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201115_0825_若穂保科・清水寺の紅葉(長野市)

長野市若穂保科にある清水(せいすい)寺の紅葉の様子。
早朝から大勢のカメラマンで賑わっていました。
(写真:清水寺の境内を彩るカエデ=15日午前撮影、640×480拡大可能)


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長野市柳原(中俣)のベイシア東長野店東側に残る城跡(地図)。
(写真:城山稲荷明神社=5日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 長野市文化財データベース
  http://www.bunkazai-nagano.jp/
・ 柳原地区住民自治協議会
  http://e-yanagihara.com/

<参考資料> 中俣城址
中古寿永の頃、朝日将軍木曽義仲が勇志を発し北国の猛威をふるった頃、築城されたと伝えられる。応永三十一年(一四二四年)井上氏が築いた平城で、石垣、天守閣などはない「とりで」で、井上氏が代々住んでいたと古老の口碑が残されている。
本丸は城の中心部をいい、外堀、内堀、三の丸、二の丸の中心にあったところを堀の内といっている。

<参考資料> 城山稲荷明神社
中俣区小字堀組の旧城跡本丸辰巳の方に鎮座されている。
由緒
稲荷大明神は、古く寿永年間に中俣城を築城した井上氏を初めとし、応永年間の城主井上左馬之助光頼の舎弟遠江守浩治、永禄年間には武田氏の幕下保科・井上・栗田各氏より、天正年間は織田信長公の臣森長可の舎弟森右近の太夫忠政、ついで上杉氏の幕下本田安房守等、累代の城主が武運長久の守護神として崇拝し、その霊験もまた顕著であった。
その後、上杉氏は奥州会津へ移城されたことにより中俣城は廃城となったが、大明神の玄鑑は益々里閭に普き信徒の渇仰崇敬も年と共に熾となった。
特に商工農養蚕を初め盗難、火難、乳児の夜泣き慰癒の守護神として崇敬されている。
なお、現社殿は大正十三年(一九二四年)十月に社殿再建発願され万人講を結び、昭和五年に再建された。
また、鳥居は平成六年(一九九四年)三月吉日に区民一同により再建された。
(案内板から)





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長野市道古牧朝陽線道路工事・西尾張部土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査により明らかになった中世城館跡(地図)。
(写真:尾張城跡公園に建つ石碑=5日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 長野市文化財データベース
  http://www.bunkazai-nagano.jp/

<参考資料> 尾張城跡
尾張城跡は本碑から北東方約七十米の地点に主郭(本丸)の中心部が位置する中世城館跡である。
「長野縣町村誌」には、天正年間(一五七三~一五九一年)に尾張備中が居住したところというとあり、また、「科野佐々札石」には尾張部三郎がここに居館して当村一村を支配していたが、永禄年間(一五五八~一五六九年)のはじめに武田氏に降って、この城館を引き払ったものとされている。
城館の広さは「長野縣町村誌」によると「本丸趾東西五十三間、南北四十七間、二の郭趾東西六十間、南北三十八間(字形恰も曲尺の如し)内濠、外濠、馬出し回字形をなす」とある。
平成五年~七年、西尾張部土地区画整理事業に伴い、道路造成部分に関して、長野市教育委員会により発掘調査が実施されたが、主郭(本丸)・内濠・馬場などが確認されている。特に主郭からは、多数の建物址の痕跡と大量の陶磁器類が検出され、当時の支配者層の生活の一端が明らかにされた。区画整理前の旧地主は十五名の多さにのぼっている。
(尾張城跡公園に設置されている石碑から=平成11年3月)





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191213_1003_「やさい生食パン」発売記念記者会見(長野市)
色鮮やかな4種類の「やさい生食ぱん」

13日から、アレルギーの原因となる卵や乳製品を含まない生食パンの販売が、JR長野駅前のホテルメトロポリタン長野1階(カフェレストラン アイリス)で始まりました。
「やさい生食ぱん」にはトマト・ホウレンソウ・むらさき芋・カボチャの4種類があり、色鮮やかなキューブ型(半斤)の仕上がりになっています。お値段は1個380円(税抜)。

<参考HP>
・ 株式会社ミールケア
  http://www.mealcare.co.jp/


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190504_1106_1_水内総社日吉大神社(長野市)
栗田城址(水内総社日吉大神社)

長野市栗田(地図)の閑静な住宅街に残る中世の平城跡。
戦国時代、城主初代栗田永寿( Wikipedia )は、武田方の将として活躍し、弘治元年(1555)の第二次川中島合戦時には、武田軍の援軍とともに旭山城に籠城。子の栗田鶴寿( Wikipedia )は甲斐善光寺別当を務めますが、天正9年(1581)、徳川家康による高天神城攻め( Wikipedia )で戦死しました。
四方を囲んだとされる土塁跡の一部が残されており、現在、水内総社日吉大神社(日吉神社)が建てられています。
(写真:城址に建つ水内総社日吉大神社=4日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 栗田町内会
  http://www.kurita-nagano.jp/

<参考資料>
水内総社日吉大神社由緒
御祭神
 大山咋命(おおやまくいのみこと)
 罔象女命(みずはのめのみこと)
配命
 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
 天思兼命(あめのおもかねのみこと)
 天表春命(あめのうねはるのみこと)
 天鈿女命(あめのうずめのみこと)

190504_1106_2_水内総社日吉大神社(長野市)
水内総社日吉大神社
当社の創立は遥かなため年代は確かでありません。
平安時代の末頃からこの地は北信濃の名族村上源氏の一族である栗田氏の本貫の地でありました。栗田氏はやがて戸隠・善光寺の別当として勢威を奮うようになり、その栗田氏の氏神、守護神、として滋賀県比叡山の東麓坂本に祀られている日吉大社の御分霊を長野市岡田の地に勧請し、日吉山王として永年奉斎してまいりました。(山王の地名はこれに由来します)
甲越二雄の川中島合戦の後、栗田氏の所在は四散したので、以後栗田に住む人々が氏神としてお祀りしてきました。一方、現在のこの地は栗田氏が南北朝地代以前に築いた城跡で、元和元年(一六一五)栗田堀之内城取毀し後、栗田に住む人々の氏神(栗田権現)とし戸隠の神神(配神三体)を祀っておりました。
明治四十一年(一九〇八)に岡田の水内総社日吉大神社(日吉山王)と、別に吉原組(元戸隠領)で奉祀しておりました日之御子神(天鈿女命を祀る)をこの地に遷し、栗田大元神社(栗田権現)と三社を合祀し名称を水内総社日吉大神社として今日に至っております。
 祭日
 春季例祭 五月三日
 秋季例祭 九月二十三日
(案内板から)

<参考資料> 栗田城址
地理的環境
栗田城址は裾花扇状地の先端地域に位置し、西高東低する中洲微高地の、比較的安定した地域にある。また交通の要衝でもあった。
裾花川の支流が三方を囲む本地域は、しばしば裾花川の洪水に見舞われ、堆積を重ねて来た。この地域には裾花川支流の古川や計渇川などが、ゆるやかな段丘面を幾条にも分流し、一帯に広がる水田の灌漑用水として重要な役割を果たすと同時に、本城の水濠を満たしていた。この付近には、栗田・岡田・高田・吉田・太田などの地名が残っている。
近年、栗田城址周辺二百メートル以内、五ケ所で発掘調査は実施された。「ふれあい会館」地点では、一メートル以上の地中から多数の遺物や遺構が確認され、小銅仏・土器皿・陶磁器・石臼・石鉢・青磁香炉・北宋銭・中国産陶器などが出土している。

栗田城址(堀之内城)
190504_1103_栗田城址想定図(長野市)
栗田城址想定図
栗田氏歴代の居館跡で堀之内城とも呼ばれ、中世の平城で、地積は長野市大字栗田字東番場に在る。裾花川支流を利用し、二重の堀をめぐらした複郭式平城で、長野市では最大規模の居館跡の一つである。
現在、主郭跡には西から北にめぐり幅十一メートル、高さ九メートル、長さ四十メートルほどの築提が残されている。その位置関係から、土塁を含めた内郭範囲は百に十メートル四方前後の方形と思われる。北西隅には水内惣社日吉大神社本殿がある。
文献に栗田城が登場するのは、南北朝地代の応安三年(建徳元年・一三七〇)信濃守護上杉朝房(ともふさ)が栗田城を攻めたのがはじめであり、文明九年(一四七七)栗田氏は漆田城を攻め領域を広めている。
明治期、栗田・北中地区には、東馬場・西馬場・舞台・源太窪・北河原・舎利田・部屋田の地名や古川堰・計渇堰・前堰・本城堰・太刀打場堰などの用水名が残されている。
さかのぼること、治承四年(一一八〇)木曽義仲が結集した武士団に栗田氏が入っている。栗田城は栗田寛覚(寿永二年・一一八三没)の子、「仲国」が築城居住してから戦国時代末期(一五九八)まで続いたといわれている。

栗田氏の活躍
水戸家に伝わる「水戸栗田系図」、栗田寛覚の傍注に「栗田禅師初テ信濃国栗田郷ニ居住ス。依テ本名村上ヲ止メテ在名栗田ト号ス、同国戸隠明神別当ヲ兼ヌ」とある。この寛覚が村上氏の分家で栗田氏の祖である。
そもそも村上姓は七九九年に賜姓(しせい)され、一〇九四年に至って白川上皇に仕える殿上人(てんじょうびと)に列せられ、勅使の役を勤め院に仕えていたが、権力争いに敗れ父子兄弟が諸国に配流(はいる)された。そのうちの村上盛清が、信濃の更科郡村上郡に配流されたと考えられる。
鎌倉時代には戸隠山顕光寺(現・戸隠神社)や善光寺の別当職に就くなどして、里栗田・山栗田に分かれ善光寺平一帯に勢力を及ぼしていた。天文二十四年(一五五五)七月、第二回川中島合戦に、善光寺堂主栗田氏が「朝日の城」(現・朝日山)に入り武田方の支援を得て、ここを守り通した。この戦いの後栗田氏は武田の武将として、善光寺衆とともに甲府に移り、甲斐善光寺の別当となった。(呼称・里栗田)
武田信玄没(一五七三)後、設楽(したら)ヶ合戦(一五七五)で、織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、遠江(とおとうみ)の要である高天神城を城将岡部元信や栗田鶴寿(寛久)らに託したが、天正九年(一五八一)徳川軍に敗れ、鶴寿は城と運命を共にした。子の永寿(国時)は別当職を受け継いだ。
一方、在郷して上杉を頼った栗田氏は、豊臣秀吉の「上杉会津移封につき、申し付け状(慶長三年・一五九八)」により上杉景勝と共に会津へ移った。(呼称・山栗田)
徳川家康は関ケ原の戦い(慶長五年・一六〇〇)に勝利した。大阪方に加担した上杉景勝は一年を経ずに、会津を没収され米沢に移り栗田氏も同行した。
(栗田城址を整備する会設置の案内板から・平成二十六年)





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