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県歌・信濃の国にでてくる「木曽の桟(かけはし)」(地図)。
学校の授業で『信濃の国』を歌いながら「木曽の桟」とはなんだろうと疑問に思っている子供たちも多いのではないでしょうか。
この「木曽の桟」。今でこそ国道19号線の下になってしまいましたが、木曽川の断崖絶壁に張り出すように築かれた石垣に木橋を渡した古来の橋のことでした。
断崖の下には荒々しく流れる木曽川。行き交う大名行列も、善光寺詣でに訪れた旅人も、この難所を通過して旅を続けたのでした。 (写真=12日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 上松町観光協会
http://www.avis.ne.jp/~hinoki/
<参考資料> 長野県史跡 木曽桟跡
桟(かけはし)は、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたもので、木曽桟は歌枕にもなっていると共に、県歌「信濃の国」に歌いこまれており、寝覚の床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。
昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、正保四年(一六四七)にこれが通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(一六四八)に長さ五十六間(一〇二メートル)中央に八間(一四・五メートル)の木橋をかけた石積みを完成した。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されている。寛保元年(一七四一)の大改修と、明治十三年(一八八〇)の改修と、二度にわたる改修で、木橋下の空間はすべて石積となり、残されていた木橋も、明治四十四年(一九一一)には、国鉄中央線工事のため取り除かれてしまった。現在、石垣積みの部分は、国道一九号線の下になているが、ほぼその全ぼうが完全な姿で残されていることが判る。
この史跡は、慶安年間に築造された石垣を根幹とし、その後いく度か改修された遺構をほぼ完全な姿で留め、往時の木曽路の桟を偲ばせる貴重なものである。 (長野県教育委員会設置の案内板から)
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