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150530_0748_武田八幡神社・石鳥居と総門(山梨県韮崎市)

150530_0740_武田八幡神社・北条夫人の祈願文(山梨県韮崎市)
祈願文を刻んだ 石碑
山梨県韮崎市にある神社(地図)で創建は弘仁13年(822)。
御祭神は武田武大神(たけたたけのおおおかみ・武田王)・足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)。
神社( Wikipedia )には、織田信長による甲州征伐に際して、武田勝頼夫人( Wikipedia )が戦勝を祈願した祈願文(旧暦天正10年2月19日付・山梨県指定有形文化財)が残されており、当時の緊迫した状況を切々と訴える内容を刻んだ石碑が境内に建てられています。
(写真:武田八幡神社=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


武田八幡神社
150530_0748_武田八幡神社・総門(山梨県韮崎市) 150530_0738_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市)
総門 舞殿(手前)と拝殿
150530_0740_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市) 150530_0742_武田八幡神社・本殿(山梨県韮崎市)
舞殿 国重要文化財 本殿

<参考資料> 武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁十三年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に據って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文十年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切切たる願文は今に伝えられ武田軍には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。

当社の文化財
重要文化財
武田八幡神社本殿
県指定有形文化財
武田八幡神社末社
若宮八幡神社本殿
武田八幡神社石鳥居 付正面石垣
石造明神鳥居。大きな亀腹(礎石)上に立つ柱には、二葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張えい(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちり太く(径〇.四六メートル)これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。鳥居の貫に天正一二年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石階をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
(山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成10年)
市指定天然記念物
武田八幡神社 敬愛の樹叢


<参考資料> 北条夫人祈願文
うやまって申(す) きくわん(祈願)の事
南無きみやう(帰命)ちゃうらい(頂礼)八まん(幡)大ほさつ(菩薩) 此国のほんしゆ(本主)として 竹たの(武田)太ろう(郎)とかう(号)せしより此かた 代々まほ(守)り給ふ ここにふりょ(不慮)のけき(逆)新出き(来)たって 国か(家)をなや(悩)ます よってかつ(勝)頼 うん(運)をてんとう(天道)にまか(任)せ 命をかろ(軽)んしててきちん(敵陣)にむか(向)う しか(然)りといへとも しそつ(士卒) り(利)をえ(得)さるあいた(間)そのこころまちまちたり なん(何)そきそよし政(木曽義昌) そくはく(若干)の神りょ(慮)をむな(空)しくし あわ(哀)れ 身のふほ(父母)をすて(捨)て きへい(奇兵)をお(起)こす これみつ(是自)からはは(母)をかい(害)する也 なかんつく(就中)かつ(勝)頼るいたい(累代)十おん(重恩)のとも(輩)から けき新(逆臣)と心をひとつ(一)にして たちまちにくつかへ(覆)さんとする はんみん(万民)のなうらん(悩乱) 仏にうのさまた(妨)けならすや そもそもかつより(勝頼) いかてか(争)あく新(悪心)なからんや 思いのほのを(炎)天にあが(揚)り しんいなをふか(瞋恚猶深)からん 我もここにして あひとも(相倶)にかな(悲)しむ 涙又らんかん(闌干)たり しんりょ(神慮)天めい(命)まことあら(誠有)は 五きゃく(逆)十きゃく(逆)たるたくひ(類) しょ(諸)天 かり(仮)そめにもかこあら(加護有)し 此時にいた(至)って 神しん(信心) わたくし(私)なく かつかうきも(渇仰肝)にめい(銘)す かな(悲)しきかな(哉) しんりょ(神慮)まことあら(誠有)は うんめい(運命)此とき(時)にいた(至)るとも ねがわくは れいしん(霊神)ちから(力)をあわ(合)せて かつ(勝)事を かつ(勝)頼一し(己)につけ(付)しめたま(給)い あた(敵)をよも(四方)にしり(退)そけん ひょうらん(兵乱) か(還)へむ(つ)て めい(命)をひら(開)き しゅめう(寿命)しゃうおん(長遠) しそんはんしょう(子孫繁昌)の事みき(右)の大くわん(願) ちゃうしゅ(成就)ならは かつ(勝)頼 我ととも(倶)に しゃ(社)たん(壇) みかき(御垣) た(建)て くわいろう(回廊) こんりう(建立)の事
うやまって申(す)
天正十ねん二月十九日  みなもとの(源)かつ(勝)頼 うち(内)
(市誌上巻佐藤八郎氏執筆より・石碑文から)

※天正10年(1582)2月1日、義弟の木曽義昌が織田信長と結び反旗を翻したため、勝頼は翌日、新府城に人質として送られていた義昌の生母・側室・子供を処刑。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に派遣しますが、16日に行われた鳥居峠の戦いで木曽勢に敗北。勝頼は3月2日の高遠城落城に先立つ2月28日、諏訪から退却します。
北条夫人の祈願文の日付は2月19日。
木曽勢に対する勝利を願った夫人の祈願でしたが、その想いが届くことはありませんでした。

 <参考資料>
山梨県指定有形文化財
武田八幡宮二の鳥居 附・神器 輿石

由緒・歴史
150530_0730_武田八幡神社・二の鳥居(山梨県韮崎市)
県指定有形文化財 二の鳥居
武田八幡宮は弘仁十三年(八二二年)、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡宮を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し堅五尺擯(※)四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社の氏神を定め尊崇した武田太郎信義の没後三四年を経た承久二年(一二二〇年)に信義の弟の加賀美次郎遠光が「本社末社一二三の鳥居迄造営御座候」と修覆整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の武田晴信朝臣父信虎朝臣の御代御新田をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給ひて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄十四年(一七〇一年)に再興、寛政元年(一七八九年)に再再興したという記録が刻まれている。この後、昭和五十四年に屋根の修理が行われ、さらに平成十一年着工の大改修に至った。
輿石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に輿石東面が約三・五メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が厳しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、輿石まで行われている。社記によると二の鳥居場は一一〇坪あり、御田祭などの催事も執り行われた。
昭和六〇年二月に二の鳥居附輿石は韮崎市指定有形文化財に指定され、さらに平成十二年十月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。

構造
鳥居の形式は木造の両部鳥居で、高さ六・四メートル、□□全長八・七メートル、鏡柱々間上部四・九メートル、下部五・三メートル、転び二三センチの雄大な木割を示す。笠木・鳥木は一木造り(一部矧木あり)で穏やかな心反りを示し、その上に屋根をかける。鳥木と□□センチ下の大貫との間に額束を備え額□まえに縦一二五センチ、横八八センチの神額が掲げられている。神額には武田菱門の下に武田八幡宮と隷書体で大書され彫られているが、永い歳月風雨風雪に曝されたため、現在では殆ど判読できない。また神額□□□た鳥木付近に丹柄塗が僅に残っていることから建立当時は朱の大鳥居であったことが判る。また、各鏡柱の前後に面取りの角柱の袖柱を転びをつけて立て、上下二条の貫を通し三本の柱を連結し楔(くさび)で固定している。そらに、鏡柱と前後の袖柱にわたり一連の幅広い屋根を架けている。また、鏡柱には根巻を付け対面間隔七三センチの八角柱から直径五二センチの丸柱へ一木から削り出している。根巻の高さは九〇センチで下の貫の上面に達している。太い鏡柱の下部と上部の円柱とは上下の貫の間で継いでいる。これらの補強と雨避を考慮した特徴ある構造を有し、しかも雄大かつ均衡のとれた重量感ある形態を示す本鳥居は建立年代の確かな木造両部鳥居としては貴重な遺構である。一方、輿石は現在一辺約一・一二メートル、高さ三六センチであるが、本来の高さの半分近くが埋没し、位置も移動している。輿石側面には神主矢崎民部、村中、施主などの刻銘が見られる。

改修の経緯
鏡柱、袖柱の足元は度重なる道路舗装工事のために道路面が上がり基礎石が埋ったため腐食が進んでいた。平成十一年一月(有)大石組により鳥居を一時移動し基礎石を据え直す工事が始められた。しかし、柱足元は白蟻の被害も加わり予想を遥かに超える損傷が見られ、鳥居全体の大改修が決断された。文化財建造物保存技術協会の調査設計の後、多くの指定建築物の修復工事の実績を持つ(株)石川工務所により大改修が進み、平成十一年九月竣工を見るに至った。工事資金については韮崎市の多くの財務支援と奉賛会、氏子の理解と協力を得てこれに当てた。
 工事管理/財団法人 文化財構造物保尊技術協会
 工事施工/株式会社石川工務所 有限会社大石組
(武田八幡宮 功力利夫氏記述による案内板から・平成13年) 

<参考資料> 史跡白山城跡(北烽火台跡)
150530_0743_武田八幡神社(山梨県韮崎市)
熊に注意
甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた伝承をもつ白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。また新府城防衛の拠点であり重要な役割を担っていた。城郭史では武田氏城郭の典型例として位置付けられ、南北2箇所の烽火台を含め良好な遺構が残されている、武田氏発祥の地の城郭として、甲斐国の政治・文化・社会を考察するうえで学術的価値が極めて高く、武田氏の高度な築城技術を示す城跡としても重要である。
白山城の西側の尾根つづきの背後には標高約882mの八頭山があり、白山城をとりこむように北と南に尾根がのび、その尾根がつきるところにそれぞれ烽火台が築かれている。北のものを北烽火台、南のものをムク台と呼ぶ。
北烽火台は白山城とは八幡沢を挟んで北西約600m離れており、標高約601m。東西方向に長くのびた尾根城を堀切で区切り、そこから東側に土塁が設けられ2段の平坦地がみられる。平坦地は幅10m、長さ50mほどであり、段差のあるところに直径約4mの円形の凹みがある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成16年)





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