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北国街道と北国西街道(善光寺街道)との分岐点(地図)にあった宿場町。現在、街道分岐に地元有志の皆さんが昭和51年に建立した石碑が建てられています。また、ここから南へしばらく歩くと、矢代宿を結ぶ渡船場、その近くに軻良根古(からねこ)神社があります。 (写真=4日撮影)
<参考HP>
・ 国土交通省 長野国道事務所
http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/
※ホームページ内の「信州の街道探訪」に北国街道・北国西街道の記述があります。
<参考資料> 篠ノ井追分宿碑
わが里篠ノ井の地はかつて江戸時代北国街道と北国西街道の重要な分岐点で、時には天領、時には松平氏分知として「篠ノ井追分」の名は広く天下に知られ千曲川の渡船場えを控え繁栄した宿場であります。遠く平安期の延徳十八年(西暦七九九年)高句麗の帰化人秋足に篠井の姓を賜ると日本後記に見え古くからひらけた地域でもあります。明治十一年明治天皇が北陸御巡幸のみぎりには鉄輪の御馬車に召されたこの街道を北に向って進まれました。翌年郡制の施行とともに郡役所を始め警察署税務署郵便局郡立高等小学校郡立農学校(現更科農業高等学校)等の諸官学校が建ちならび、又千曲川舟運の終点として海産物資等の陸揚地集散地でありました。郡内はもとより西山等方面東信地方の陸路輸送の要路にあたり、更科郡下の政治経済文化の中心地として大きく発展してまいりました。しかしながら千曲川の相次ぐ洪水鉄道の開通国道の改修等にともない、その繁栄は遂次現在の篠ノ井駅周辺に移り、昔日の面影をとどめず今は自然の懐にいだかれたのどかな歳月豊かな田園集落の姿に戻りました。
ここに郷土を愛する有志相寄り相謀って往時を偲ぶよすがとして北国街道篠ノ井追分宿跡を建立しおおよそその由来を記し、以って後世に伝えるものであります。 (北国街道篠ノ井追分宿碑建設委員会設置の碑文から)
軻良根古神社 | 千曲川渡船場付近 |
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