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今井兼平の墓 |
兼平は木曽義仲に従い、横田河原の戦い、倶梨伽羅峠の戦いなどで活躍しますが、元歴元年(1184)1月に行われた源範頼・義経軍との戦い・粟津ヶ原の合戦で戦死。墓は滋賀県大津市のJR石山駅近くにあるそうです。 (写真:今井神社=21日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 滋賀県観光情報
http://www.biwako-visitors.jp/
<参考資料> 由緒書 今井兵衛尉中原四郎兼平墓
平安時代、後白河法皇の第二皇子、以仁王の平家追討の令旨(れいし)を奉じ、木曽宮の越で挙兵した源義仲は、中原信濃権守兼遠の庇護を得て、依田城に拠る。源家の白旗に集まる軍勢三千騎。驚愕の平家は、越後国鳥坂、城長茂(じょうながもち)に討伐を命ず。長茂の弟助茂(すけもち)は三万の兵力を以って、信濃国篠ノ井、横田河原に布陣する。
義仲の三千騎は、これと対陣するも十倍の敵を迎えるに挟撃作戦をとり、今井兼平は七百騎の将として越後軍の背後に迂回し、雲井の里に陣したのが即ちこの地である。
兼平は護持の聖観世音に一宇の建立を誓って、戦勝を祈願し、治承四年六月十四日の合戦は、圧倒的大勝であった。
兼平は、聖観世音と陣中守護の甲観世音を安置した堂宇の建立を、家臣岩害刑部(いわがいぎょうぶ)に命じ、戦勝に因んで兼平山・切勝(さいしょう)寺と命名した。
寿永三年正月二十一日、近江国粟津ヶ原合戦で兼平討死を知るや、刑部の悲嘆限りなく、主君兼平の菩提を弔うため五輪塔を建てたのがこの墓である。昔からこの地では、兼平墓の苔を飲むと百日咳(馬引風邪)に特効ありと知られ、遠近の人達参詣しては、塔石を削りとっていた。
解説
1.五輪塔
高さ五尺六寸一分(一m七十cm)西山産の石。石のすりべりは参詣者が持ち帰ったもの。馬引風邪の妙薬と言われる。
1.縁切橋(えんぎりばし)
兼平須出陣に際し惜別をかわしたと言う。五百m程西なり。嫁とり、婿とりこの橋を渡らず。
1.駒止石
この地に駐屯せよと馬の告げ、馬動かず。
1.馬洗(うまああらい)の池
横田河原出陣に際して馬を洗ったと言われる。東方1000m程なり。
そのほか雲井の里
大昔、この地方を雲井の里と称していた。ススキが多く風に吹かれるとあたかも雲の如く見えていたのでその名あり。
(現地に設置された案内板より)
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