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150429_1556_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)

山梨県甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
武田信玄の菩提寺として知られ、天正4年(1576)には武田勝頼が喪主となって信玄の葬儀がここで行われました。
天正10年(1582)の織田信長による甲州征伐( Wikipedia )において、武田氏滅亡後にこの恵林寺へ逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡し要求するも寺側が拒否。このため、快川紹喜ら僧侶たちは三門に集められ焼き打ちされました。

 安禅不須山水 滅却心頭火自涼
 あんぜんかならずしもさんすいをもちいず
 しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし

炎上する三門で快川紹喜が発した言葉(偈)は後に広く知られ、再興された現在の三門の両側に扁額として掲げられています。
(写真:恵林寺三門=4月29日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 臨済宗 妙心寺派 乾徳山 恵林寺
  http://www.erinji.jp


臨済宗 乾徳山 恵林寺
150429_1620_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1603_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
恵林寺境内
150429_1612_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1605_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
名物の うぐいす廊下 武田不動尊・二童子像
150429_1607_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1610_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
武田信玄墓 柳沢吉保夫妻の墓

<参考資料> 乾徳山 恵林寺
臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年甲斐牧ノ庄と称した当時地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂・庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。
三門に掲げられた快川国師の「安禅不須山水、滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず、しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。
(山梨県甲州市設置の案内板から)

<参考資料>
重要文化財 恵林寺四脚門
丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造礎盤(いしづくりそばん)が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫(かしらぬき)で繋ぎ、その上に台輪を架し大枓(だいと)・枠・肘木・実肘木(さねひじき)を組み、軒先を海老虹梁(えびこうりょう)で繋いでいる。
このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。

山梨県指定文化財
恵林寺三門 附棟札一枚
構造は、一間一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たり三解脱(さんげだつ)すなわち空門(くうもん)・無相門(むそうもん)・無願門(むがんもん)の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自(ひおのずから)ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様(えよう)は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建築物の中でも逸品とされている。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成7年)

<参考資料>
乾徳山(けんとくさん)恵林禅寺の沿革
当山は臨済宗妙心寺派往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。草創は鎌倉時代末期の元徳二年(西暦一三三〇)当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。
越えて戦国時代、甲斐国主武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め、永禄七年(一五六四)信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。天正四年(一五七六)四月武田勝頼は父信玄の三年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。同十年(一五八二)三月勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。同四月三日、織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と遺偈従容として火定する。
本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代、甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展、吉保夫妻の菩提寺ともなる。庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。

重要文化財
 太刀(銘来国長) 一口 鎌倉時代
 短刀(銘備州長船倫光) 一口 南北朝時代
 恵林寺四脚門(中門・赤門) 一棟 桃山時代
国指定名勝
 恵林寺庭園 鎌倉時代
山梨県指定文化財
 夢窓国師坐像 一躯 鎌倉時代
 和漢朗詠集 一巻 室町時代
 恵林寺文書五点 五点 室町時代
 渡唐天神画像 一幅 室町時代
 武田晴信の墓 江戸時代
 不動明王とニ童子(築) 三枚 室町時代
 恵林寺三門 一棟 室町時代
塩山市指定文化財(カッコ内は時代)
鎧不動尊立像・釈尊像・軍配団扇・当世具足一式・食籠輪袈裟・軍神鞍・鎧・孫子の旗・諏訪神号旗・恵林寺大鋸・芦葉達磨図・不動明王図・観音像図・夢窓国師像図・快川国師像図・未宗禅師像図・五大尊十二天像図・面壁達磨像図(以上室町時代)
恵林寺文書八点(室町~桃山時代)
養朴筆隻履達磨像図・探雪筆達磨像図・白隠筆達磨像図・武田信玄軍陣影・武田信玄画・仏□槃図(以上江戸時代)
(甲州市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)

<参考資料>
武田不動尊・二童子像
山梨県指定文化財(木造・三躯/室町時代)
信玄生前のお姿を仏法の守護神・不動明王に見立て、京から西佛所職「康清」を招き対面にて摸刻させたという等身大の坐像。
伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を膝に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたと伝えられている。

<参考資料>
山梨県指定 史跡 武田信玄の墓
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(一五ニ一)の出生。天文十年(一五四一)二十一歳で家督を次ぎ、甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀四年(天正元年・一五七三)四月十二日、病のため信州・駒場の陣中で五十三歳で没した。その十年前、永禄七年(一五六四)十二月一日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、三年間の秘喪の後、天正四年(一五七六)四月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財」に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積一八四.八平方メートル。ここに全高三四九.六センチの五輪塔一基、全高三六九.六センチの宝篋印塔ともに寛文十二年(一六七二)四月十二日、信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫五九二人の浄財を得て建立したものであることが判る。
(山梨県教育委員会・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成14年)

<参考資料> 柳沢吉保夫妻の墓
江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府十五万石藩主柳沢美濃守吉保( Wikipedia )と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(一七二四)三月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山十五万石に転出がきまり、このため同年四月十ニ日恵林寺へ改葬されたものである。
柳沢吉保は天下太平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成元年) 





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150429_0957_新府城跡・本丸跡(山梨県韮崎市)

150429_1000_新府城跡・想定復元図(山梨県韮崎市)
新府城 想定復元図
山梨県韮崎市の七里岩台上南端(地図)にある新府城( Wikipedia )は、織田軍の侵攻に備え、天正9年(1581)、武田勝頼が真田昌幸に命じ築城した平山城。
天正10年(1582)3月、木曾義昌の謀反及び高遠城の落城により、勝頼は小山田信茂の岩殿城に移るため、完成したばかりの新府城に火を放ち撤退。
同年6月、本能寺の変の後に起きた武田旧領を巡る徳川氏と北条氏との争い(天正壬午の乱)において、甲斐へ軍を進める北条氏に対し、徳川家康が新府城に本陣を移し実戦に備える動きもありましたが、徳川氏と北条氏の和睦の後は実戦に利用された記録はなく、豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡後は廃城になったと伝えられています。
(写真:新府城跡=4月29日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
新府城は、武田家の支配下にあった甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の各地で見られる甲州流築城術が集約された代表的な城郭で、現在は草木が繁る遺構の至るところにその特徴を見ることができます。

<今回の見学順路>
北:専用駐車場→東出構→西出構→
西~東:搦手→井戸跡→二の丸→本丸→
南:大手桝形→丸馬出→三日月堀→首洗池→旧甲州街道→専用駐車場
※遺構の説明については案内板を参考

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


新府城跡(北)
150429_0936_新府城跡・東出構(山梨県韮崎市) 150429_0939_新府城跡・西出構(山梨県韮崎市)
東出構 西出構
150429_0934_新府城跡・出構案内図(山梨県韮崎市) 150429_0945_新府城跡・西堀(山梨県韮崎市)
出構の位置(案内図) 西堀

<参考資料> 新府城跡出構
出構(でがまえ)は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。東西に約百メートルへだてて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。城の裾に沿って彫られた堀は幅約七メートル、深さ約二.五メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。
(韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成26年)

<参考資料>
天正9年に武田氏の党首武田勝頼が新たに府中の中核として築造した新府城は、韮崎市を貫通する釜無川と塩川の2大河川の開削によって形作られた七里岩(しちりいわ)台地上にあり、その西崖を活かした要害の地に築城されている。
主郭(本丸)からは、富士山・甲府盆地・八ヶ岳が一望でき、諏訪・佐久・駿河等への交通網を掌握しやすい立地にある。また、本城の北側には能見城があり、北の守りの要となっている。釜無川をはさんだ対岸には、甲斐武田氏の初代にあたる武田信義が治めた地域が広がり、その歴史を示す願成(がんしょう)寺の木造阿弥陀如来及び両脇侍像(りょうわきじぞう)、武田八幡宮、白山城跡や武田信義館跡などの文化遺産が点在している。新府城を中心とした新たな府中の様子は未解明な点が多いが、家臣団の屋敷位置に描かれた絵図の存在や屋敷地の伝承を持つ土塁跡などの遺跡が確認されている。新府城跡とその周辺には、本城が交通・軍事・政治・経済などの様々な条件のもとに築造された経緯を知り得る良好な歴史的景観が保たれている。

能見(のうけん)城跡
150429_0845_能見城址(山梨県韮崎市)
能見城址
新府城の北側の守りとして築造されたと考えられ、土塁と堀が七里岩台地を横断するように東西方向に作られている。築造は武田氏とも徳川氏ともいわれているが、定かではない。

隠岐殿(おきどの)遺跡
戦国時代の終わり頃に築造された礎石建物跡や様々な道具が発見された遺跡である。新府城と深い関わりがあると考えられる。

新府城跡の位置づけ
新府城跡の本丸と二の丸の空間構成は、武田氏館(躑躅ヶ崎館)跡の方形の堀と土塁で囲まれた主郭と西曲輪の配置に類似した形態をなしており、新府城は武田氏の守護館を踏襲して造営されたと考えられる。当時の文献史料においても、「新御館」「新館」「御館韮崎」「館」と記されており、軍事的施設という認識以上に、館を意識した城郭であったことが窺える。
館は領国支配の中心的な役割を果たし、政権を執行するための重要かつ公的な場所である。新府城は、単に軍事的目的のためだけに築城されたものではなく、甲斐を中心に信濃・駿河・遠江(とおとうみ)・三河・西上野(にしこうずけ)・美濃・飛騨に広がる武田領国を統治する政庁=館としてつくられたものである。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成24年)

<参考資料> 新府城跡北側の堀
新府城跡の北側山裾には外側に向かって帯廓・土塁・出構・堀などの諸施設が設けられているが、西堀(水堀)意外の堀跡は、周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど、廃城後の土地利用による改変で旧状は不明であった。
環境整備事業にともなう発掘調査により、中堀では、山際から埋もれていた深い堀跡が確認された。この発見された堀は、断面が逆台形状となる箱掘(はこぼり)と推定され、西堀の東端から始まり、堀幅は6~7m、深さは2.5m前後で、西出構の手前で閉じている。また堀の北側には堀と平行する低い土手状の高まりが見られる。堀は直線ではなく2箇所に折れ(※堀・土塁などを屈曲あるいは折り曲げた構造で、側面から敵への攻撃を可能にする。「横矢」ともいう。)をもった構造で、城側の土塁も同じ箇所で折れをもつ。この堀は、西出構の東側と東出構の西側の両方で閉じている。東出構の東側では深い堀は確認できていない。今回の調査によって、築城時には中堀・東堀の山際は幅約6~7m、深さ2.5mの深い堀と、その北側は幅30m前後の湿地帯がセットになって城の北側を防御していたことが明らかとなった。そのため整備では深い堀跡と浅い湿地帯の形状を復元し、新府城の使用時の状況を伝えることを主眼とした。西堀(水堀)は、発掘調査を実施せずに現状のまま樹木の間伐と植栽などの修景を行った。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)


新府城跡(西~東)
150429_0947_新府城跡・搦手桝形虎口(山梨県韮崎市) 150429_0948_新府城跡・搦手桝形虎口(山梨県韮崎市)
搦手・桝形虎口
150429_0950_新府城跡・井戸跡(山梨県韮崎市) 150429_0953_新府城跡・二の丸跡(山梨県韮崎市)
擂鉢状の井戸跡 二の丸
150429_0953_新府城跡・蔀の構(山梨県韮崎市) 150429_0958_新府城跡・武田勝頼公霊社(山梨県韮崎市)
蔀(しとみ)の構 本丸:武田勝頼公霊社

<参考資料> 新府城跡
新府城は、天正9(1581)年に武田勝頼によって築城された。城は未完成であったが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ヶ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われた。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退却し、3月11日に田野(山梨県甲州市)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡した。その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用した。
新府城が立地する七里岩(しちりいわ)は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30km続き、奇観を呈している。台地上には、100を越す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524mの「西の森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっている。
城の土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな廓が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯廓がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手(からめて)があり、全山にわたって諸施設が配置されている。搦手の廓は東西100m、南北25mの東西方向に細長い長方形をしており北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90m程の七里岩の断崖となっている。城の北西隅につくられている乾門は、西側は七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な門の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13m、南北約12mの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成19年)

<参考資料> 井戸跡
本遺構は、調査前の上端の直径が32mある擂鉢状の大きな窪地で、発掘では現状の地表面から4mの深さになっても底に到達しなかった。七里岩台地の堅い地盤を堀りくぼめ、浸み出した水や雨水を集める構造であったと思われる。井戸底まで螺旋状の通路が設けられる巻巻(まいまい)井戸の可能性もあったが、その遺構を確認できていない。整備では、検出した井戸内側斜面を保護するため植栽(リュウノヒゲ等)し、見学通路として井戸の中に至る戒壇を北側に設けた。
なお、北西100mの帯廓にも井戸跡とみられる同様の形状の窪地がある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)

<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は武田勝頼によって天正九年(一五八一年)二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。それまで甲府躑躅崎の館城になった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正十年三月三日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。本郭は南北六〇〇米、東西五五丸米、外堀の水準と本丸の標高差八〇米、型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西九〇米、南北一二〇米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり大手に続く。堀は北西から北、北東へ巡り、北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」が鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。

武田氏の系図
甲斐源氏の祖、源義光の第三子義清は市河荘司として甲斐に土着した。その子清光は八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯を甲斐源氏の本拠とした。その子太郎信義は武田の荘(韮崎市神山町武田)にあって、初めて武田を名乗り、武田の氏祖となる。

清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信)
信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-
氏信(安芸源氏)
晴信(信玄)-勝頼-信勝

天正十年三月(一五八二)、信玄の第四子武田勝頼、信勝の父子は天目山に滝川一益と戦い、父子自殺し武田の歴史が終わる。
(案内板から)

<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼が自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田氏滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。
本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀の構えを隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪(いなりくるわ)、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある、蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・昭和60年)

<参考資料> 石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し 毎年卒去の当日は慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。
勝頼神社建立の時期は、貞享、元禄(一六八四年)の頃と言い伝えられている。
(新府藤武神社氏子総代設置の案内板から)


新府城跡(南)
150429_1011_新府城跡・南大手門桝形虎口跡(山梨県韮崎市) 150429_1012_新府城跡・南大手門桝形虎口跡(山梨県韮崎市)
南大手門桝形虎口跡
150429_1013_新府城跡・大手門虎口跡(山梨県韮崎市) 150429_1017_新府城跡・三日月堀跡(山梨県韮崎市)
大手門虎口跡 三日月堀跡

<参考資料> 国史跡 新府城跡
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(一五八一)春、武田勝頼が甲斐府中ろして、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修復して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南の三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約二〇ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らに屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市・韮崎市教育委員会・韮崎市観光協会設置の案内板から・昭和59年)

能見城と周辺について
<参考資料>
守屋一族発祥の地
往時此ノ附近ハ武田信玄之家臣守屋親兵衛尉定知ノ守護シ来リシ地域也
此ノ風光明媚ナル勝地ハ萬民等シク賞嘆シ垂涎措ク能ハサリシ處咬龍ハ永ク池中ノ者タラス茲ニ特機到来シ萬民ノ福祉高揚ノ為吾等氏子相謀テ神域開放ノ擧ニ贊スルニ至ル
希ハ神霊此挙ヲ嘉納シ守護神トシテ本土ノ繁栄ニ未来永劫ニ神徳灼方ニ萬劫ノ鎮護ノ御手ヲ垂レ給フコトヲ茲ニ能見城氏神域変革ノ経緯ヲ記シ本碑ヲ建立ス
(氏代表 守屋逸男氏による碑文から・昭和卅五年)

<参考資料> 
中世の豪族 穴山氏紹介
武田氏と穴山氏の系図

清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信・義武)
<武田家>信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-晴信(信玄)-勝頼-信勝
氏信(安芸源氏)
<穴山家>義武(1代)-満春(2代・武田家13代信満と兄弟)-信介(3代・武田家15代信守と兄弟)-信懸(4代)-信綱(5代)-信友(6代)-信君(7代梅雪・信友と晴信の姉である南松院との子供)-勝千代(8代・梅雪と晴信の娘である見性院の子供)
※穴山信君(梅雪)は武田晴信(信玄)の甥、勝頼とは従兄弟の関係

系図解説
穴山氏初代、二代は穴山に居館を置き峡北地方一帯に版図を拡大す。
三代から河内(南巨摩郡)に移る。六代信友の妻は、晴信(武田信玄)の姉、七代信君(穴山梅雪)の妻は、晴信の娘で、武田氏と婚姻関係にあり、本姓 武田、在名 穴山と称す。

穴山氏の史蹟
居館(穴山氏の宅地)
甲斐国誌に「次第 窪、重久ノ間、敷場ト言処ニ東西四町、南北三町ノ地」
氏神(若宮八幡 源氏の守神)
甲斐国誌に「穴山村重久組ニアリ 除地百三拾ニ坪、旅所、桟敷ノ地名アリ」
穴山氏の墓(穴山町久保区)
大竜山 満福寺の境内にあり、昭和五十四年 韮崎市より文化財に指定
詰城
記録には明らかでないが能見城と言われている。
(ふる里創生事業実行委員会設置の案内板から・平成5年)





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120519_1429_北杜市から望む甲斐駒ケ岳(山梨県北杜市)

山梨県北杜(ほくと)市を移動中(地図)に出会った風景。
甲斐駒ケ岳は、山梨県北杜市と長野県伊那市にまたがる標高2967mの山で、日本百名山などにも選定されている南アルプスの名峰。
(写真:山梨県北杜市小淵沢町の七里岩ラインから望む甲斐駒ケ岳=19日午後撮影、480×640拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市ホームページ
  http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/
・ 北杜市観光協会
  http://www.hokuto-kanko.jp/


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111029_1349_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)

山梨県北杜市の川俣川渓谷にかかる高原大橋(地図)から撮影した八ヶ岳の様子。
(写真=29日午後1時30分頃撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
紅葉スポットとして有名な高原大橋から望む八ヶ岳。県道沿いに設けられた駐車場は県外車でいっぱい(写真参照・クリックで拡大可能)でしたが、幸いにも停めることができ、写真の風景を楽しむことができました。
紅葉スポットとしては、上流に架かる東沢大橋が有名とか。機会があれば訪ねてみたいですが、高原大橋からでも十分過ぎるくらい素晴らしい風景でした。

<参考HP>
・ 北杜(ほくと)市ホームページ
  http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/
・ 北杜市観光協会
  http://www.hokuto-kanko.jp/


高原大橋から望む八ヶ岳と富士山 (10月29日)
111029_1348_高原大橋から望む富士山(山梨県北杜市)
高原大橋から望む富士山
111029_1343_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)
高原大橋から望む八ヶ岳
111029_1353_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)
高原大橋から望む八ヶ岳





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