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山梨県甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
武田信玄の菩提寺として知られ、天正4年(1576)には武田勝頼が喪主となって信玄の葬儀がここで行われました。
天正10年(1582)の織田信長による甲州征伐( Wikipedia )において、武田氏滅亡後にこの恵林寺へ逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡し要求するも寺側が拒否。このため、快川紹喜ら僧侶たちは三門に集められ焼き打ちされました。
安禅不須山水 滅却心頭火自涼
あんぜんかならずしもさんすいをもちいず
しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし
炎上する三門で快川紹喜が発した言葉(偈)は後に広く知られ、再興された現在の三門の両側に扁額として掲げられています。
(写真:恵林寺三門=4月29日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 臨済宗 妙心寺派 乾徳山 恵林寺
http://www.erinji.jp
臨済宗 乾徳山 恵林寺 | |
恵林寺境内 | |
名物の うぐいす廊下 | 武田不動尊・二童子像 |
武田信玄墓 | 柳沢吉保夫妻の墓 |
<参考資料> 乾徳山 恵林寺
臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年甲斐牧ノ庄と称した当時地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂・庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。
三門に掲げられた快川国師の「安禅不須山水、滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず、しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。
(山梨県甲州市設置の案内板から)
<参考資料>
重要文化財 恵林寺四脚門
丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造礎盤(いしづくりそばん)が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫(かしらぬき)で繋ぎ、その上に台輪を架し大枓(だいと)・枠・肘木・実肘木(さねひじき)を組み、軒先を海老虹梁(えびこうりょう)で繋いでいる。
このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。
山梨県指定文化財
恵林寺三門 附棟札一枚
構造は、一間一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たり三解脱(さんげだつ)すなわち空門(くうもん)・無相門(むそうもん)・無願門(むがんもん)の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自(ひおのずから)ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様(えよう)は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建築物の中でも逸品とされている。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成7年)
<参考資料>
乾徳山(けんとくさん)恵林禅寺の沿革
当山は臨済宗妙心寺派往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。草創は鎌倉時代末期の元徳二年(西暦一三三〇)当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。
越えて戦国時代、甲斐国主武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め、永禄七年(一五六四)信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。天正四年(一五七六)四月武田勝頼は父信玄の三年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。同十年(一五八二)三月勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。同四月三日、織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と遺偈従容として火定する。
本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代、甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展、吉保夫妻の菩提寺ともなる。庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。
重要文化財
太刀(銘来国長) 一口 鎌倉時代
短刀(銘備州長船倫光) 一口 南北朝時代
恵林寺四脚門(中門・赤門) 一棟 桃山時代
国指定名勝
恵林寺庭園 鎌倉時代
山梨県指定文化財
夢窓国師坐像 一躯 鎌倉時代
和漢朗詠集 一巻 室町時代
恵林寺文書五点 五点 室町時代
渡唐天神画像 一幅 室町時代
武田晴信の墓 江戸時代
不動明王とニ童子(築) 三枚 室町時代
恵林寺三門 一棟 室町時代
塩山市指定文化財(カッコ内は時代)
鎧不動尊立像・釈尊像・軍配団扇・当世具足一式・食籠輪袈裟・軍神鞍・鎧・孫子の旗・諏訪神号旗・恵林寺大鋸・芦葉達磨図・不動明王図・観音像図・夢窓国師像図・快川国師像図・未宗禅師像図・五大尊十二天像図・面壁達磨像図(以上室町時代)
恵林寺文書八点(室町~桃山時代)
養朴筆隻履達磨像図・探雪筆達磨像図・白隠筆達磨像図・武田信玄軍陣影・武田信玄画・仏□槃図(以上江戸時代)
(甲州市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)
<参考資料>
武田不動尊・二童子像
山梨県指定文化財(木造・三躯/室町時代)
信玄生前のお姿を仏法の守護神・不動明王に見立て、京から西佛所職「康清」を招き対面にて摸刻させたという等身大の坐像。
伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を膝に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたと伝えられている。
<参考資料>
山梨県指定 史跡 武田信玄の墓
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(一五ニ一)の出生。天文十年(一五四一)二十一歳で家督を次ぎ、甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀四年(天正元年・一五七三)四月十二日、病のため信州・駒場の陣中で五十三歳で没した。その十年前、永禄七年(一五六四)十二月一日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、三年間の秘喪の後、天正四年(一五七六)四月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財」に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積一八四.八平方メートル。ここに全高三四九.六センチの五輪塔一基、全高三六九.六センチの宝篋印塔ともに寛文十二年(一六七二)四月十二日、信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫五九二人の浄財を得て建立したものであることが判る。
(山梨県教育委員会・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成14年)
<参考資料> 柳沢吉保夫妻の墓
江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府十五万石藩主柳沢美濃守吉保( Wikipedia )と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(一七二四)三月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山十五万石に転出がきまり、このため同年四月十ニ日恵林寺へ改葬されたものである。
柳沢吉保は天下太平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成元年)
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