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090922_1218_北国街道牟礼宿(飯綱町)

上水内郡飯綱町に残る旧北国街道の宿場町(地図)。入口に2つの桝形を残す全長600メートルの通りには、往時の佇まいを残すものはありませんが、町庁舎や郵便局のほか、商店街が整然と並び街道を中心に町が広がっていたことを感じることができます。
写真は、町庁舎から西側の桝形方面を撮影したもの。正面の建物は、真宗大谷派の証念寺。その左側には十王坂があり、金附場、武州加州道中堺を経て小玉坂に至ります。 (写真=22日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 北国街道牟礼宿
牟礼の地は中世以来、矢筒城を中心に越後と善光寺平を結ぶ交通の要衝であった。
戦国期の争乱による兵火にかかり矢筒城の南、字表町方面から鳥居川と八蛇川(やじゃがわ)にはさまれた水便のよい現在地に城下の町が移動した。
慶長十五年(一六一〇)当時の領主松平忠輝は、「むれい町」へ宿場条目を出し、伝馬(てんま)・宿送り等の特権を与えた。そして翌十六年北国街道の全面開通にともない、正規に牟礼宿の発足となった。以後、宿場として約二六〇年間、牟礼盆地の交通。経済・文化の中心街として発展していった。
現在、本陣跡・脇本陣跡・問屋跡・旅籠跡などがあり、東西の出入口に桝形がある、全長六〇〇メートルに及ぶ宿場町通りが残っている。西の桝形には昔ながらの真宗大谷派証念寺(しょうねんじ)・徳満寺(とくまんじ)の古刹が並び、その付近には昔日の面影がしのばれる。
文政十三年(一八三〇)牟礼宿明細張には家数一四三軒、寺四軒、人数七四六人とあり、当時の繁栄ぶりがうかがわれる。天保六年(一八三五)宿内は東組、西組に分かれ、名主の二本立となり、このため宿場の業務は、両組による半月交替となって幕末に至ったのである。 (当時の牟礼村教育委員会設置の案内板から)





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