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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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150504_0929_善光寺御開帳・善光寺境内(長野市)

善光寺では御開帳の期間中、山内の寺院で御朱印を押印していただくことができます。御朱印帳は善光寺授与品所などで販売されており、1500円から購入することができます。「善光寺」の刺繍がある御朱印帳袋も販売されているので、あわせて購入されると便利かもしれません。御朱印の料金はひとつ300円(平成27年現在)です。
(写真:参拝者で賑わう善光寺=4日午前撮影、640×480拡大可能)
 
御朱印参拝参加寺院
善光寺大勧進(不動明王) / 善光寺大本願(善光寺本師如来) / 徳寿院(文殊菩薩) / 本覚院(本善堂・阿舎利池) / 良性院(準堤観音) / 玉照院(聖観音菩薩像) / 常住院(大日如来) / 世尊院(涅槃釈迦如来・毘沙門天) / 常智院(大黒天) / 福生院(善光堂) / 堂照坊(青面金剛像) / 白蓮坊(むじな地蔵) / 兄部坊(延命地蔵菩薩) / 渕之坊(善光寺縁起堂) / 薬王院(阿弥陀如来) (「ながの観光 Net」より)

<参考HP>
・ 善光寺御開帳公式サイト
  http://www.gokaicho.com/
・ 善光寺事務局
  http://www.zenkoji.jp/
・ 善光寺本坊大勧進
  http://www.daikanjin.jp/
・ 大本山 善光寺大本願
  http://www.daihongan.or.jp/
・ 全国善光寺会
  http://www.zenkojikai.com/
・ ながの観光 net
  (ながの観光コンベンションビューロー)
  http://www.nagano-cvb.or.jp/

<管理人ひとこと>
今回の御開帳に合わせ、管理人が御朱印を戴いたのは、善光寺(本堂)、大勧進、大本願、世尊院、往生院(権堂)、西光寺(北石堂町)の計6ヶ所。
回向柱や内陣参拝だけにに留まらず、御開帳の混雑ぶりは御朱印所にも及んでおり、全ての寺院から戴くことを望むとあらば、参拝に要する時間と労力、忍耐が必要です。
そこで管理人は、善光寺(本堂)、大勧進、大本願は申し上げるまでもありませんが、御朱印参拝参加寺院のなかから、釈迦堂前に建てられている供養塔の用材が、回向柱とともに、個人的にも縁のあった長野市松代町から献上されている世尊院(涅槃釈迦如来・毘沙門天)、善光寺の仮堂が設けられ、御本尊が安置されていたことがあるという往生院(善光寺如来御遷座・大弁財天)、松代藩真田家が幕府より善光寺本堂の普請を命じられた際に、普請惣奉行を務めた小山田平太夫がここに宿泊し指揮をしたと伝えられる西光寺(苅萱親子地蔵尊・壽老人)の三ヶ所に絞り、御朱印を戴くことにしました。


善光寺御開帳 御朱印めぐり
150504_0828_善光寺御開帳・善光寺御朱印(長野市) 150504_0900_善光寺御開帳・善光寺御朱印(長野市)
150504_0917_善光寺御開帳・善光寺御朱印(長野市) 150504_1140_善光寺御開帳・善光寺御朱印(長野市)
善光寺授与品所
左上:御朱印行列入口
右上:御朱印受付(一般)は2つ
左下:事前に戴く御朱印の種類と数を確認
右下:御朱印を受領する窓口
150504_1044_湯福神社(長野市) 150504_0951_善光寺御開帳・善光寺地震塚(長野市)
湯福神社 善光寺地震 地震塚
150504_1205_善光寺御開帳・善光寺大勧進(長野市) 150504_1239_善光寺御開帳・世尊院御朱印(長野市)
善光寺大勧進 世尊院釈迦堂
150504_1303_善光寺御開帳・大本願御朱印(長野市) 150504_1246_善光寺御開帳・大本願御朱印(長野市)
善光寺大本願
左:御朱印所がある明照殿
右:中日庭儀大法要でご上人さまが乗られるお駕籠
150504_1319_善光寺御開帳・往生院御朱印(長野市) 150504_1359_善光寺御開帳・西光寺御朱印(長野市)
往生院 苅萱堂 西光寺

長野市内駐車場→善光寺表参道→善光寺境内→善光寺授与品所(御朱印受付・08:28~09:17)→<待ち時間>本堂外陣にて参拝→善光寺地震 地震塚→湯福神社→善光寺授与品所(御朱印受取・11:30)→大本願(11:40)→世尊院(12:35)→大本願(12:45~13:00)→往生院(13:20)→善光寺表参道→西光寺(13:55)→長野市内駐車場
  
<参考資料> 種田山頭火句碑
 八重ざくらうつくしく 南無観世音菩薩像
 すぐそこでしたしや 信濃路のかっこう

種田山頭火(一八八二~一九四〇年)は山口県の生まれで、「歩行禅」という言葉を好み、俳人として全国を漂白しました。昭和十一年(一九三六年)には善光寺に参詣しました。

MONUMENT TO THE HAIKU POEMS OF TANEDA SANTOKA
How beautiful are the double-flowered cherry blossoms! I devote myself to Kannon Bosatsu.
Nereby I heard a cuckoo singing.Now I feel I'm truly in Shinano(Nagano).
Santoka was born in Yamaguchi prefecture.He loved 'Hokou-zen'(walking with concentrated mind).He was a wandering poet and visited Zenkoji in 1936.

<参考資料> 小林一茶句碑
 春風や 牛に引かれて 善光寺
 開帳に 逢ふや雀も 親子連(づれ)

小林一茶(一七六三~一八二七年)は、長野県信濃町柏原の生まれで、庶民に親しまれる数多くの俳句を作りました。この二句は一茶が善光寺奉納句として書いたものです。

MONUMENT TO THE HAIKU-POEMUS OF ISSA
Inscribed on this monument are poems written by famous haiku poet Kobayashi Issa.
The spring breeze drew me here.As a old woman once chased after an ox to Zenkoji.
Sparrows,too,have come to see the Go-kaicho togeter with their chick.
Issa's poems are beloved by the Japanese.Issa,born in Nagano in 1763,dedicated these two haiku-poems to Zenkoji.

<参考資料> 井上井月句碑
 越後に八ッ房有とや
 思ひよらぬ 梅の花みて 善光寺
 蝶に気の ほぐれて杖の 軽さかな 井月

井上井月(一八二二~一八八七)は越後長岡生まれと言われる行脚俳人。関西や東北に芭蕉の足跡をたどった後、信濃に来て、やがて伊那の地に旅衣を脱いで三十年。家も妻子も持たず、無欲無一物。酒を愛し、俳諧一筋に仲間の家を訪ねては一泊二泊、流麗な筆跡の高吟を残した。善光寺に度々参詣し、元治元年(一八六四)秋には宝勝院主梅塘方に滞在、約百日「家づと集」を編集刊行している。

MONUMENT DEDICATED TO THE HAIKU-POEMS OF SEIGETSU INOUE
Meaning of the poems inscribed here:
Unexpectedly encountering plum blossoms in Zenkoji temple,he recalled Echigo Province,famed for the unusual species of plum tree called"Yatsufusa(Eight-bunches)".
A butterfly comes flying.It relaxes me.And even my cane seems lighter.

Seigetsu Inoue (1822-1887),a Haiku poet believed to be from Nagaoka,Echigo(Niigata Prefecture),occasionally visited Zenkoji temple and stayed there for 100 days to compile a book of Haiku poems named"Iezuto Collection(It's the collection of Haiku poems that he gave as a souvenir to people who took care of him)" in 1864.

<参考資料> 善光寺参道(敷石)
善光寺参道(敷石)は、宝永四年(一七〇七)、本堂が仲見世堂跡地蔵尊府k陣から現在地に移転竣工の後、七年目にあたる正徳四年(一七一四)に完成した。
本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため、正徳三年、本堂前の敷石が腰村(西長野)西光寺住職単求の寄進による敷設、続いて境内入口の二天門跡から山門下までの二一八間(三九七メートル)が江戸中橋上槙町(現日本橋三丁目)の石屋香庄(大竹屋平兵衛)の寄進により敷設された。(墓碑銘・大勧進日記)
伝説によると、平兵衛は、伊勢出身で江戸で財をなしたが、長男が放蕩で家や寄り付かなかった。ある夜、盗賊が入ったので、突き殺すと、それが我が子であったという。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺にきて、諸人の難儀を救うため敷石を寄付した。
平兵衛は後に茂菅静松寺で出家し、享保一一年(一七二六)に没した。平兵衛の墓は、静松寺と善光寺境内に今も残っている。その後も平兵衛の子孫は、敷石の修理をしていたという。
敷石は、山門上が幅四間、山門下から二天門跡までが幅三間で、長方形の石が規則正しく敷かれている。西長野郷路山産の安産岩製で総数七七七七枚といいならわされているが、現在およそ七千枚が敷設されている。一部補修をうけているが、大部分は当初のままで、これほどの規模を持つ近世以前の敷石の参道は、全国的にも稀である。
(長野市教育委員会設置の案内板から・平成9年)

<参考資料> 善光寺町防火水路と「畳差し」
江戸時代には各地で火災が頻発していました。善光寺門前町でも、いかに善光寺を火災から守るかが課題でした。
この防火水路は、町からの火災でたびたび善光寺さんが焼けたので、なんとか火災から善光寺さんを守ろうと、各家の一間下屋の中の地下に設けられたものです。
構造は巾約九〇センチメートル、高さ約一メートルの石積水路で、石蓋が設けられています。水路は湯福川より引水し、善光寺裏の池(女池、男池別名つばめ池、新池)に貯水し、一旦火災が発生すると水門を開けて防火水路に導水し、鐘鋳川に放流されます。
その際、急勾配の町を巧みに「畳差し」により、目的地水路に向け導水し、更に目的地でも「畳差し」により水を蓄え、防火しました。
また、水源地の一つ大勧進放生池は、天明の飢饉の際、庶民救済のために設けられました、水路も善光寺を火災から守ろうとの庶民の思いから作られたもので、共に相、思い合う心があって善光寺町防火水路が築造されました。
かつてこの水路も、道路等の散水、牛馬の水飲み、流雪溝として人々の生活に役立ち、一旦火災が発生すると消火の用に供されました。しかし近年、上下水道の普及に伴い次第にその姿を消してきました。あらためて水の大切さや先人の偉に感謝して大切に保存します。(古畑和男記)
(「西之門」前にある第一地区住民自治協議会設置の案内板から・平成25年)

<参考資料> 往生院寺歴
当山往生院は正しくは安楽山往生院得行寺といい、古にはこの地に蓮池があったことから、蓮池庵とも称します。
およそ一二〇〇年前の大同二年(八〇七年)弘法大師(こうぼうだいし)が善光寺参詣の折り、この場所に寶乗寺(ほうじょうじ)を創建したのがこの寺の開山です。その後正治元年(一一九九年)法然上人(ほうねんしょうにん)善光寺参詣の折り、当往生院に逗留し、浄土宗に改め、自ら初代となりました。
建久八年(一一九七年)源頼朝公善光寺参詣の折り、頼朝公善光寺再建を発願し、その時に秘仏善光寺如来を当往生院にお移しになり、当院を善光寺の仮堂としました。仮のお堂のことを権堂と言います。当院が権堂と呼ばれたことから、その後この辺りを権堂町と呼ぶようになりました。
境内には県内最古の宇賀神九頭竜大弁財天が賑々しく奉られて多くの参詣者の信心を集めています。
(案内板から)


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