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箕輪町福与にある福与(ふくよ)城は、上伊那地方を領有していた藤沢頼親が押し寄せる武田軍を相手に籠城し、激しい攻防戦の末に落城したと伝えられる城跡。本城を中心に残る段状に設けられた郭や、幾重にも巡らされた空堀は、戦国時代の遺構を残す貴重なものとして県史跡に指定されています。 (写真=20日撮影)
<マピオン地図>
・ 上伊那郡箕輪町大字福与 ( 1 / 21000 )
※ 広い駐車場あり
<参考資料> 県史跡 福与城跡
この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城跡である。
この城の創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。天文年代(一五三二~一五五五)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあい、天文十四年(一五四五)に落城し、城は焼失した。
城跡は、幅が東西約三百三十メートル、南北約四百四十メートルで、本城・北城・南城に区分されている。本城は第一・第二の郭にわかれ、空堀を隔てて北城に対している。北城は本城より一段低い平地で、最初ここが本城に使用されたともいわれる。南城は本城の南に位置しやや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。
武田氏によって城の建物の焼却があったものの、当時の遺構を残しており、戦国時代の居館と軍事的防塞の機能をかねあわせた平山城の様相を知ることができ、貴重な城跡である。 (長野県教育委員会設置の案内板から)
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