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須坂市八町(地図)にある県指定史跡の古墳で、昭和32年8月に発掘調査が行われました。1号墳から発掘された水字貝(すいじがい)釧片は、もともと水字貝が沖縄や台湾などの東シナ海に生息するものであるため、須坂にもたらされた理由を考えると大変貴重な発見だったといわれています。また、2号古墳から発掘された帯金具の文様には「獅子噛み文」があり、これは朝鮮半島などで発掘例があることから、半島からこの地に住んだ渡来人との関係をしのばせるものとして貴重な発見だったということです。
古墳周辺は整備されており駐車スペースがありますので、ゆっくり古墳を見学することができます。 (写真=22日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 八丁鎧塚第1・2号古墳
鎧塚古墳群は、鮎川古墳群のほぼ最上流部に位置し、現在は6基で一群をなしています。
1号古墳は直径25.5m、高さ2.5mでスイジガイ釧片(くしろ)ゴホウウラガイ釧片、碧玉製石釧片(へきぎょくせいいしくしろ)、勾玉、ガラス小玉等が出土、4世紀後半の古墳と推定されています。
2号古墳は直径25.5m、高さ3.5mで、南側に張り出した部分があり、この時代の積石塚(つみいしづか)としては全国で初めて(張出付円墳)と確認されました。
また、(鍛銀銅製獅噛文銙=か板)と呼ばれる帯金具、家形埴輪片、朝顔形埴輪片、円筒埴輪片、人物埴輪片等が出土し、5世紀後半の古墳と推定されています。
6号古墳は直径12.5mで6世紀中頃の葺石工法で造られた古墳と推定されています。
日本の代表的積石塚として、また貝釧が東シナ海原産の貝であること、帯金具の文様が朝鮮半島出土のものに似ていることなど、大陸文化の影響を色濃く示しておりたいへん重要な意味を持っています。
出土品は須坂市立博物館で保管・展示しています。
<参考資料> 鎧塚第6号古墳
この古墳は、平成6年の1・2号古墳範囲確認調査で偶然確認されたもので、直径は約12mあります。
古墳の一番裾、最下部の石積が発見され、一緒に円筒埴輪片、土師器片が古墳の外側に当たる部分からまとまって出土しました。
この古墳は1・2号古墳とは異なり中心を土で盛り、その上に石を葺いた工法の古墳であることが特徴です。
鎧塚1号古墳から約1世紀以上の築造ですが、1・2号古墳の狭い場所に、しかも南北に並ぶように築造されていることは、埋葬された人を考える上でたいへん興味深いことです。
この古墳の埋葬施設は失われていますが、明治時代いこの古墳の中心部と思われる部分から、”板石をはこびだした”という言い伝えがあり、石館は板石で造られた”箱式石棺”だった可能性があります。
<参考資料> 箱式石棺
この石棺は、鎧塚第2号古墳の南側張出部に設けられたもので、長辺に板石6枚を短辺に各1枚で箱形に組み立てられ長さ2m50cm、幅約50cmの大きさです。
石棺底にも西側では平らな川原石を2枚、東側では平らな板石を2枚敷いています。
また、石棺の内部からは遺物は出土していません。
築造当所(原文まま)はこの石棺の上に板石で蓋されていたと考えられます。
古墳の周りに石棺を設け、埋葬する例はたくさんありますが、この石棺は2号古墳から南に延びる張出部分に東西に造られていて、2号古墳本体に埋葬された被葬者との関わりはたいへん深かったことがうかがわれます。
また、この石棺の発見は、2号古墳の埋葬施設を知る手がかりになります。
左から2号・6号・1号古墳 | 箱式石棺(中央) |
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