管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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長野市南部に位置する松代町(地図)は、武田信玄によって築城された松代城(海津城)に、江戸時代初期上田から真田氏が入り、以来幕末までの250年間北信濃の政治・経済を治めた城下町。真田家ゆかりの品々を収蔵・展示する真田宝物館や真田邸、藩士の子弟の学舎として建設された旧松代藩文武学校をはじめ、幕末に活躍した佐久間象山の記念館、太平洋戦争末期に本土決戦の拠点として軍部が築いた地下壕など見どころも多く、四季を通じて多くの観光客が訪れます。
ここでは、松代城を起点におよそ1時間程度で歩ける範囲にある観光スポットを紹介します。管理人が歩いたルートは下記のとおりです。
(写真:松代城跡=4日撮影)
松代城跡⇒小山田家⇒矢沢家の表門⇒松代活動館跡⇒松代藩鐘楼(日本電信発祥の地)⇒中央橋(思案橋)跡⇒旧横田家住宅⇒井上操生誕の地⇒山寺常山邸⇒象山神社⇒恩田重信生家⇒馬場家長屋門⇒真田勘解由家⇒旧白井家長屋門⇒真田宝物館⇒恩田木工像⇒松代城跡
<参考HP>
・ 信州松代へようこそ
http://www.matsushiro-year.jp/
・ エコール・ド・まつしろ
http://www.matsushiro-club.jp/
真田十万石まつり |
北側駐車場からは、案内に従い散策路を歩きます。先ず見えてくるのは復元された「北不明門」(きたあかずのもん)。続いて四方を石垣に囲まれた城内本丸、復元された太鼓門、整備された二の丸南門跡の順で進みます。本丸には、かつて櫓があったとされる櫓跡に上ることができ、上杉謙信が陣を張った妻女山や、戦の舞台となった川中島平を遠望することができます。時間があれば、立ち寄ってみてもよいでしょう。
二の丸南門を通り、右手に藩主が政務を行ったとされる花の丸跡を見ながら長野電鉄河東線の踏切をわたると、いよいよ古き佇まいを今なお残す城下町へと足を進めることになります。
<参考資料> 国史跡 松代城(海津城)跡
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。
海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄三年(一五六〇)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配していた武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。
元和八年(一六二二)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。
その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。
松代城跡~小山田家・矢沢家の表門 | |
小山田家 | 矢沢家の表門 |
<参考資料> 小山田家
当小山田家は初代が小山田壱岐守茂誠と称し武田信玄薫陶の武将として戦国時代に活躍した小山田備中守の後裔である。また小山田茂誠の妻は真田昌幸公の長女村松殿であり従って信之公幸村公の姉でもある。
元和八年(一六二二年)信之公の移封と共に上田より松代のこの地に移る。以来松代藩の次席家老として明治廃藩まで続いた。
<参考資料> 市指定有形文化財 矢沢家の表門
焼け跡が残る表門 |
寛政四年(一七九二)に再建されたこの長屋門は、間口一三,一九メートル、奥行三.七二メートル、高さ六.八三メートルで、尾根は入母屋(いりもや)造の瓦葺である。門の両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の同心部屋の隣には「供待(ともまち)」という腰掛を備えた開放の空間を備えている。鬼瓦や破風に配された六連銭(むつれんせん)や、白漆喰の壁など城門を思わせる格式を持っている。
平成十七年(二〇〇五)の火災により類焼被害を受けたが、約二年間の修復工事を経て甦った。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
小山田家・矢沢家の表門~ 松代活動館跡・旧松代藩鐘楼 |
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松代活動館の跡 | 旧松代藩鐘楼 |
<参考資料> 松代活動館の跡
松代町殿町 大正時代~昭和四十年代
開設当初は、一階に桝席、二階に椅子席(定員八〇〇人)が馬蹄型に設けられていた。洋画・邦画の無声映画を上映し、町民に娯楽を提供、文化活動の場ともなった。松代出身の童謡作曲家・海沼実は、ここで明治大学マンドリン部の演奏を聴き、状況を決意したという。また、後に松代小学校の同級生が設立した児童養護施設、松代福祉寮建築資金捻出の為の公演会も開催している。
<参考資料> 市文化財 旧松代藩鐘楼
この鐘楼は、真田信之が元和八年(一六二二)十月、上田城から移り松代城主となってまもない寛永元年(一六二四)に設けたもので、ここに松代藩足軽千人余の番割りをした割番役所を置いたので、割番所ともいった。
この鐘は、昼夜の別なく一時(約二時間)ごとにつかせて時刻を知らせ、また城下に出火の際に非常を知らせた。城下町のたび重なる大火で、享保二年(一七一七)・天明八年(一七八八)・寛政十二年(一八〇〇)の三回類焼にあい、初代・二代の鐘は焼損し、文化三年(一八〇六)につくられた鐘は太平洋戦争中に供出された。平成三年旧鐘の寸法・重量を模して、新しい鐘がとりつけられた。
寛永元年建築のものは、鐘楼と火の見が一棟建てだったが、寛政十三年の火災のあと別棟とし、享保元年(一八〇一)に再建されたものが現存する鐘楼で、北隣りにあった火の見櫓は明治初期に取りこわされた。
また、佐久間象山がオランダ語の書物をもとに電信機を作り、北東七十メートルにあった御使者屋に電線を張り、両者の間で電信実験に成功した「日本電信発祥の遺跡」である。
(長野市教育委員会・松代史跡文化財開発委員会設置の案内板から)
松代活動館の跡・旧松代藩鐘楼~ 中央橋(思案橋)跡 |
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谷街道(松代郵便局前) | 観光地・松代をPR |
<参考資料> 中央橋(思案橋)の跡
松代町木町
江戸時代~昭和初期
北国街道脇往還道・谷街道上の小鮒川にかかっていた橋。松代城下中央にあったことから「中央橋」と名付けられた。この橋の袂で年季明けの丁稚や女工たちが「郷里に帰ろうか、それともここに残ろうか」と思案したことから別名「思案橋」とも呼ばれた。
中央橋(思案橋)跡~ 旧横田家住宅・井上操生誕の地 |
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旧横田家住宅 | 井上操生誕の地 |
<参考資料> 重要文化財 旧横田家住宅
旧松広藩士横田家は、禄高一五〇石の中級藩士で郡奉行などを努めた家である。最後の甚五左衛門は表御用人であった。
この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在地に移った時期は十八世紀末である。主屋は、寛政六年(一七九四年)、表門は天保三年(一八二〇)頃移築されたものと推定される。屋敷地は、間口約四十メートル(二十二間余)、面積三三四〇.八二平方メートル(約千十二坪)、道に面して表門、奥に主屋、主屋の東隣りの隠居屋、主屋南西に土蔵が建つ。この屋敷構えは江戸時代末期の様相を伝え、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されている点で貴重である。
なお、横田家から出た秀雄は大審院長に、その子正俊は最高裁長官になり、二代続いて裁判官の最高の地位についた。そのほか、秀雄の弟謙次郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名で、多くの秀才を生んだ家である。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 関西大学の創立者 井上操生誕の地
司法省法学校正則一期生としてフランス法を学び、司法省に勤務。明治法律学校で治罪法(刑事訴訟法)の講義を担当。のち裁判官となって大阪控訴院に赴任。関西法律学校(のち関西大学)の開設に積極的に関与し、刑法など諸講義を担当、その後も教学の中心的役割を担った。
弘化四年(一八四七)~明治三十八年(一九〇五) 享年五十八歳
旧横田家住宅・井上操生誕の地~山寺常山邸 | |
山寺常山邸 | 庭園 |
<参考資料>山寺常山(やまでらじょうざん)邸
山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、通称源太夫(げんだいゆ)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。八代藩(※松代藩の間違いか?)主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってはその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬:たいちくろ)が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦らが、長野城山に建つ碑文の摩耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。
(長野市設置の案内板から)
山寺常山邸~象山神社 | |
象山神社 | 高義亭 |
象山神社にある佐久間象山の碑 | |
<参考資料>
御祭神 佐久間象山(さくまぞうざん)について
幕末の大先覚者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(一八一一)に生まれる。六才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、二十才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
二十三才江戸佐藤一斎の塾に入門。渡辺崋山・藤田東湖等と親交。三年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。
二十九才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。三十六才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。四十一才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出。ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当る。開国論を唱え、横浜開港を主張する。松陰密航事件に連座して投獄される。四十四才から九年間松代に蟄居される。この間高杉晋作・久坂玄端・山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳(ただのり)らが面会に訪れ、時世について、激論、象山の学識に感動して去る。
五十四才元治元年(一八六四)幕府の命で京都に上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊王開国の捨石となって非常の最後を遂げる。その後四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊王開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和十三年十一月三日県社として創建された。
(財団法人佐久間象山先制顕彰会設置の案内板から)
<参考資料> 市指定文化財 高義亭
もと松代藩家老望月主水貫土恕の下屋敷にあった建物である。安政元年(一八五四)佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺(さんかわらぶ)きとする。下屋根も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関(二坪)・取り次ぎの間(六畳)・次の間(九畳)・客間(一〇畳)、茶の間(六畳)・勝手(四畳半)と、西に納屋を造り出す。玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。客間と次の間は襖で仕切り、外側に明障子を立て縁を回す。取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口とする。二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に六畳間、北に置床付き七畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間である。
明治以後住人が変わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 大審院長(現最高裁判所長官)、法学者 横田秀雄頌徳の碑
大正十二年(一九二二)、大審院長となる。「一厘事件」「狸・狢(むじな)事件」「虎の門事件」などの人情味あふれる名判決は「現代の大岡裁き」と賞賛された。退職後、都内各大学で講義。明治大学総長も務めた他、象山神社建立のため奔走。長男正俊は最高裁長官。著書に『物権法』『債権法』他。
文久二年(一八六二)~昭和十三年(一九三八) 享年七十七歳
象山神社~文武学校周辺 | |
恩田重信生家 | 文武学校 |
<参考資料> 恩田重信生家
明治薬科大学創学者 松代町竹山町
文久元年(一八六一)~昭和二十二年(一九四七) 享年八十七歳 菩提寺・長国寺
松代藩士恩田十郎時篤の長男として生まれ、東京大学医学部製薬学科に学ぶ。内務省衛生局・千葉医学校付属病院等に勤務した後、薬学の普及・社会に貢献する薬剤師の養成・医薬分業や国民の保健衛生等を目指し、東京薬学専門学校(現明治薬科大学)を設立した。
<参考資料> 馬場家長屋門
この長屋門は、御国御取次役並・御聞番役などを勤めた藩重役の表門である。
茅葺・寄棟造りで四段の腰簓子(ささらこ)下見板張りや出格子窓・切子格子窓を用いている。
門扉には、八双金物・乳金物が使われている。左に潜り戸がありそれに接する北長屋には格子窓を設けている。江戸時代後期の建物である。
(松代登録文化財の会設置の案内板から)
<参考資料> 真田分家 真田勘解由家
この家は約百六十年前、花の丸の長局をこの処に移築したもので、その前は殿町にありその時は茅葺であった。
当家は初代藩主真田信之の子二代信政と京の小野お通の子(二代お通)圓子との間に生まれた信就(のぶなり)を始祖とする。通称勘解由信就は長子であったが大名家に入るを好まず末弟幸道が三代を嗣いだ。
幸道に子がなく信就の六男信弘が四代を嗣ぎ六代まで続いたが七代は井伊家より迎えた。
当家も四代は祢津家から迎える等あり、両家とも現在に至っている。八橋流再興の祖真田志んはその生誕終焉の処として九代道泰が建碑している。
(案内板より)
<参考資料> 真田勘解由家主屋と鎮守社
当家は江戸末期に藩主の館、花の丸御殿の一部を移築したと伝えられているもので、木造平屋建(一部、中二階)、桟瓦葺で藩重役の住居としての趣を有する。弓術家でもあったが、女子は八橋流箏曲を伝承してきた。
鎮守社は、藥医門を潜り右手北東隅に位置する。覆屋棟には六連銭の真田家表紋を雁金、州浜の裏紋の瓦がのり、側面を白漆喰の塗り込め、腰を海鼠壁としている。主に八幡宮がまつられている。
(松代登録文化財の会設置の案内板から)
<参考資料> 市指定文化財 旧白井家表門
この表門は、もと表柴町に建っていましたが、平成十二年に現在地に移築復元しました。建築年代は、松代藩文書などから弘化三年(一八四六)であることがわかりました。
白井家は、松代藩の中級武士であり、真田家明細書によると、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを勤めました。子の平左衛門も文武学校権教授に出仕し、また、佐久間象山との親交も密にしています。
表門は、三間一戸門形式の長屋門で、門部は太い槻(つき)の角材でつくってあります。間口が二十m余の長大な門で、背面に三つの居室部を付設し、白井家の陪臣武士などが居住したとみられ、門に住宅が続いているのも珍しい例といえます。桟瓦葺の大型な長屋門は、松代藩では、天保期から多くなりますが、それ以前には茅葺の門が一般的であったようです。
旧白井家表門は、長大な間口に対して、屋根を低くおさえ、正面は門口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性が秀抜です。松代藩中級武士の代表的な表門として、旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものです。
(長野市教育委員会世設置の案内板から)
文武学校周辺~真田宝物館・恩田木工像 | |
真田宝物館 | 恩田木工の像 |
<参考資料> 恩田木工民親
恩田木工民親(おんだもくたみちか)は、松代藩財政の建直し充実をはかり優れた民政を行った人として、また江戸時代の経世家として名高い。享保二年松代に生まれ、三十歳で家老職となり、宝暦七年(一七五七)真田家六代藩主幸之公に抜擢され、四十一歳で家老職勝手掛となって窮乏する藩財政建直しを命じられた。
民親は正義を政治の基本として自ら虚言しないことを契り、財政窮乏を救う道は倹約が第一であるとして自ら実行し、納税法の改正・荒地の開墾・養蚕等殖産興業をすすめ、一方、詩歌・音曲を奨励して生活に楽しみを与え、民生の安定をはかり藩財政の建直しを成功させた。
しかし、宝暦十二年(一七六二)在職僅かに五年、四十六歳で病没した。墓は松代町田町の長国寺にある。民親の業績は『日暮硯』(ひぐらしすずり)によって、すでに江戸時代に全国的に知られ、その写本が流布した。
(松代史跡文化財開発委員会設置の案内板から)
連休だけの特別研究発表~創作長いも料理 | |
「創作ながいも料理」パンフ (信州松代うまいもの会) |
<管理人ひとこと>
これまで何度か松代の町を訪ねていますが、地元に住んでいる管理人でも、出かけるたびにさまざまな発見があり、城下町ならではの奥行きの深さに、驚いたり、感心することが多々あります。また、この小さな町が、戦国時代から江戸時代にかけて多くの偉人を輩出していること、さらに明治・大正、そして昭和に至るまで、日本の歴史に直接、間接、問わず係わっていたことも珍しいことです。とても1度だけの訪問で町の全てを知ることができないことが、もしかしたらこの松代の魅力になっているのかもしれません。
季節が移り変わるたびにさまざまな表情を見せる真田十万石の城下町・松代。これからも
機会あるごとに街並みめぐりを楽しんでみようと思います。
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