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130503_0810_伊那小沢のシバザクラ(伊那市) 130503_0811_伊那小沢のシバザクラ(伊那市)
130503_0808_伊那小沢のシバザクラ(伊那市) 130503_0812_伊那小沢のシバザクラ(伊那市)
伊那小沢のシバザクラ

伊那市小沢の広域農道沿いにある花公園(地図)に咲くシバザクラの様子。
「芝桜まつり」は6日まで。入園無料。
(写真:伊那市小沢の花公園=3日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 伊那市観光協会 
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/





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130203_1053_一夜の城(伊那市)

戦国時代の天正10年(1582)、武田方の仁科五郎盛信が守る高遠城攻略の際、伊那谷を北上してきた織田信忠軍が本陣を置くため、決戦前日、伊那市富県貝沼(地図)に築いたと伝わる城跡。
伊那市教育委員が昨年1月から3月まで行った発掘調査で、土塁の外側に深さ2.6m、幅6mの堀が存在(参考:伊那MYウェブニュース「一夜の城 現地説明会」)していたことが確認され、一夜にして築かれた城か、その真偽はともかく、もともとここには戦時に備えた屋敷が存在していたことが明らかになりました。
1月9日付の長野日報には、調査を担当した関係者の話として、当時、織田軍の兵士は土鍋を背負ってきたと考えられ、城内や周辺からそのかけらが出土すれば織田軍がこの地にやってきたという証拠となる、とも記しています。
規模は小さくとも、県内では唯一、織田軍が関与したと思われる城跡。道路拡張工事により、将来的には遺構が失われる可能性もあるため、詳しい調査を継続して行われば…と思っています。
(写真:織田軍が築いたとされる「一夜の城(じょう)」=3日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
まだまだ寒い伊那谷ですが、築かれた土塁に福寿草が咲いていました。


一夜の城 (2月3日)
130203_1048_一夜の城(伊那市) 130203_1050_一夜の城に咲く福寿草(伊那市)
入口部分(左右に土塁) 土塁に咲く福寿草


130203_1044_宮ノ花八幡社(伊那市)

<参考資料> 伊那市有形文化財建築物 宮ノ花八幡社本殿
130203_1041_宮ノ花八幡社(伊那市)
一間社流造
(いっけんしゃながれづくり・案内板より)
八幡社の創立沿革は不詳であるが、『伊那市史』によれば、元禄二年(一六六九)の「御検見御領分中高附表」に「甲斐沼村八幡宮社地二町四反歩」とあり、春近郷・川上郷の中では群を抜いて広い除け地を有しているから、古くからの信仰の地であったと考えられる。『伊那市神社誌』によれば、久寿二年(一一五五)の再建といわれている。
本殿は、間口六尺の規模をもつ一間社流造、こけら葺の社殿で、覆殿の中に建つ。
向拝(こはい)は大面取角柱で、頭貫(かしらぬき)を通し、両端の木鼻をつける。頭貫の中央上には「※かえる」股をおく。「※かえる」股は本「※かえる」股で、鳩の題材を用いている。柱上の組物は三斗・実肘木(さねひじき)とする。軒は二間繁垂木(にけんしげだるき)で、打越垂木(うちこしだるき)を用い、薄肉彫の手挟をつける。母屋との繋ぎはない。
母屋の柱は円柱(腰下も円柱)で、土台、腰貫(こしぬき)、縁長押(えんなげし)、内法長押(うちのりなげし)・頭貫で固め、組物は三斗・実肘木とする。扉口を柱筋より後退させ、幣軸付の板扉とする。中備(なかぞなえ)の「※かえる」股は本「※かえる」股で、題材は、正面が宝珠(ほうじゅ)をもつ迦陵頻伽(かりょうびんが・極楽にいるという想像上の鳥)、扉口上が楓・鳩、左妻が波・鯉、右が楓・鳳凰とする。妻飾は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)に叉首竿(さすざお)をいれる。軒は一軒繁垂木とする。縁は切目縁で擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)をつけ、脇障子を立てる。頭貫より上の絵様や組物には胡粉が残る。
建築年代は不明であるが、様式から判断すると十七世紀末から十八世紀初、すなわち元禄~宝永期と推定される。母屋・頭貫・木鼻の形は、延宝二年(一六七四)に再建された諏訪神社本殿(辰野町宮木)と同一である。このときの大工は高遠の藤原(池上)金三郎政次であったことが棟札から判明しており、八幡社本殿も高遠の工匠が関与したと考えられる。
『伊那市神社誌』によれば、「元禄十五年(一七〇二)」に社殿(本殿が覆殿か拝殿かは不明)破損一部修理する」とあり、また、宝永二年(一七〇五)銘の灯籠がある点などからも、元禄・宝永期と推定される。
美篶芦沢にある十七世紀中期の妙儀社本殿、十七世紀後期の天満宮本殿に続く時代の様式指標をもった貴重な遺構である。
(境内に設けられた案内板から)


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130203_0935_井月と山頭火のモニュメント(伊那市)

伊那市の小沢川に架かる伊那橋(地図)に、幕末から明治初期に伊那谷を放浪し、多くの句を詠んだ井上井月と、市内にある井月の墓に訪れた種田山頭火を描いたモニュメントが昨年9月に完成。実際には出会うことはなかった二人でしたが、井月と山頭火が酒を酌み交わす様子を、千曲市在住の版画家・森獏朗さんが作品に仕上げました。
(写真:伊那橋に設けられているモニュメント=3日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 伊那MYウェブニュース
  http://inamai.com/news.php?n=1&i=201209021417120000048438
・ 井上井月顕彰会
  http://www.seigetsu.org/
・ 井上井月顕彰会公式ブログ
  http://blog.livedoor.jp/inoueseigetsu/

<参考資料> 井上井月と種田山頭火との出会い
山頭火はついにやってきた。昭和十四年五月三日であった。
昭和九年から数えて丸六年ぶりの井月墓参の実現であった。
前回は木曾から峠越しの伊那谷入りで、藤村の『夜明け前』の舞台、馬籠をも訪ねることが出来なかった。飯田での急性肺炎に懲りてか、豊橋から飯田線利用での伊那入りであった。
山頭火は井月の生き方に心酔しており、「いつも考えるのは、井月のことである。彼の酒好きや最後のことである」と日記に残している。
この旅は、各地の旧友知己の温情にすがっての旅であり、今回は目的をはっきり井月墓参に絞っていたのであった。墓参が終わった後も、伊那の与地から木曽へと帰っている。
さて、井月と山頭火が実際に出会ったことは無いが、もし出会っていたら、二人とも無類の酒好きであったので、「千両、千両」と酒を酌み交わしたであろう。

明日知らぬ 身の楽しみや 花に酒  井月
寝ころべば 信濃の空の 深いかな  山頭火

文:一般社団法人 井上井月顕彰会、企画:伊那まちの再生やるじゃん会
(伊那橋に設けられているモニュメントの案内板から)


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130203_1005_殿島城址(伊那市)

伊那市東春近の殿島城址公園(地図)に残る戦国時代の城跡。
(写真=2月3日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 殿島城址
殿島(とのしま)城は古くは本城と呼ばれ、稀に見る大きな平山城であった。土居は高く濠は深く、城下一帯は沼地で、北方には御射山(みさやま)を隔てて物見城(ものみやじょう)があった。
天文年間(一五三二~一五五五)の初めに、殿島大和守重国が千五百石を拝領してここに築城し、この地方を治めた。
弘治二年(一五五六)武田信玄が伊那に侵入し、廻状によって降伏を迫った。大和守をはじめとする伊那の諸士は防備を堅くし毅然としてこれに対抗したが力及ばず、狐島にて磔にされ、後に黒河内(長谷)の八人塚に葬られた。その後十六世紀後半まで、高遠城の支城であったという説もある。
大正六年、東春近小学校運動場設置のため濠の一部が埋められた。その後も、学校農園として芋や野菜が作られていた時代もあった。
昭和六十三年に伊那市の都市公園として整備され、現在に至っている。
(東春近地区協議会設置の案内板から)


殿島城址公園 (2月3日)
130203_0958_殿島城址(伊那市) 130203_1007_殿島城址(伊那市)
殿島城址公園 広い本丸跡
130203_1003_殿島城址(伊那市) 130203_1009_殿島城址(伊那市)
西側は天竜川の流れを望む展望地 本丸北側に残る濠跡
130203_0959_殿島城址(伊那市)
「東春近村誌」にある殿島城址の図


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050827_1250_みはらしファーム・名人亭(伊那市)
~信州そば発祥の地~信州伊那そば (名人亭)

伊那市観光協会のホームページに掲載されている市内そば店の一覧から。
今年は、信州そば発祥の地・伊那の「行者そば」と「高遠そば」をしっかり味わってみたいと思います。

<参考HP>
・伊那市観光協会
 http://inashi-kankoukyoukai.jp/


 ~信州そば発祥の地~ 伊那市のそば店
店名 住所 これがおススメ
 名人亭  伊那市西箕輪
 みはらしファーム内
 石臼挽き十割そば
 行者そば
 竹聲(ちくせい)庵  伊那市西箕輪与地6563  田舎そば
 みのやさくら亭  伊那市西箕輪6866-16  西箕輪産そば粉使用
 天ざる
 梅庵(ばいあん)  伊那市内の萱7088-2  行者そば
 栃の木  伊那市西春近 伊那食品工場  上伊那産石臼挽き粉
 きのこたっぷり山の
 おつけそば
 ひろ節  伊那市福島1660-1  ざる・天ざる
 角八  伊那市山寺八幡町1918-1  鴨せいろ
 居酒屋 そば酒 しゅー  伊那市荒井元町3386  ざるそば
 クロネコ  伊那市荒井通り町3391-1  ざる・もり
 亀  伊那市坂下入舟3308  からつゆそば
 こやぶ  伊那市中央4498-6  天ざる・もり
 やぶ浅  伊那市伊那警察署横  ソースかつ丼セット
 馬刺付そば定食
 峠の茶屋  茅野市宮川
 字安国寺3372-24
 9種類の十割そば
 2種類の二八そば
 さくらの湯 いろく庵  伊那市高遠町西高遠928-2  高遠そば
 ますや  伊那市高遠町東高遠1071  高遠そば
 みすゞ食堂  伊那市高遠町西高遠1701  高遠そば
 ギャラリー土味の器  伊那市高遠町西高遠1842-1  そばとそば豆腐
 入野家(いりのや)  伊那市高遠町高砂1632  高遠そば
 壱刻(いっこく)  伊那市高遠町西高遠1696  高遠そば
 華留運(けるん)  伊那市高遠町高砂1621-1  高遠そば
 兜庵  伊那市高遠町小原516-24  十割手打ちざるそば
 楽座  伊那市高遠町小原305-1  手打ち高遠そば
 七面亭(しちめんてい)  伊那市高遠町長藤1924  ざるそばセット
 南無庵  伊那市高遠町山室2010  ざるそば
 そば定食


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