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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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160730_1240_上野公園(東京都台東区) 160730_1359_東京大学赤門(東京都文京区)
西郷隆盛像(上野恩賜公園) 東大赤門(旧加賀藩上屋敷)
160730_1432_北斎通り(東京都墨田区) 160730_1535_2_本所松坂町公園・吉良邸跡(東京都墨田区)
北斎通り 本所松坂町公園(吉良邸跡)

所用のため文京区と墨田区を訪ねる機会がありましたので、合間を利用して周辺の史跡めぐりをしてみました。

emoji 文京区編
10時53分
北陸新幹線「かがやき508号」で上野へ
12時14分
上野着
上野恩賜公園→西郷隆盛像(地図)→上野動物園→森鴎外居住の跡(水月ホテル鴎外荘)→不忍通り・言問通り→東京大学赤門(地図)→都営大江戸線・本郷三丁目駅

<参考HP>
・ 上野観光情報サイト(上野観光連盟)
  http://www.ueno.or.jp/




<参考資料> 下町しるべ 旧 上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原を化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園( Wikipedia )のいわれは、大正十三年に帝国御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師ボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。




<参考資料> 東京大学赤門

文政10年(西暦1872年)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。


emoji 墨田区編
都営大江戸線・本郷三丁目駅→都営大江戸線・両国駅→緑町公園(津軽藩上屋敷跡・南割下水・江川太郎左衛門屋敷跡・野見宿禰神社・葛飾北斎生誕地)→両国小学校(芥川龍之介文学碑)→真言宗 大徳寺→回向院正門跡(地図)→吉良邸跡(本所松坂町公園)→総武本線・両国駅→上野駅
17時30分
北陸新幹線「かがやき513号」で長野へ
18時49分
長野着

<参考HP>
・ 本物が生きる街 すみだ観光サイト
  (墨田区観光協会)
  http://visit-sumida.jp/
・ すみだ北斎美術館
  http://hokusai-museum.jp/




<参考資料> 津軽の太鼓・津軽藩上屋敷跡
南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。
通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。
七不思議とはいいますが、民話なので伝(※字不明)方によって内容もまちまちで、数も七つと決まっているわけではありません。
この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。

<参考資料>南割下水
明暦の大火後、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、橫十間川などの運河と堀割の開削、さらには領国橋の架橋です。堀割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。現在の春日通りにあたる北には北割下水も掘られました。
割経水の幅は一間ないし二間(約三.六メートル)足らずで、水も汲み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗いの屋敷」の舞台にもなりました。
南割下水は昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎( Wikipedia )が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。

<参考資料> 野見宿禰神社
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。
明治十八年(一八八五)に親方の高砂浦五郎が、津軽家神屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和二十七年(一九五二)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代明石四賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。




<参考資料> 芥川龍之介 文学碑
芥川龍之介( Wikipedia )は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七カ月の時、母福ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、芸術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見学するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新新潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。

<参考資料> 駆逐艦不知火の錨
この錨は日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」( Wikipedia )のものである。
この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・(艦長六三.五メートル・五四七〇馬力・三〇ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
(両国小学校同窓会設置の案内板から・平成三年)

<参考資料> 大徳院
大徳院は高野山真言宗のお寺です。総本山は文禄三年(一五九四)、和歌山県の高野山に、徳川家康によって開かれました。高野山を開いた弘法大師の大と、徳川の徳をとって「大徳」と称しました。それ以来、徳川家の勢力を背景に、全国に末寺ができましたが、大徳院は、高野山金剛峯寺の諸国末寺の総触れ頭として、寛永年間(一六二四~三九)、神田紺屋町に屋敷を拝領し寛文六年(一六八四)二月、千二百坪の土地をこの地両国に拝領し、移転しました。
本尊は薬師如来で、俗に「本所一ッ目の寅薬師」といわれ、眼病治癒に効き目があったことで信仰されていました。また、宝暦年間(一七五一~六四)に開かれた御府内八十八札所の中の第五十番になっています。

<参考資料> 回向院正門跡
回向院の正門は、かつてこの位置にありました。
回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきり見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火( Wikipedia )による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。




<参考資料> 吉良邸跡
吉良上野介義央( Wikipedia )の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約八四〇〇平方メートル)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刃傷事件( 赤穂事件= Wikipedia )の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

<参考資料> 吉良邸裏門跡
吉良邸の裏門はこの辺りにありました。
赤穂浪士打ち入れの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々を斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子(※くさりかたびら)を着込み完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。
広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。

<参考資料> 鏡師中島伊勢住居跡
中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
北斎の出生は不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
飯島虚心の『葛飾北斎伝』によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。
(墨田区設置の案内板から)
 
<参考資料> 時津風部屋(時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博(元前頭・時津海)。
昭和十七(一九四二)年、当時現役であった第三十五代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のままで市の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。
幕内最高優勝十二回(内、全勝八回)、いまだに破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十(一九四五)年十一月場所後の引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。
十二代・時津風は、昭和四十三(一九六八)年十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里…十三代・時津風)、三大関(大内山、北葉山、豊山…十四代・時津風。第八代相撲協会理事長)をはじめ、多くの力士を育成しました。


当日(7月30日)の東京の天候はほぼ快晴。天気も良く、気分も上々と元気よく歩き始めたものの、次第に東京ならではの暑さと湿気にペースダウン。文京区から墨田区へ移動するころには完全にバテてしまい、早々に現地から撤退することになってしまいました。機会があれば、もう少しゆっくり、それも春や秋など、過ごしやすい時期に、江戸情緒を味わえる旅がしてみたいなぁ…と思ったのでありました。


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