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100829_1014_砥石城跡から上田IC付近(上田市)

上田市上野(地図)にある山城跡。
もともとは真田氏に属する城でしたが、天文10年(1541)の海野平の戦い( Wikipedia )で真田氏が拠点を追われた後、村上義清( Wikipedia )が上小地方の備えとしたと伝えられています。
武田信玄による北信濃攻略に際しては、激しい攻防が繰り広げられ、天文19年(1549)の武田軍による攻撃では、武田方の横田備中守が戦死をするなど「砥石(戸石)崩れ」といわれる敗北を喫しました。
しかし、村上方の反抗もここまでで、真田幸隆( Wikipedia )の謀略により翌20年(1551)5月に難攻不落の城も敢えなく落城。村上氏が越後へ落ちるきっかけとなりました。
城跡は、本城を中心に、北に桝形城、南に砥石城、南西に米山城の4つが一体となった複合城郭で、昭和44年5月、長野県史跡に指定されました。それぞれの城を結ぶ散策路が尾根沿いに設けられています。
(写真:砥石城跡から望む上田市内=8月29日、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 信州うえだ観光NAVI
  http://www.ueda-trenavi.jp/
・ 上田情報蔵
  http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/
 

砥石城跡 (伊勢山ルート) 
100829_0941_砥石城跡入口(上田市) 100829_1130_砥石・米山城門(上田市)
 砥石城跡登り口  砥石・米山城門
100829_0946_砥石城跡登山道(上田市) 100829_0950_砥石城跡登山道(上田市)
 なだらかな登山道を砥石城跡へ
100829_0954_砥石城跡登山道(上田市) 100829_0955_砥石城跡登山道(上田市)
 砥石・米山城跡分岐  ここからしばらく急登
100829_1004_1_砥石城跡登山道(上田市) 100829_1004_2_砥石城跡登山道(上田市)
  さらに続く急登、ロープを使ってゆっくり
100829_1007_砥石城跡(上田市) 100829_1011_砥石城跡(上田市)
 砥石城跡 富士山も眺望可 
 
本城跡 (砥石城跡)
 100829_1025_砥石城跡・切岸(上田市)  100829_1028_砥石城跡・本城石垣跡(上田市)
 北側に残る「切岸」  入口に残る石垣跡
 
切岸
切り立った険しい崖を切岸というが、戦国時代の城郭では敵の侵入を防ぐために人工の切岸も造られた。この切岸も人手が加えられたと見られる急崖で、、下の堀切とセットになっており、伊勢山方面からの道を押さえている。元来は、はしごを掛けて登降していたものとみられる。
 
 100829_1028_砥石城跡・本城大手口(上田市)  100829_1032_砥石城跡・本城(上田市)
 大手口跡 本城跡 
 
大手口
砥石城へは、周囲の畑山・伊勢山・金剛寺三方向から登れるが、この伊勢山からの道が大手(正面)口と考えられている。登道途中右手の山腹には湧水があり、砥石城の「水の手」と伝えられ、また、段郭(削平地)も数多く配置されている。
本城
砥石・本城・枡形と連なる三要害(砦)からなる砥石城の中心にである。南から北へと段登りの数段の削平した郭からなっており、最上部が本郭である。山上としては、かなり広い群郭であり、館もあったのでは、と推定されている。なお、一般に「本城」とは、江戸時代の本丸に当たる。
 
 100829_1034_砥石城跡・本城矢竹(上田市)  
 矢竹  
 
矢竹
矢竹は節が低く節間もまっすぐなところから矢(矢柄)に用いられ、s自然に生えるだけでなく栽培もされる。
この辺り一帯に繁っている矢竹も、砥石城内に植えられていたものの名残ではないか、とみられている。ここに限らず中世の城跡や館跡に矢竹が生えている例は多い。
 
  枡形城跡 (砥石城跡)
100829_1034_砥石城跡・桝形城上り(上田市) 100829_1036_砥石城跡・桝形城(上田市)
 本城から枡形城跡へ 枡形城跡 
 100829_1037_砥石城跡・桝形城(上田市)  100829_1038_砥石城跡・桝形城(上田市)
 堀切の向こうにも郭 真田氏本城方面 
 
米山城跡 (砥石城跡)  
100829_1103_砥石城跡・米山城(上田市) 100829_1101_砥石城跡・米山城(上田市)
米山城跡 登山者記録ノート
100829_1102_1_砥石城跡・米山城(上田市) 100829_1102_2_砥石城跡・米山城(上田市)
  本郭跡に建てられている「村上義清公之碑」

<参考資料> 長野県史跡 戸石城跡
この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。
<本城>
砥石城全域で最も広大で、最上段の本郭から南へ二の郭・三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭・三日月形郭・帯部等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷間で、これを登る西側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)と見られる。
<桝形城>
北方最高所標高八〇〇mにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に四平方メートルの桝形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が二つある。
<砥石城>
本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅九mの深い堀切がある。本郭は方二〇mの削平方形郭で、周囲の展望は実によい。

砥石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。
(「砥石城跡」にある長野県教育委員会・上田市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 長野県史跡 砥石城 米山城
砥石城は本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城の四要害から後世されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかでないが、室町時代後期 坂城の村上氏が、小県方面へ進出する拠点としていた。
天文十九年村上義清が、武田晴信の軍を大敗させ、世に「武田の砥石崩れ」と称されたが、翌二十年真田幸隆は調略を用い、独力で攻略した。やがて幸隆の子昌幸はこの城を居城としたが、天正十一年上田城に移った。それ以後も上田城外護の要害として重要視された。
米山城は、砥石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれている。また白米を馬の背に流して、水が余るほどあることを敵にみせかけたという、白米城伝説も残されている。
(「米山城」にある長野県教育委員会・上田市教育委員会設置の案内板から)





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