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150813_1049_乙事諏訪神社(富士見町)

諏訪郡富士見町乙事(おっこと)にある神社(地図)。
もともとは乙事には上社と下社がありましたが、火災により上社が焼失。昭和25年(1950)に下社の本殿を移築し現在の姿になっています。
江戸時代初期の元和3年(1617)に建立された拝殿と幣殿(参考:神社建築)は、諏訪神社(諏訪大社)上社本宮からこの地に移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
(写真:乙事諏訪神社の拝殿と幣殿=13日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 国指定文化財等データベース(文化庁)
  http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp
  ※名称「諏訪社」都道府県「長野県」で検索
・ 諏訪大社と諏訪神社(八ヶ岳原人)
  http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm
・ おみやさん com
  http://www.omiyasan.com/

<参考資料>
この神社は延徳二年(一四九〇年)御別当明神を祀り 文化八年(一八一一年)諏訪明神の神霊を勧請した
この神社の拝殿 幣殿は神社建築史上重要なもので 本殿を有しない神社の珍らしい例である
諏訪神社(神宮寺)の神前建物として元和三年(一六一七年)に建立されたものであるが 嘉永年間 この地に移建されたものである 小規模であるが 鎌倉室町の手法を有し 雄大豪壮な彫刻は桃山建築の特質をよく発揮している
この本殿は下社(天正年間御別当明神を祀った)と謂れ 文化八年(一八一一年)諏訪明神の神霊を勧請して文政二年(一八一九年)建築したものを昭和二十五年(一九五〇年)社殿の合併によって移築したものである。
(乙事区設置の案内板から・昭和50年)





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150813_1134_先達城址(富士見町)

諏訪郡富士見町先達(地図)にある武田信虎の諏訪攻略拠点となった城址。
信虎は享禄元年(1528)、諏訪攻略のため、ここにあった「小東ノ新五郎」の屋敷を城とし、上原城主・諏訪頼満と対陣。富士見町御射山神戸及び堺川(現在の立場川)で戦い(享禄の戦い)を挑みますが、武田方は大敗し、信虎は敗走したと伝えられています(参考:長野日報)。
(写真:武田信玄の家臣多田淡路守常昌の居館があったとされる常昌寺=13日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 先達城址
享禄元年(一五二八)八月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。『神使御頭(しんしおとう)之日記』に「此年甲州武田方ト執合に付テ、八月廿二日二武田信虎堺ヘ出張候テ、蔦木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城に取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。
地元の伝承によれば、ここ鳳凰山常昌寺の敷地には武田信玄の家臣、多田淡路守常昌の居館があった。その常昌は、天正三年(一五七五)の長篠の合戦で討ち死にしたという。境内の墓地には、天保年間ころ長篠の戦場跡より写し取ってきたという墓碑があって、表に「知海常通居士位」裏に「三州長篠戦合天正三年五月四日夜 陣中右淡地三八郎常政苑」と刻まれている。ただし、常昌その人について文献の上では見極められがたい。
館跡は鹿之沢(かのさわ)左岸の尾根筋上に立地し、西北側(諏訪側)が急俊な谷で画される一方、東南側は緩傾斜となっている。げんざい城跡としての遺構は特に認められないが、北に広見(ひろみ)木戸、南に南木戸の名を残し、それぞれに沿って二軒の「広見の家」と「南の家」がある。また、寺をとり巻くように「城(じょう)の家」という呼び名の家が四軒かぞえられる。明治七年の先達村絵地図には字城と示されている。先達城址が「城」であったことは、これらの呼称からも確かといえる。
こんにち「小東村の新五郎屋敷」はその場所を特定することができない。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成11年)





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150429_0740_田端鼎談桜(富士見町)

諏訪郡富士見町田端(地図)に咲く田端鼎談桜(たばたていだんざくら)の様子。
(写真:田端鼎談桜=4月29日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 富士見町ホームページ
  http://www.town.fujimi.lg.jp/





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150418_0757_1_ドルメン類似遺跡・坪平遺跡(富士見町)

諏訪郡富士見町立沢の坪平遺跡(地図)で発掘された支石墓の遺構。
(写真:ドルメン類似遺跡=18日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 木漏れ日の森から
  http://komorebit.exblog.jp/7101380/

<参考資料> ドルメン類似遺跡
150418_0757_2_ドルメン類似遺跡・坪平遺跡(富士見町)
ドルメン類似遺跡
(後ろは立沢大橋)
ここ坪平遺跡は、大正の末年、郡史編纂調査の一環として民族・考古学者の鳥居龍蔵博士らによって発掘され、「ドルメン類似遺跡」と称せられた。
発掘されたのは石で覆われた墓と目される遺構で、四メートル近い間隔で二基ならんで発見された。片方は偶然、地主の植松夏平氏によって掘り起こされた。南北五.七メートル、東西四.五メートルばかりの長方形に積石がなされ、その北端に長さ十五メートル弱の人形をした石製品(立沢区所蔵)があったという。
もう一方もやはり南北五メートル、東西三.六メートルほどの長方形に積石がみられた。掘り起こして見ると六十センチほどの深さに積まれており、中央やや北に寄ったところには直径一メートル余の大きな蓋石がいくつかの支石の上に被せられていた。支石で囲まれた不規則な室は長さ九十センチ、幅三十センチほどであるが、そこに遺物は見当たらず、蓋石の北側から石器や土器片が発見されたという。
このような支石と蓋石のあり方はヨーロッパ考古学で「ドルメン」と称する支石墓(しせきぼ)に似ており、これらは石器時代の墳墓である。そして、日本にも巨石文化の小規模なものが存在したと、鳥居龍蔵は考えた(『諏訪史』第一巻)。
こんにち、坪平遺跡は縄文時代後期(およそ三八〇〇年前)の遺跡として認識されている。いっぽう、一九八〇年来、八ヶ岳南麓の北巨摩郡下では墓や墓域に大量の石を用いた同時代の遺跡がいくつか発掘されてきた。それらに照らしてみると、坪平の遺構を支石墓と断定することには疑問もあるが、諏訪における考古学史上記念すべき遺跡であることに変わりはない。その時の発見箇所一〇〇平方メートルほどが、区有地として保護されている。
なお平成十年、この東に隣接する土地五〇〇平方メートル余りを発掘調査した。しかし、墓跡と思しき穴三基を検出したにとどまり、同類の遺構は見当たらなかった。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成17年)





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150418_0731_茅葺屋根の観音堂に咲く「高森観音堂しだれ桜」(富士見町)

諏訪郡富士見町境の高森観音堂(地図)に咲くシダレザクラの様子。
(写真:高森観音堂のシダレザクラ=18日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 富士見町公式ホームページ
  http://www.town.fujimi.lg.jp/

<参考資料> 高森観音堂の枝垂桜
150418_0732_茅葺屋根の観音堂に咲く「高森観音堂しだれ桜」(富士見町)
高森観音堂しだれ桜
ここ愛宕山観音堂の境内のサクラは、樹齢約二五〇年と推定される。樹高約一〇メートル、目通り幹囲三・八メートル。根元に石造物の円形型残欠を抱き込んで古木の風貌をみなぎらせており、四月下旬、淡紅色に咲く花の盛りには、富士見町内一の風格をいっそう高める。
シダレザクラにはイトザクラという別の名がついているが、これはいずれも細い枝が垂れ下がる性質による名前である。
この種類は、青森県から鹿児島県霧島山まで自然に分布するエドヒガンの絵だのしだれる品種で、樹齢が長く、太い枝が横に広がり、細い枝が細長く垂れ下がる特異な樹形のため、古くから神社や寺の境内に植えられてきた。日本各地には大木も多くあり、天然記念物に指定されているものも数多い。
ちなみに、このシダレザクラと同時代ころ植えられたとみられる株が乙事薬師庵境内、葛窪三十三番、葛窪下デンデー墓地、田端共同墓地などにある。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成15年)

<参考資料> 高森愛宕山観音堂
このお堂は、薬師堂と地蔵堂を合せて建立したものといわれ、源海という僧が開基にあたると伝えられる。
以前は諏訪社の南方にあったといわれ、享保の「絵図」にある「あたこ地蔵堂」がこれにあたるものと思われる。
本尊は千手観音で、ほかに薬師如来がある。
また「旧蹟年代記」に「乾龍院(諏訪忠晴)様、元禄十一年(一六九八)三拾三体地蔵尊を下さる」とある地蔵尊が一体、弘法大師の像が数十体ある。
後者については「旧蹟年代記」の高森村の項に、「文政九年(一八二六)、紀州日下部高家村行者吉右衛門というもの、諏訪郡へ新四国と号、弘法大師の像を八十八ヶ所に置く、第壱番高森観音堂」とある。
富士見町史より

頼みある しるべなりけり 高森の
大師の誓い あらたなりけり
(案内板から)


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