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131012_1212_中尾辻の石仏群(伊那市長谷)

伊那市長谷中尾地区(地図)にある伊那市指定文化財の石仏群。
(写真=10月12日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 伊那市文化財 中尾辻の石仏群
131012_1214_中尾辻(伊那市長谷)
中尾辻
球形の道祖神とは珍しい。上伊那郡下でもこのほかに二箇所あるだけだという。悪病よけ、縁結び、子宝、交通安全の神として信仰されてきた。
青面金剛は手のこんだ像で、上部には日と月、下部には三匹の猿と二羽ににわとりが彫ってある。優美なお姿の蚕玉大神、みごとな陽石四筒も祀ってある。
この石仏群中、額縁のなかの双体道祖神が入れ替えられたものがある。これは、もともとあった双体道祖神が余りに良い出来栄えだったので、たまたま他村から来た人たちが盗んでいってしまったという。その後、この話を伝え聞いたある人が石仏を寄贈され、額縁の中へ安置されたものである。以前の石仏には延享三年(一七四六)の銘があり、残っていれば長谷地区最古の道祖神として貴重なものであった。
昔この地方では十三夜の夜には盗みごとをしても罪にならないなどという風習があり、道祖神盗みなどもその実例としてあったのだろう。今考えるとおしいことをしたものである。
(伊那市教育委員会設置の案内板から)





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130907_1112_伊那市西春近諏訪形に残る猪垣(伊那市)

伊那市西春近諏訪形と上伊那郡宮田村境近くの山沿いにある猪垣(地図)。
平成6年1月に伊那市史跡に指定。
(写真:復元された猪垣=7日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 諏訪形の猪垣跡
伊那市西山三六には、猿、ハクビシンなどによる農作物の被害が多く見受けられるが、過去には猪や鹿による被害が多く、農村ではその対策として猪垣を構築した。
この諏訪形の猪垣は、構築された年は不明だが藤沢川から大田切川に至る標高七〇〇メートルの地域に猪避けのために作られたものの一部である。かなり大がかりな作業によって築かれはしたが、時の経過によって損傷が生じるのでしばしば修理が行われたようで、寛保元年(一七四一)と文化五年(一八〇八)には宮田と共同して再普請が行われたことなどが古文書に記されている。そのうち文化五年諏訪形の発案で宮田三カ村 中越 下牧 表木 赤木村と共同で代官に願い出て、行った再普請は大規模なもので、全体で延べ七二〇〇人余、諏訪形だけでも延べ二六〇〇人余の人足が出て修理が行われたとある。この猪垣は、私たちの先人たちが自然災害、特に動物たちからの災害を防ごうと堅固な施設を作り、農作物を保護するために如何に闘い続けて来たかをうかがわせる貴重な遺構である。尚、このような猪垣は、西山山麓に多く構築されたものと思われ、各所にその形跡が認められる。

猪垣の歴史
私たちの先人が農作物を守るため、構築した猪垣の年代は定かではないが元禄前とも言われている。猪垣の出来る前は焚火、添水、小屋番、板叩き、木柵、等で被害を防いでいた。
諏訪形の猪垣は寛保元年(一七四一)今から二五一年前宮田と共同して修理をした記録がある、修理前の構築については現在のところ古文書がないので不明である。
その後、文化五年(一八〇八)今から一八三年前、諏訪形の発案で、北割・南割・新田と協議し、なお中越・下牧・表木・赤木の同意を得て八ヶ村連名で郡代、代官に願出している。それが許可になり諏訪形分は藤沢川~大樋(北割界)まで一八町二六間(約二km)で、その人足一一、六六一人とある。その後度々修理をしたようだか現在の猪垣は当時のもののようである。

130907_1112_伊那市西春近諏訪形に残る猪垣・復元想像図(伊那市)
猪垣復元想像図

<参考資料> 猪垣改修事業
改修の経緯
諏訪形の猪垣は、平成六年に伊那市教育委員会により「猪垣跡」として市史跡に指定され、平成七年諏訪形区の協力により復元された。
以後長い歳月の中で構造物の劣化が進み、住民の間で再構築の願いが高まってきた。折しも平成二十年度から西春近地域で取り組んでいる農林水産省補助事業「農地・水・環境保全工場対策事業」により、先人が農地を農業を野生動物から守ろうと築いた歴史ある伝統的施設を次世代に残そうと、この改修工事を実施し、ここに完成をみた。

猪垣の構造
平成七年に構築された猪垣は、乱杭と呼ばれる直径約十五センチメートルの丸太を三十センチメートル感覚に埋設してあった。
本事業では、今後の維持管理もふまえ一メートル間隔に主杭となる「プラスチック擬木」を打ち込んだ、
古文書にある横木を取り付け、主杭の間に約二十センチメートル間隔に大小様々な間伐材を利用し縦木として不規則に配置した。そして猪垣の長さは既存の十メートルから四十メートルに延長改修した。
(西春近の環境をよくする会・諏訪形区猪垣改修委員会設置の案内板から)





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130608_1352_伊那バラまちフェスタ(伊那市) 130608_1402_伊那バラまちフェスタ(伊那市)
130608_1356_1_伊那バラまちフェスタ(伊那市) 130608_1356_2_伊那バラまちフェスタ(伊那市)
伊那バラまちフェスタ

伊那市西町から山寺までの中心街で、今月の1日から30日間、恒例のバラまちフェスタが開催されています。写真は8日に撮影したいなっせ周辺の様子。普段はどことなく殺風景な風景の市街地も、華やかな色のバラに彩られ、街歩きが楽しくなります。
(写真:伊那市中心部を彩るバラ=8日撮影、640×480拡大可能)

高遠しんわの丘ローズガーデンでは「第6回バラ祭り」開催中
伊那市高遠町の高遠しんわの丘ローズガーデンでは、8日から30日まで第6回バラ祭りが開催中。約8000平方メートルの敷地に126種2600本のバラが高遠の町を見下ろす丘を彩っているそうです。料金は開催協力金として大人200円(中学生以下は無料)が必要。詳しくは伊那市観光協会ホームページをご覧ください。

<参考HP>
・ 伊那市観光協会
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/


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伊那街道 (山寺→高尾公園)
130518_1126_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市) 130518_0929_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・昌玄坂と芭蕉秋風塚)
伊那街道(山寺) 昌玄(拍先)坂と芭蕉秋風塚
130518_0933_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・JR飯田線伊那北駅前) 130518_0934_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市)
JR飯田線伊那北駅前周辺 街道沿いに残る土蔵

伊那市山寺から伊那部宿(地図)まで、起伏のある旧街道をのんびり歩いてみました。
(写真:伊那街道と町並み=18日午前、640×480拡大可能)

<参考資料> 昌玄(伯先)坂と芭蕉秋風塚
伊那部の医師吉川養玄の子として宝暦五年(一七五六)六月長男元茂(俳号伯先)が生まれた。江戸と京都で医学を学び勉学に勤しんで帰郷、山寺に定住中村を姓とした。
医名を昌玄と名乗り名声は遠近に響き医生・寄宿生は数十名を下らなかった。
ここ昌玄坂は彼の医名から名付けられた。坂頭には坎水園(かんすいえん)と呼び治療や家塾を兼ね後には寺子屋を併設し子等の教育にあたった。俳句儒学漢詩にも志を懐した。伊那部宿にある伯先桜は伯先が幼少の頃に植樹した枝垂桜である。

身にしみて 大根からし 秋の風  芭蕉
三尺の 雪のうへ照る 月夜哉   伯先

(案内板から)

伊那街道 (高尾公園→坂下の辻)
130518_0939_高尾神社に咲くツツジ(伊那市) 130518_0946_高尾神社に咲くツツジ(伊那市)
高尾公園に咲くツツジ
130518_1005_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那小学校) 130518_1007_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・常圓禅寺)
伊那小学校 曹洞宗 常圓禅寺

<参考資料> 高尾神社
高尾神社(地図)はご祭神を保食大神 和久産巣日神 宇迦御魂神と申し古来より五穀豊穣 養蚕守護 商工業繁盛 授福の神として崇敬篤く 当山寺区にも古くから高尾講として信仰が続けられていた。昭和八年五月山寺商工会は地域の開発発展を願い、高尾講本社である山梨県中巨摩郡櫛形町穂見神社より神璽を迎えて新たに高尾神社を創建した。そもそも此の台地は戦国の頃 林式部の居館址と伝えられ、東に仙丈岳 西に駒ケ岳を望む景勝の地であり狐林と称せられていた。昭和四年山寺商工会はこの台上に公園をひらくことを計画。地元諸氏の協力を得て高尾神社の創建とともに高尾公園をして整備に着手。樹林の植栽 参宮道路の開設などに努めてきた。以来 高尾神社の祭典は全山ツツジの花に飾られる陽春五月 近郷近在の人々で溢れて興盛を重ね 昭和六十年五月 新しく社殿 拝幣殿を整えて更に神威を加え社運益々盛んである。
本年 創建六拾周年を迎えるに当り、諸先人の功労を偲び些か社略を誌して碑を建立する。 (山寺商工会が建立した石碑から)





伊那街道 (坂下の辻→荒井大芦)
130518_1009_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻) 130518_1009_2_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻)
伊那街道と権兵衛峠・羽広観音道が交差する坂下の辻
130518_1013_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・小沢川) 130518_1014_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・蔵元宮嶋酒店)
小沢川 蔵元宮嶋酒店

<参考資料> 伊那市史跡 坂下の辻
江戸時代伊那谷を南北に走る伊那街道は、南方より小黒川を渡り伊那部宿に入る。やがて荒井の大芦を経て、小沢川を往来橋(現代明十橋)で渡り、ここ「坂下の辻」(地図)に出た。ここから御馬寄(現代伊那小学校)の台地を東面中段を北に向かい、山寺段丘下を北進して御園に至り、現代の国道一五三号線と重複し御子柴境に達している。
これに対し東西に伸びる古道がこの辻で交差していた。ここにある供養塔のなかには左記の道標と丁石がある。

一 右ぜんごうじ  道
   左はび路
二 右善光寺道   享保二十一 丙辰天彼岸日
   左木曽路
三 羽広山マデ五十四丁 嘉永五子年三月吉日
   第一番

これらの道標によれば、ここから右に向かえば善光寺方面、左は仲仙寺た羽広観音様への案内である。また左木曾路は、途中羽広道とわかれて直進すれば権兵衛峠を越え木曾への案内である。木曾路については、寛文十年 飯田領と高遠領の境界争いの江戸評定所裁許絵図に、伊那部山道と記されている。
次に「羽広山マデ五十四丁第一番」の丁石は、この辻を起点として羽広の仲仙寺迄、一丁(約一〇九m)毎に建てたもので、十丁目で分岐し羽広に向かっている。かつて羽広観音は、上戸の第六天と共に馬の守護神や農耕神として崇敬厚く、庶民信仰の道でもあった。またこの辻より南方小沢川左岸明十橋のたもとに辻があり、碑に右江戸みの婦道・左ぜんこう寺とある。右は坂下の入舟で天竜川を渡り、高遠城下、更に甲州街道へ通じていた。
このように坂下は四方に通じる交通の要衝だったので、江戸時代近在の村々の寄り合い所である坂下会所があった。明治初期この地に戸長役場が置かれ、仲町入舟町界隈は天竜川通船と共に、急速な発展を遂げた。江戸時代中馬道として活気を呈した伊那街道や、それに交差した羽広道などは、庶民信仰の道であり、また木曾へ米の附送りや助郷の道でもあった。多くの人々が往還し東西文化の交流をもたらしたこの辻も、明治二十七年下段に三州街道が開通したことでその役割は終わったが今も多くの石佛により往時を偲ぶことができる。

通船とは
天竜川に舟運は慶長十二年(一六〇七)角倉了以の天竜川船路の見立てにより、まず下流域静岡方面で始まった。上伊那地方では文政十三年(一八一六)神子柴村(南箕輪)の加藤孫市が中馬業者や川沿いの農民を説得して本格的に遠州掛塚まで五十里半の通船を始めたが、経営困難で長く続かなかった。明治を迎え交易が自由になり、四年(一八七一)高遠県は大橋西詰へ船会所を建造した。当時の大橋は現在地より約百メートル上流に架かり、入船から中央区北の旧道へ接続していた。舟会所を拠点にやはり松島(箕輪)より遠州掛塚まで通船が行われたが、これも経営意の如くならず間もなく中絶した。明治初期、上下伊那郡の舟数は四年伊那県調で五十艘、入舟は北の拠点であった。この頃 沢渡帰帆を詠んだ井上井月の「春風に待つ間程なみ白帆哉」の句からも賑やかに行き交う舟運の情景が想起されるのである。
明治二十七年(一八九四)天竜川の沖積地へ幅九尺の三州街道(塩尻-伊那-飯田-三州)が南北に貫通し、入舟町、旭町等の家並みが順次でき坂下の辻の賑いは入舟町四つ角へと移った。その結果、人力車、中馬の時代から馬車交通の幕開けとなり、大量の物資がその頃開通した信越線、篠ノ井線を経て松本、塩尻、諏訪方面から三州街道を南下し伊那谷へながれこんで来た。しかし下伊那郡竜東の田村・伴野(現豊丘村)・阿島・伊久間の川幅も広く橋も架かっておらず、物資の供給が困難であった。この不便さに目をつけたのが南箕輪の加藤亮敬、伊那の松崎竜之助、中村奥次郎等で明治二十~三十年代相ついでこの地へ天竜川通船組合を設立したのである。三州街道と天竜川が僅か五十~六十メートルで最も接近している坂下入舟の好立地を生かして、陸上を運ばれて来た品物をこの地で舟に積みかえ下伊那郡竜東の村々へ大量の物資を運搬・供給した。扱った品物はランプ用の石油、米穀、砂糖、塩、肥料等で舟は米なら五十俵積める鵜飼い船であった。
通船業は一時期隆盛を極めたが、明治三十七年の洪水による河床の変化、橋梁の架設、運送馬車の発達、中央本線、伊那電鉄等の諸事情によりこの地の舟運は明治四十年前後に全く終焉をみた。
(伊那市教育委員会設置の案内板から)





伊那街道 (荒井大芦→伊那部宿)
130518_1020_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・寶樹山圓福寺) 130518_1022_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市)
寶樹山 圓福寺 街道沿いに残る土蔵
130518_1023_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿) 130518_1023_2_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿)
伊那街道 伊那部宿 伊那部宿の町並み
130518_1028_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿) 130518_1030_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・旧井澤家住宅)
伊那郵便局発祥之地 旧井澤家住宅

<参考資料> 伊那部宿の由来
伊那部宿(地図)は伊那街道の中で飯田城下と塩尻宿の中間に位置し、ここから高遠城下を経て甲州街道へ、また権兵衛峠を越え中仙道へ通じる交通の要衝であった。街並の初見は、天正十九年の太閤検地帳に長桂寺を含め十六軒の記載があり、また天文・弘治の頃、武田信玄が南信攻略のとき伊那郡を前進基地にしたと伝えられることからその歴史は古い。
その後江戸時代には中馬の中継地として活気を呈し、また菅江真澄・幕府天文方伊能忠敬・老中堀大和守・幕府巡見使土屋一左衛門など多くの要人がこの地に足を留め、元治元年(一八六四年)には水戸浪士八百余勢もこの宿で昼食をとり、旅篭の嫁娘らの接待により無事通過した。中村伯先・須田経徳・経哲父子などの名医・文人もまたこの宿場の出身である。
宿場の概要は南北の延長三三〇米、南北夫々のでいる愚痴は枡型構築がなされて外敵の侵入に備え、北に十王堂を建てて魔除とした。町の中央に長桂寺が位置し、門前に高札場があった。本陣と問屋は東側に配置され、街路の中央に角川があった。
旅篭や店は道に接し、奥に土蔵を配置した。また宿場に隣接の春日神社や春日城は伊那部宿と密接な関係があり築城は室町時代の陶器出土により、この時代またはそれ以前と思われる。更に東方眼下に広がる水田は、古くから拓けて「竜中耕地は七百俵取り」と豪語され、伊那部宿は、江戸時代の形態を今に伝えるものとして貴重なものである。 (案内板から)




伊那谷段丘に残る古城
130518_1129_山寺・古城(伊那市)
古城跡(南側から撮影)
「区誌山寺続編」によれば、伊那市山寺前橋町の伊那街道沿いに「古城」とよばれる地名が残り、かつての城跡の名残りではないか、という記述がありました。
伊那電気鉄道や水神道路、三条通りの工事に伴う埋め土用に切り取られたこともあり、現在は城跡と思われる場所は南北に分断された丘陵となっています。南側の丘には墓地が、北側の丘には祠が残り、高尾神社周辺に居館をおいた林式部(戦国時代)に関係すると伝えられています。

山寺地区の新道(御園境から坂下境まで)の工事は村は請け負った。仕事は村人足で施工し、埋め立ての土は今の古城を削り使ったり、古屋の東の崖を崩して使った。古城の地形は、当時は北にあるお稲荷様のある丘と南の丘は続いていたが、現在は二つの間はなくなり道路と同じ高さまで削り取られてしまった。 
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)

古城は地名からも古くは城があったと思われる。古城には明治七年から一八年まで学校があり、明治九年生まれの古老の話では、古城の学校に通ったとのことであった。学校は山園(さんえん)学校で、文献によると、その学校は御園南端にあったと記されている。御園と山寺前橋町との境界については、小字名「こぶけ」に遊水地(現在五味鉄構西側)があり、その池から流れ出る、こぶけ川が、御園と山寺の境界である。こぶけ池は南北に流れていて、川の西岸が山寺で東側は御園であり、山園学校は川の東側にあったが、以前は川の東側の境界は定かではなかった。現在は山寺区前橋町地籍である。 (区誌山寺続編 第3章町内のあゆみ・特徴から抜粋)

伊那電気鉄道 旧入舟停車場跡
130518_1110_伊那電気鉄道・旧入舟停車場跡(伊那市)
伊那電気鉄道・旧入舟停車場跡
(線路右側の石段とホーム)
JR飯田線伊那北駅と伊那市駅のほぼ中間にある入舟踏切北側には、伊那電気鉄道時代に大勢の乗降客で賑わった入舟停車場の跡が今も残されています。

<参考資料> 伊那電気鉄道の開通まで
明治二五年(一八九二)政府において「中央鉄道敷設」の計画が出された。これに対して、伊那谷側と木曾谷側の双方は、鉄道誘致運動を繰り返したが、最終的には木曾谷通過と決定し伊那の敗北に終わった。
そこで、伊那谷側では、明治二八年(一八九五)辰野より飯田までの電車鉄道敷く設の請願を内務大臣に提出、明治三二年(一九〇〇)に許可が下りた。しかしこの当時は、経済状態が芳しくなく、しばらく時期をみることになってしまい中断の状態が続いた。
中央線鉄道は、当初下諏訪からトンネルを掘って塩尻に通す予定であった。しかし、誘致に敗れた伊那谷側は、少しでも伊那の入口近くを通そうと、当時政友会の有力な代議士であり、かつ鉄道局長である下伊那郡上殿岡村(現飯田市伊賀良)出身の伊藤大八氏を先頭にして、下諏訪から川岸・辰野・小野経由塩尻の運動を展開した。その結果、ようやく辰野回りが認められ、実現の運びとなった。
中央線鉄道の岡谷・辰野・塩尻間の開通は、明治三九年六月一一日であった。
中央線鉄道辰野駅の開通をうけて、明治三九年(一九〇六)になり、伊那谷では、本格的な鉄道会社の設立をはかった。
明治四〇年(一九〇七)より伊那電気鉄道の線路の敷設工事が始まった。その後、伊那町までの工事の進行は次のようである。

明治四二年一二月二八日 辰野より松島 まで開通
明治四四年二月一七日 松島より木ノ下 まで開通
明治四四年一一月三日 木ノ下より御園 まで開通
明治四五年一月四日 御園より伊那北 まで開通
明治四五年五月一一日 伊那北より伊那町 まで開通

以後大正三年一〇月三一日に赤穂まで開通し、飯田までの開通は大正一二年八月三日であった。
当時村や町から資金の提供を受けるとその地域に駅を設けた。そのため駅の数は大変多かった。伊那町の中には駅は北から

御園駅 今の御園ニシザワショッパーズ近く(無人駅)
山寺駅 今の前橋町の踏切の北になった(無人駅)
伊那北駅 現在の場所
入舟駅 現在の入舟踏切のすぐ北 線路の東側にホームのあとがある
伊那町駅 現在の場所
小黒駅 (無人駅)

の六つがあった。開通当時は、ほとんど各部落ごとに駅があった。しかし飯田まで開通した大正一二年頃から駅の整理があり、山寺駅・小黒駅はなくなり、しばらくして御園駅も整理された。それでも当時、辰野駅から伊那町の駅までに二二箇所の駅があった。昭和一八年に国有鉄道に移管されると入舟駅は廃止されている。
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)

<参考資料> 伊那電気鉄道(私鉄)から飯田線(国鉄)へ
伊那電気鉄道は明治一八年(一九四三)八月一日、太平洋戦争の最中の第八一帝国議会で国有鉄道に移管を決定した。
伊那で近畿鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道の四会社が、政府に買収されて、国有鉄道の飯田線として引き継がれた。
引き継ぎ当時は、いずれも貧弱な地方社線であったため、国鉄施設基準に適合するものは少なく、輸送関係は社線時代を踏襲しなければならなかった。
この時、伊那町で一番賑わっていた入舟駅が交通上の関係で廃止された。(略)
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)


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130406_1254_見通し桜(伊那市)

伊那市狐島(地図)にある、江戸時代の村境界の基点とされたサクラ。
(写真:見通し桜=4月6日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 見通し桜
見通し桜は、江戸時代、天竜川の川筋における狐島村と、対岸である荒井村・西町村の村境を定める測定基点の一つとして存置されました。
現在の天竜川は、昭和45年(1970)右岸の堤防上を通過する国道153号線の完成と、左岸堤防上を走る補助道路の一貫堤防の完成により定着したものです。
それまでの天竜川は、あばれ天龍の名の通り、洪水のたびに本流は蛇行し、江戸時代の約270年の間に、90回ほども洪水や満水を繰り返したおります。当時の狐島村の絵図面を見ると、現在、天竜川の河床にあたる部分にも、数多くの水田が描かれています。明治初期以前、天竜川の本流は今より西側を流れていたと思われます。
延享元年(1744)の大洪水は、それまで荒井村との境界であった桜島を流失させました。これを機会に、狐島村と荒井村・西町村の境界の絵図が作製され、これが以後天竜川の川筋における村境争いの判断の基本となりました。
その中には、狐島村の基点が古町村(中央区)境の儀右門社塚から、南(下流)の下新田界の冷田井と道との四ツ辻までに、八ヶ所記されております。見通し桜はその中の一つ、長右衛門社木桜として記されており、ほかは洪水や、竜東土地改良事業等により消滅してしまいました。
一方、対岸基点は、荒井村に二カ所、石町に三カ所しるされています。しかし、見通し桜の対岸の目標については、伊那部宿の北(鍵の手)にある伯先桜と言われていますが定かではありません。 (案内板から)





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