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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

170118_0928_東海道新幹線・名古屋駅 170118_0948_東海道新幹線・伊吹山
東海道新幹線 名古屋駅 伊吹山
170118_1504_山陽新幹線・東広島駅 170118_1555_山陽新幹線・福山駅
山陽新幹線 東広島駅 福山城
170118_1640_山陽新幹線・明石駅付近 170118_1838_中央本線名古屋駅
山陽新幹線 明石付近 名古屋名物 みそかつ弁当

打ち合わせのため、広島県東広島市(地図)を訪ねる機会がありました。
山陽新幹線といえば、利用することはあっても、なかなか広島県内で降車することはなく、十数年前に尾道を旅した時に利用したのが最後。厳島神社( Wikipedia )や靹の浦( Wikipedia )にも行ってみたい…と思いつつも、長野からはあまりに遠く、気軽に訪れるという気持ちにはなれませんでした。
そのようなこともあって、今回の出張は一泊二日だなぁと決め込んでいたところ、たまたま今回の広島行きの件を話した知人から、
「いやいやひろさくさん、広島は長野から日帰りで往復できますよ」
との驚きの発言が…。それはないでしょう、と思いつつ、いわれた通りに Google で「長野から広島」と検索してみると、午前6時9分長野駅発の特急しなの2号を使えば、名古屋乗換でお昼には広島に到着でき、現地滞在時間を調整すれば、最終の長野行き特急しなのにも間に合うことが判明。経費節減の折り、これは大変ありがたいことでしたが、とうとう広島も長野から日帰り圏内になったのかぁ…という事実に改めて驚いたのでありました。

<行き>
06:09(長野)~09:17
 ワイドビューしなの2号
09:33(名古屋)~10:38
 のぞみ13号
10:46(新神戸)~12:50
 こだま739号

 東広島市ホームページ
 http://www.city.higashihiroshima.lg.jp/
 賀茂鶴酒造株式会社
 http://www.kamotsuru.jp/

 <帰り>
15:15(東広島)~15:48
 こだま744号
15:59(福山)~17:52
 のぞみ38号
18:40(名古屋)~21:34
 ワイドビューしなの23号

「のぞみ」の車内はビジネスマンでほぼ満員
平日とあって車内は混雑もなく快適でしたが、往復ののぞみだけは、ビジネスマンで車内はほぼ満員。しかも、その多くの人たちが座席に座ると、おもむろにバックからパソコンやタブレットを取り出し、資料の確認や報告書の作成をしており、聞えてくるのは風を切って走る新幹線の走行音だけ。
東海道・山陽新幹線を乗り継ぎながら、分刻みで移動する「働く」ビジネスマンの姿を垣間見た思いがしました。

全車禁煙も、「のぞみ」ではタバコが吸える
最近は新幹線のみならず、在来線でも車内は「禁煙」が当たり前。東京~博多間を結ぶ「のぞみ」でも全車禁煙なのですが、実は喫煙ができる場所がありました。1編成に4両(グリーン車含む)、通路を挟んで左右にあり、喫煙者にはまるでパラダイスともいえる「喫煙ルーム」がそれ。指定席を予約する際に「喫煙」を選択すると、喫煙ルームに近い車両と席が確保できるようです。参考まで。

東海道・山陽新幹線から眺める風景
さて、今回はお仕事での移動でしたので、何処にも立ち寄ることなく、ただただ座席で移りゆく景色を眺めるだけだったわけですが、せっかくここまで来たのに何も記録にとどめないのもどうかと思い、スマホでガチャガチャと音を立てるのも憚るなか、ほんの数枚だけ撮影してみました。
天下分け目の合戦の地・関ヶ原に聳える伊吹山( Wikipedia )は、冬山のように真っ白。山陽新幹線福山駅のホームから見えたのは、立派な石垣と天守閣が残る福山城( Wikipedia )。明石付近では、淡路島と明石海峡大橋を車窓から眺めることができました。

機会があれば、今度はのんびり山陽道を訪ねてみたいなぁと思っています。





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130914_1431_応仁の乱洛中最初合戦地(京都市上京区)

京都市上京区の堀川通から今出川通へ、一条通を歩いた松之下町付近(地図)は、平安時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続く応仁の乱( Wikipedia )の洛中における最初の合戦・上京の戦い( Wikipedia )が行われました。
この向かいには、薩摩藩家老・小松帯刀( Wikipedia )の寓居があったとされ、慶応2年(1866)1月、薩摩藩邸(現在の同志社大学キャンパス)で始まった薩長同盟( Wikipedia )の会談は、後でこの寓居に移り締結されたと伝えられています。
(写真:此付近 応仁の乱 洛中最初合戦地の石碑=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料>
当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍に攻め入り、一条大宮で戦った。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。以後洛中の寺社、貴族、武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋貴右衛門)も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。
なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があった。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛家を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州藩毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
(歴史地理研究者 中村武生氏による案内板から)





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130914_1419_清明神社(京都市上京区)

京都市上京区清明町にある陰陽師・安倍清明を祀る神社(地図)。
安倍清明( Wikipedia )は、賀茂忠行・賀茂保憲父子から陰陽道( Wikipedia )と天文学を学び、星や雲の動きを見て、さまざまな異変の予知を行いました。
清明神社は清明の偉業を讃え、寛文4年(1007)、一条天皇の命によりかつての屋敷跡に建立され現在に至っています。
境内には、清明が念力により湧出させた「清明井」があり、流れ出る水は、かつて屋敷を構えていた千利休も使ったと伝えられています。
(写真:清明神社本殿と安倍清明公像=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 清明神社
  http://www.seimeijinja.jp/
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
  http://kanko.city.kyoto.lg.jp/


清明神社
(平成25年9月14日)
130914_1421_清明神社(京都市上京区) 130914_1409_清明神社(京都市上京区)
厄除桃 復元された一条戻橋

<参考資料> 清明神社由緒

御祭神 安倍清明御霊神
沿革
安倍清明公は孝元帝の御後胤で幼時より御聡明で陰陽の道を極められ長じて陰陽寮天文博士として朱雀 村上 冷泉 円融 花山 一条の六代の天皇に仕え幾多の御功績をたてられた。朝廷の祭政 生活の規範を陰陽の理を以て定められ今日の我々の年中行事 占法等々に多くの影響を与えられている。
一条帝の御代 寛弘二年(一〇〇五年)九月二十六日音とし八十五にてお亡くなりになると 帝の御鎮霊の勅旨をもって清明公邸跡に寛弘四年(一〇〇七年)に神社としてまつられ現在に至る

御神徳
清明公は稲荷神の御分霊との信仰もあり魔除け 厄除け 病気平癒又は火除け 方除けの崇敬を集めている

清明桔梗印
当神社御神紋☆は桔梗印もしくは五芒星と呼ばれ 清明公の創められた祈祷呪符の一で魔除けの印である 天地五行(木・火・土・金・水)を象とり西洋諸国でも用いられる

主な年中祭事
歳旦祭   元旦
節分祭   二月節分日
清明祭   九月秋分日とその前日
御火焚祭  十一月二十三日
(清明神社に設置されている案内板から)

<参考資料> 桔梗苑 顕彰板
emoji 安倍清明公は、実在の人物であるが、化生の者であるという伝説がある。「簠簋抄」によると、清明公の母親は、和泉国信太の森の狐である。母は、清明公が幼い頃、狐の姿を見られたために、和歌を遺して、行方をくらましてしまう。後、清明公は、信太の森を訪れて、母と再会する。
emoji 清明公の好敵手として知られているのが、蘆屋道満( Wikipedia )である。清明公と道満は、何れの法力が優れているのかを競い合った。夏蜜柑十六個を長持の中に入れて蓋をして、中を言いあてるとうものである。道満が夏蜜柑であるというと、清明公は、鼠が十六匹という。皆が清明公負けたりと思い中をあけると、術の力で、中は鼠にかえられていた。
emoji 藤原道長が物忌みの時、観修僧正、清明公、医者の丹波忠明・武士の源義家の四人が、お仕えしていた。奈良から早瓜が献上されたが、清明公が占ったところ、その中の一個に、毒があるという。観修が祈祷すると、瓜はゆらゆら動いた。忠明は毒を抜くようにいわれたので二ヶ所に針を刺し、義家が刀で割ると小蛇がとぐらを巻き針は蛇の目に命中していた。  
emoji 藤原道長が法成寺を建立したのち、御堂へ参る時、いつも白い犬を連れていた。ある日いつものように、門に入ろうとしている時、この犬がたちふさがるように吠える。車から降りて入ろうとすると、御衣の裾をくわえて引き留める。清明公が呼ばれ占うと、道に呪いのものが埋めてあるという。掘ってみると素焼きの土器を二つに合せ十文字にからげてある。調べると道満の仕業だった。
emoji 花山院は、冷泉院の第一皇子として天皇の位につかれ、小野の宮の娘を女御とされた。入内なさって弘徽殿にお住みになったので、弘徽殿の女御と申しあげた。しかしほどなく女御がなくなり、帝は悲しまれた。花山院は在位わずか二年で、出家された。出家された夜、清明公の屋敷の前を通られると、清明公は、帝座の星の兆しを見、帝が譲位なさると声をあげたという。
emoji 清明公が、広沢の僧正の御坊に参って話している間に、他の貴族が「式神お使いになるなら、人を殺せますか」という。「生かす方法を知らぬのでたやすく殺せぬ」と清明公がいうと、「蛙を殺してみよ」という。草の葉を投げると、蛙はまったいらにひしゃげた。
emoji 花山帝が頭痛で苦しんでおられた。いかなる治療をほどこしても治らない。そこで、清明公の登場である。帝の前世は尊い行者であるが、前世の髑髏が大峰で、岩と岩との間にはさまっているために、頭痛がするという。髑髏を取り出したら、治るというので、その通りにしたところ、頭痛が治られたという。
emoji 清明公の屋敷に、老僧が、十歳ぐらいの童二人を連れてやって来た。清明公んお陰陽道について習いたいという。この男、童と見せかけて、式神を使っていた。清明公は、呪を用いて、式神を隠すと「どうして人の供を隠すのか」と問うと、「私を試そうとしたからだ」と、清明公に論される。しばらくして童二人現れ、「式神など隠せるとは」と、老僧は弟子入りを乞うた。
emoji 三井寺の智興が病で死にかけた。そこで、清明公が、「誰か身代わりになるものはないか」とたずねると、弟子の証空が自分の命を差し出すという。清明公は、泰山府君の法を修した。すると、智興に生気が戻り、証空が苦しみだしたが、日ごろ信心していた不動明王に助けられて、二人とも命を取り留めた。
emoji 渡辺綱は一条戻橋の上で美女に声をかけられる。女は送ってくれというが、途中で鬼女に姿をかえ、綱の髷をとって空をとぶ。綱は腕を切り落とすと鬼は愛宕山に去る。綱は清明公を呼んで相談した。物忌みをすすめられた綱は、鬼の腕に封印する。その後鬼は綱の母の姿で腕をとり戻しにくるが綱は仁王経によって救われる。
(清明神社御鎮座壱千年記念奉納 剱鉾会設置の案内板から)





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130914_1404_慶長天主堂跡(京都市上京区)

京都市上京区頭町の油小路通にあったとされる慶長天守堂跡(地図)。
日本におけるキリスト教の歴史は、戦国時代の天文19年(1549)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルにより始まり、織田信長の庇護を受け、京都市内に南蛮寺(天正4年・1576)を建立するなどして勢力を拡大しましたが、豊臣秀吉のバテレン追放令( Wikipedia )により衰退。江戸時代には一時的にキリスト教が容認されるものの、慶長17年(1612)に禁教令が発布され、以降、明治6年(1873)まで日本におけるキリスト教の布教は禁止されました。
慶長天守堂は、関ヶ原の合戦後、徳川政権が一時的にキリスト教を容認した際に建設された教会でしたが、その後の禁教令により破壊されたと伝えられています。
(写真:「此付近 慶長天守堂跡」の石碑=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 京都観光 Navi
  http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
 
<参考資料> 此付近 慶長天守堂跡
この付近に、慶長九年(一六〇四)頃に復興されたヤソ会の天守堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正十五年(一五八七)豊臣秀吉が宣教師追放令をし、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天守堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
しかし慶長十七年(一六一二)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧の開始、天守堂も焼き払われてしまった。慶長天守堂が立ったのは、十年に足りない期間であった。
(京都市設置の案内板から)





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130914_1340_弁財天・出町妙音堂(京都市上京区)

京都市上京区の賀茂川と高野川との合流地近くにある京都七福神のひとつ(地図)。
本尊は青龍妙音弁財天画像。
(写真:出町妙音堂=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 京都観光情報 KYOTOdesign
  http://kyoto-design.jp/

<参考資料> 辨戝天 出町妙音堂
本殿の本尊は青龍妙音辨戝天画像で西園寺公衝(きみひら・一二六四~一三一五)の長女西園寺寧子(やすこ・大光明院殿・広儀門院)が、第九十三代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、光巌、光明、祟光天皇と伝承されて来た霊像である。その後享保年間、伏見宮家第十四代貞建親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。世に伏見御所の辨戝天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の勝益をもたらすものである。
(出町妙音堂に設置されている案内板から)





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