある。祭神は大碓尊、大己貴尊、大山昨尊。神社の名は守太田のことを略したものと言う。元和元年(一六一五)洪水のため流出し、正保年間(一六四四~一六四七)今の地に移る。

長沼城 守田神社
その昔、現在地より100mほど東の守田嶋にあった。正保年間、現在地に遷祀、合祀の上、日吉山王社と呼ばれたが、文政元年(1818)守田神社の旧号に復した。

長沼城 北三日月堀跡
三日月の形をした堀
城の入口や橋に攻め寄せる敵兵を三日月堀でとどめ、内側から鉄砲や弓矢で攻撃した。この三日月堀は、北岸の一部が見られる。数少ない遺構のひとつ。

長沼城 櫓台跡
櫓台(やぐらだい)
塔形の見張り台。北の入口を見張る役目を持っている。矢の倉庫を兼ねたことから、矢倉とも言う。

長沼城 本丸跡
城の中心部にあって、もっとも主要な郭(くるわ)。長沼城に天守閣はなかったと伝えられる。現在、本丸跡は、堤防敷及び河川敷となっている。

長沼城 二ノ丸跡
本丸の外側の郭(くるわ)。中堀の内側で、図の冠木門・狼煙台などがある郭。おんま通りより東側にあった。

長沼城 内堀跡
城の内部の堀
通常、本丸を囲む堀のことをいう。長沼城の内堀跡は、現在、そのほとんどが堤防敷及び河川敷となっている。

長沼城 南三日月堀跡
三日月の形をした堀
城の入口や橋に攻め寄せる敵兵を三日月堀でとどめ、内側から鉄砲や弓矢で攻撃した。甲斐の武田氏の城に多く見られると云われている。

長沼城 天王宮(てんのうみや)
南三日月堀の土塁の西端に祭られていたと思われる。土塁と共に数少ない遺構のひとつ。

長沼城 おんま通り
おんま通り(通称名)
現在は市道。「おんま」とは「馬」のことだと思われる。中堀の西側沿いを通る。

長沼城 三ノ丸跡
二ノ丸をかこむ外郭(そとぐるわ)内町地域の現県道(元北国脇街道)沿いの民家から守田神社を含む広い範囲。

長沼城 西三日月堀跡
三日月の形をした堀
城の入口や橋に攻め寄せる敵兵を三日月堀でとどめ、内側から鉄砲や弓矢で攻撃した。堀の外側のカーブした筆境が確認される。

長沼城 土塁跡
土塁(土居)
堀の内側に築かれた堤防の形をした城壁。その上に塀や柵を設け、敵の侵入を防いだ。

妙笑寺
洞雲山金剛林笑妙寺、曹洞宗。保元元年(一一五六)鎌倉円岳寺一庵覚仙和尚が三水村(※現上水内郡飯綱町)に臨済宗の寺として創立、その後曹洞宗に改宗する。天正八年(一五八〇)長沼城主島津淡路守忠直により、現在地に移転し島津家の位牌所となる。源 頼朝が開基、伯母鳥羽院美濃局の守り本尊、準提観世音がある。

長沼城 妙笑寺(曹洞宗)
天正8年(1580)旧三水村毛野より移転。水害水位標及び洪水を記録した柱がある。長沼城の門扉2枚が保存されている。


北国脇往還
長沼~赤沼
190429_1242_村山豊野停車場線分岐(長野市) 190429_1248_妙願寺(長野市)
村山豊野停車場線分岐 妙願寺
190429_1251_大田神社(長野市) 190429_1258_2_赤沼交差点(長野市)
大田神社 赤沼交差点

<参考資料> 妙願寺
林学院至心山妙願寺、浄土真宗。明徳二年(一三九一)茨城県に創立。永享二年(一四二九)安茂里小市に移り、永禄九年(一五六六)津野に移転し、宝暦二年(一七五二)現在地に移る。開基の林学は源 義詮の家臣鹿野林平の入道名。

<参考資料> 大田神社
創立年代不詳、大治年中(一一二六~一一三〇)に若槻伊豆守が社殿を再建。境内にあった樹齢一、〇〇〇年以上の槻の木で彫った狛犬、唐獅子がある。彫刻師は武田常蔵。祭神は、大鞆和気尊。境内社には猿田彦神社、伊勢社、若宮八幡宮、稲荷社、香水宮、金毘羅社等がある。


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