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愛知県西尾市錦城町(地図)にある平山城( Wikipedia )。築城は、承久の乱の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏( Wikipedia )が築いた西条城が始まり(西尾市ホームページ)で、その後、天正13年(1585)に、徳川家康の命を受けた酒井重忠が二の丸に天守を、天正18年(1590)には岡崎城主の田中吉政が三の丸を増築し城郭を整えました。
江戸時代は、慶長6年(1601)に本多康俊が二万石の藩主として入城。以降、代々譜代大名が藩主を務め、大給松平氏の代に明治維新を迎えました。
天主閣など城内にあった建物の多くは明治初期に取り壊されましたが、平成8年(1996)、本丸丑寅櫓と鍮石門を再建。現在、本丸と二の丸跡の一部は西尾市歴史公園として市民に開放されています。
長野県佐久市の日本では函館・五稜郭と2例しかない西洋式(擬様式)城郭を持つ龍岡城( Wikipedia )を藩庁とした田野口藩(龍岡藩)は、この西尾藩・本家大給松平家( Wikipedia )の系統。
(写真:再建された西尾城本丸丑寅櫓=平成23年11月23日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 西尾市ホームページ
http://www.city.nishio.aichi.jp/
・ 西尾市観光協会
http://www.240kanko.com
西尾市歴史公園 (平成23年11月23日) |
|
西尾市歴史公園案内板 | 鍮石門 |
丑寅櫓から望む西尾市内 | 移築された旧近衛邸 |
<参考資料> 西尾城本丸表門跡
姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門式の門で、東西二間二尺(四・二メートル)、南北四間二尺(七・九メートル)で、高さ二丈四寸五尺(七・四メートル)でした。
現在、南側の土塁と石垣は失われましたが、北側の丑寅櫓から伸びる土塁を断ち切る面に積まれた野面積みの石垣と、石垣に接して布達の礎石のみが残されています。
本丸は土塁が廻り、四隅に櫓が築かれていました。その中で東北隅の最も大きい櫓が丑寅櫓です。郭内には西尾城の守護神である御剱八幡宮があり、本丸は西尾藩の心の支えとなった郭と想像されます。よってこの神社は代々の城主に尊敬され、拝殿前には城主寄進の石灯篭が立ち並んでいます。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 西尾城二之丸鍮石(ちゅうじゃく)門
二之丸御殿の玄関の前にあった門で、古くは「中柵門」、「玄関前門」と呼ばれていました。大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石門の名に因み、この文字を充てたと考えられます。御殿に至る高貴な門という意味です。門は楼門式で、規模が、東西二間二尺(四・二メートル)、南北四間半(八・二メートル)で、高さ二丈二尺五寸(六・二メートル)でした。
この門前の長さ一八・四メートルを測る内堀に架けられた欄干付の土橋は、城郭中で最も規模の大きなものでありました。
二之丸は西尾城で最も重要で中心となる郭で、中央に西尾藩の政庁である二之丸御殿を置き、北西隅には三重四層の天守を配置していました。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)
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