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170820_1209_地附山山頂(長野市)
地附山山頂

昭和60年(1985)7月26日に大規模な地滑りを起こした地附山( Wikipedia )。現在は地滑り被害への対策が進み、防災メモリアル地附山公園として整備され、長野市民の憩いの場として親しまれています。
その地附山も、地滑り災害により崩落した旧戸隠バードラインが開通するまで観光開発が行われた場所で、雲上殿から山頂までロープウェイが運行し、山頂周辺には動物園やスキー場もある、広大なアミューズメントパークでした。
ここでは、地附山山頂および周辺に残る当時の施設の今を取り上げてみます。
(写真:地附山周辺=20日撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)

<コースタイム>
雲上殿下展望道路沿いにある駐車場(地図)→霊山寺(10:53)→大峰山遊歩道入口(11:02)→岩井観音堂(11:13)→上杉謙信の物見の岩(11:24)(11:39)→大峰山遊歩道との分岐(11:49)→地附山スキー場跡(11:57)→地附山山頂(12:09)→旧戸隠バードライン経由で桝形城跡主郭(12:28)(12:50)→上池ノ平古墳群 第六号古墳(12:55)→地附山前方後円墳(13:03)→地附山釣り堀跡(13:07)→地附山動物園跡(13:19)→観光リフト跡(13:24)→地附山ロープウェイ跡(13:27)→パワーポイント(13:43)→跳駒・つづらトレイル分岐(14:00)→金毘羅宮(14:12)→駒弓神社(14:19)→雲上殿下の駐車場

地附山山頂へは、健脚コースとして知られる駒弓神社からの「跳駒トレイル」、地附山メモリアル公園から続く「つづらトレイル」などがよく知られていまが、今回は大峰山へ続く遊歩道(霊山寺~岩井観音堂~物見の岩経由)を利用して山頂に向かいました。
ただ、今回利用したルートは、長野市で配布している「地附山トレッキングガイド」によると「地附山」のトレッキングコースではないので、初めて地附山に登られる方はわかりやすい「跳駒トレイル」または「つづらトレイル」の利用をおススメします。
 

地附山 霊山寺~大峰山遊歩道分岐
170820_1053_霊山寺(長野市) 170820_1058_霊山寺(長野市)
登山口となる霊山寺
170820_1103_大峰遊歩道(長野市) 170820_1106_大峰遊歩道(長野市)
物見の岩への登山道 歌ヶ丘との分岐
170820_1107_大峰遊歩道・岩井観音堂(長野市) 170820_1119_大峰遊歩道・物見の岩(長野市)
物見の岩直下の 岩井堂観世音 雲上殿からの道と合流
170820_1124_w_大峰遊歩道・物見の岩(長野市)
上杉謙信ゆかりの 物見の岩からの展望
170820_1139_大峰遊歩道・物見の岩(長野市) 170820_1149_大峰遊歩道との分岐(長野市)
物見の岩休憩所 大峰山・地附山分岐

<参考資料> 花岡平
大峰山の中腹に位置し、眺めが良いところから桜坂、雲上台、歌ヶ丘、しぐれ沢、白雲台、往生寺、夕陽ヶ丘と共に展望道路八景と称されています。
草創時代長い間善光寺があった地とも伝えられ、また数多くの五輪塔が発掘されたところから五輪平とも呼ばれています。
附近には、霊山寺(真言宗)、弘法大師の遺蹟岩井堂、並びに県内殉職警察官の慰霊碑、消防関係者顕彰の碑などがあります。また、裏手には川中島古戦場の謙信物見の岩が頭上に望まれます。
一帯は自然休養林として一般に開放され、幾つかの遊歩道が整備されており、物見の岩歩道の登り口にもなっています。

<参考資料> 七清水の紹介 一盃清水
霊山寺より約三百米奥に謙信物見の岩の下に岩井堂あり弘法大師が修行中杖で地面をついたら清水が湧き出たといい、弘法大師が好んで硯の水に用いられました。のちの上杉謙信が大峰山布陣の際に飲み水にしたとも伝えられ別名上杉の御膳水とも呼ばれていました。
(長野市水道工事協同組合設置の案内板から・平成11年)

<参考資料> 川中島合戦勇士の首塚
霊山寺中興の祖義吽和尚の代(※大正時代、この地に霊山寺を復興させた原田義吽和尚)にこの地を整地したところ首だけの白骨の化石がたくさん発掘され鑑定した結果、この大峯山一帯は川中島合戦の時、上杉方陣地であり合戦で討ち取った武田方の武将の首を検分し、論功定めを行なった処であることがわかり、戦士等の勇魂を慰める為にここに塚を築いて白骨を納めたものです。
(霊山寺設置の案内板から)


地附山 山頂周辺
170820_1157_地附山スキー場跡地(長野市) 170820_1158_地附山スキー場跡地(長野市)
地附山スキー場跡
170820_1207_地附山山頂(長野市) 170820_1209_地附山山頂(長野市)
地附山山頂

<参考資料> 地附山スキー場跡
ここは地附山第一スキー場跡です。
第二スキー場は「物見の岩場」付近にありました。
ここにはTバーリフト一基が備えられ、地元の小学生のスキー教室に使われていました。大衆向けで手軽に楽しめるスキー場で、家族連れのスキーヤーが連日詰めかけ、日曜日には1500人ものスキーヤーで賑わいました。今はリフトのモーターの跡が残されています。
(地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)
  
地附山 山頂~ 旧戸隠バードライン経由 桝形城跡
170820_1217_旧戸隠バードライン(長野市) 170820_1220_桝形城跡入口(長野市)
地附山山頂から旧戸隠バードラインを長野方面へ
170820_1225_桝形城跡(長野市) 170820_1244_桝形城跡(長野市)
170820_1229_桝形城跡(長野市) 170820_1229_桝形城跡(長野市)
桝形城跡

<参考資料> 桝形(ますがた)城跡
地附山の山頂から北東に伸びる尾根の頂部に立地している、中世の山城跡である。尾根の頂部に主郭があり、主郭の南西側に虎口(こぐち)が残っている。斜面には曲輪(くるわ)がなく、尾根上を主体的に利用しているが、主郭の西側直下には土塁をともなう横堀と、それにつながる竪掘が複雑に入り組んでいる。主郭背後は大規模な堀切と土塁をともなう橫堀で、地附山方向へ続く尾根を遮断し、堀の間には広大な曲輪が存在する。最南端には馬出し状の曲輪がある。主郭において防御的な施設が希薄な一方で、周辺は虎口や橫堀・縦堀の多用と橫堀の複雑な構成、さらに馬出し状の曲輪の存在など、防御機能がきわめて発達した山城と考えられる。
古文書などの文献資料には、現在までのところ本城跡の名を見ないが、遺構の構造などから戦国時代である十六世紀後半の年代が想定される。周囲の山には、旭山城跡、葛山城跡、大峰城跡、若槻山城跡などがあり、本城跡も武田・上杉両氏の攻防にかかわった城跡の一つと推定される。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)

<参考資料> 桝形城跡
◎謎につつまれた山城
桝形城跡については、古文書などの文献資料にはいっさい記述がありませんので、詳しいことはまったくわかりません。堀切の構造が複雑であることや、たくさんの曲輪があることなどから、守りをかためた城であると考えられます。
◎守りをかためた桝形城跡
長野盆地は、甲斐国(今の山梨県)の武田信玄と、越後国(今の新潟県)の上杉謙信が戦った「川中島の戦い」の主戦場であり、旭山城跡・葛山城跡・大峰城跡・若槻山城跡など多くの山城が作られています。また、近くには「謙信の物見岩」と呼ばれている場所もありますので、「川中島の戦い」に関係する山城の一つかもしれません。

山城ってなんだろう?
戦争のために山頂や尾根の上に作られた城のことです。長野市内には約80箇所以上の山城があり、その多くが今からおよそ500年前の戦国時代に作られたものです。
山城には、土塁(土を盛り上げて作った土手)と堀切(水のない溝状の堀)に囲まれた曲輪(平らに整地した場所)がいくつかあります。おそらく、掘っ立て小屋や柵などの簡単な建物や防護施設だけで、国宝の松本城や姫路城のように立派な天守閣のんかる江戸時代のお城とは異なります。
(長野市教育委員会・長野市立博物館・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成22年)


地附山 桝形城跡~動物園・ロープウェイ跡
170820_1255_上池ノ平古墳群 第6号古墳(長野市) 170820_1256_上池ノ平古墳群 第6号古墳(長野市)
上池ノ平古墳群 第6号古墳
170820_1303_地附山前方後円墳(長野市) 170820_1304_地附山前方後円墳(長野市)
地附山 前方後円墳
170820_1307_地附山釣り堀跡(長野市) 170820_1310_地附山旗立岩(長野市)
地附山釣り堀跡 旗立岩
170820_1319_地附山動物園跡(長野市) 170820_1324_地附山観光リフト跡(長野市)
地附山動物園跡 観光リフト跡
170820_1328_地附山ロープウェイ跡(長野市) 170820_1332_地附山ロープウェイ跡(長野市)
地附山ロープウェイ跡地

<参考資料>
上池ノ平古墳群 第6号古墳
地附山の山頂から北この古墳は、地附山前方後円墳直下の平坦面に立地する上池ノ平古墳群のうち、もっとも東側に位置している。直径二〇メートルほどの大型円墳であるが、発掘調査は実施されておらず、埋葬施設や築造年代などの詳細はいっさい不明である。上池ノ平古墳群は、昭和六〇年に発生した地附山地すべり災害に対する防火弘治のため、第六号古墳以外は緊急発掘調査の後やむなく破壊された。
第一号古墳んは直径一八メートルの円墳で、埋葬施設は組み合わせ式の箱形石棺が三基並列し、中央の一号石棺は合掌形石室であった。また、直径九メートルの円墳である第五号古墳の埋葬施設も合掌形石室で、鉄剣・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)などのほか、馬具の轡(くつわ)が副葬されていた。特に轡は、東北アジアに系譜が求められるもので、朝鮮半島からの渡来品と考えられる。五世紀中期から後半にかけて地附山前方後円墳が築造され、その後上池ノ平古墳群の三号古墳群から二号、一号、(六号)、五号、四号の順に築造され、六世紀中頃に終焉したものと考えられる。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)

<参考資料> 地附山 前方後円墳
地附山の山頂から北東に伸びる尾根の頂部に立地し、眼下には善光寺平全域が広がっている。南東側の墳丘裾部が崖となり、盗掘坑らしき痕跡が各所に残るなど、形状はかなり変化しているが、前方部が南西側となる前方後円墳である。全長は三六・一メートルで、前方部の長さ十六・一メートル、幅一四・五メートル、後円部の直径二〇メートルを測る。前方部の全面から北側にかけて、幅三~四メートル、深さ八〇センチメートルほどの周溝がめぐらされている。
昭和六一年、筑波大学の測量調査によって、前方後円墳である可能性が指摘された。正式な発掘調査はされていないため、墳丘形態や埋葬施設、築造年代も明らかではないが、本古墳直下の平坦地に存在した上池ノ平古墳群との位置関係などから、五世紀中頃から後半にかけての築造と推定されている。
詳細は不明な部分が多いが、長野市北部において盟主墳的な存在であり、きわめて貴重な古墳である。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)

<参考資料> 地附山 前方後円墳
◎地附山に作られた古墳
平地からの高さが約300mもある地附山の山頂に、全長36.1mの地附山前方後円墳が作られています。崖くずれや盗掘などによって形が変わっており、前方後円墳であった可能性も考えられます。また、山頂から少し下った平らな場所には、上池ノ平1~6号墳という円墳が作られていました。1985(昭和60)年に発生した地すべり災害によって1~5号墳は消滅してしまい、6号墳だけが今も残っています。
◎いつ作られたのか、だれの古墳なのか?
正式な発掘調査をおこなっていないため、誰が埋葬されているのかなど詳しいことはわかりませんが、だいたい5世紀中頃から後半にかけて作られたのではないかと推定されています。古墳が作られた当時は、人びとが生活している長野盆地全体を見おろすことができたことから、ある程度の権力を持った人のお墓と考えられます。

古墳ってなんだろう?
古墳とは、土や石を使って、地面よりも高く盛り上げて作った、昔の人のお墓のことです。日本全国で15~20万基ものたくさんの古墳が作られた、3世紀後半から8世紀初めごろまでのおよそ450年間(約1700~1300年前)を、「古墳時代」と呼んでいます。
古墳の形には、基本的に前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳の4つがありますが、長野市内にある約870基の古墳のうち、前方後円墳または前方後方墳は16基だけで、残りはほぼ直径10mくらいの小さな円墳です。
(長野市教育委員会・長野市立博物館・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成22年)

<参考資料> 善光寺ロープウェイ
善光寺ロープウェイは、地附山の山麓駅「雲上台駅」と山頂駅「地附山頂駅」間の水平長570mを約8分で結んでいました。長野国際観光が1961年3月に開業した民営の索道です。「とがくし」「いいずな」の名がつけられた二台のゴンドラは、初年度は50万人を超えるレジャー客が訪れました。
1964年にバードラインが開通し、地附山一帯は通過地点になり衰退の一途をたどり、1985年の地滑り災害により、バードラインも寸断され、人の訪れない場所になってしまいました。
(地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)


地附山 パワーポイント~ 跳駒トレイル経由 駒弓神社
170820_1344_地附山パワーポイント(長野市) 170820_1345_地附山パワーポイント(長野市)
170820_1343_w_地附山パワーポイント(長野市)
展望抜群! 地附山 パワーポイント
170820_1406_地附山跳駒コース(長野市) 170820_1413_地附山金毘羅宮(長野市)
跳駒トレイル案内 金毘羅宮
170820_1415_地附山跳駒コース・金毘羅宮への分岐(長野市) 170820_1419_地附山駒形嶽駒弓神社(長野市)
駒弓神社へ 駒形嶽駒弓神社

<参考資料> 金毘羅宮(金刀比羅宮)
祭神
 大物主神
 崇徳天皇
由緒
讃岐(香川県)の金刀比羅宮は金刀比羅本教総本部で「こんぴらさん」と呼ばれ全国的に知られ、現在でも多くの人たちが参詣に訪れている。
この滝区の金毘羅宮は江戸時代、滝に住んでいた「石坂善兵衛」が飛脚していた頃、讃岐の金毘羅宮に七回も参拝し御神徳を深く感じ、文化元年(一八〇四年)から文政五年(一八二二年)頃、ここに小さな祠を建て金毘羅宮を祀ったのが初めと言われている。
明治六年(一八七三年)社殿が回収されたが、現在の社殿は昭和十年(一九三五年)法泉院不動堂(滝の不動さん)内に安置されていた金毘羅社殿をここに遷されたものである。さらに平成十三年(二〇〇一年)には滝地区有志四十八名のご厚志により屋根の修理、鳥居の再建が行われた。
また、昭和六年(一九三一年)には御神水場(ごしんすいば)が設けられ、水波能賣神(みずほのめのかみ)(水神)が祀られた。
なお、社殿前には小県郡武石村(現在上田市)に生まれ裁判官を務めた後、当地の梨を始めとする果樹栽培に従事し全国に名を為し大正十一年(一九二二年)亡くなった塩入り武雄翁之碑が建てられている。
行事
 例祭 四月二十三日
(滝区・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)

<参考資料> 駒形嶽駒弓神社
御祭神 健御名方富命彦神別神
相殿神 大宜都姫命
由緒
創立年月は不明であるが、文政十一年(一八二八年)には現在の社号となっており、本殿は文久三年(一八六三年)に再建されたものである。
古くから式内名神大・水内神社の奥社と伝えられている。水内神社は神仏習合時代、善光寺「奥の院」と称され参拝者が多かった。
当神社は善光寺との関連が深く、社紋は卍(まんじ)であり、本殿は善光寺と同じ「撞木(しゅもく)造り」である。二月一日には、境内にある善光寺堂童子斎場にて正月行事で用いられた注連等の祭具を焼却する「お駒送り」の行事が行われる。
本殿には木馬四頭が神馬として祀られている。中央祭壇の黒駒の鞍には卍の印があり、乗っている人物は聖徳太子と言われている。その昔、聖徳太子の馬は甲斐の国の黒駒で、その駒が当社の高嶺にとまり、善光寺如来の鎮座を待ちこがれ仏法を守護した。そして、善光寺如来が当社の駒に乗り年越しの夜、市中を巡行したと言う伝説がある。
昭和以前の例祭日には遠くからも飼養馬(しようば)を曳き参詣する人が多く、全山馬で埋もれたという。また、養蚕の守護神として篤く崇敬された。
昭和六〇年(一九八五年)に発生した地附山大地滑りにも強固な岩盤上に鎮座している本殿は被災を免れ、以来「滑らない神社」「落ちない神社」として受験生の信仰を集めている。なお、明治四十二年(一九〇九年)には上松の八幡社、滝の諏訪社、湯谷の飯縄社が合祀された。
行事
歳旦祭 一月一日
元始祭 一月三日
お駒祭り 二月一日
春季例祭 四月第一日曜日
風鎮祭 八月三十一日
秋季例大祭 九月二十二日~二十三日
新嘗祭 十一月二十三日
(上松五区氏子総代・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)





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