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150530_1155_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)

山梨県甲州市大和町田野(地図)にある曹洞宗の寺院。
天正10年(1582)3月、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により、新府城( Wikipedia )を追われた武田勝頼は、岩殿城主・小山田信茂( Wikipedia )のもとに落ち延びます。しかし、その途中信茂の離反に遭い、遂に進退窮まり、追撃してきた滝川一益ら織田軍を家臣らが迎え撃つ(四郎作・鳥居畑古戦場)なか、北条夫人・嫡子信勝とともに自害したのがこの地と伝えられています。
甲州征伐の後、甲斐を領した徳川家康は、家臣の尾畑勘兵衛に命じて田野寺(現在の景徳院)を建立し、勝頼と家臣の菩提を弔いました。
(写真:武田氏最後の激戦地となった景徳院=平成27年5月30日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 甲州市観光協会
  http://www.koshu-kankou.jp/


曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1210_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1211_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1207_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1158_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
没頭地蔵 旗竪松
150530_1202_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1205_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
甲将殿 武田勝頼と一族の墓

<参考資料>
山梨県指定史跡 景徳院境内
本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約五十名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第四子として天文十五年(一五四六)に生まれた。母は諏訪頼重( Wikipedia )の女である。天正元年二十八歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正三年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い( Wikipedia )大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正十年(一五八二)織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。

150616_1049_JR大月駅・岩殿山(山梨県大月市) 150616_1041_JR大月駅(山梨県大月市)
岩殿城(山梨県大月市)

勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年三月三日居城を自らの手で焼き軍内の岩殿城( Wikipedia )に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正十年三月十一日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将仕の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友晴( Wikipedia )の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「擐甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれる「旗竪ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(山梨県教育委員会・大和村教育委員会設置の案内板から・平成17年)

<参考資料> 
山梨県指定史跡 武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第四子である。天文十五年(一五四六)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(一五七三)に家督を継いだ。
天正三年(一五七五)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(一五八一)新府築城に着手、九月には落成し、十一月から十二月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正十年(一五八二)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康とともに北上、さらに信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元を離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎたところ小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出たときには五~六〇〇人ほどいたとされる従者は、このときには四~五〇人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。三月十一日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼三十七歳、北条夫人十九歳、嫡男信勝十六歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職拈橋(ねんきょう)の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正十六年(一五八八)に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裡・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることとなった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維時 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(一七七五)三月十一日に、当時の第十一世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成十八年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、十二月に工事着手したが、その最中基壇内部から五千点を越える経石が出土した。
そのため甲州市では、平成十九・二十年度に出土した経石の整理と分析を、二十年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から四七一〇点、左右基壇から五四五点、その他としてニ〇点の、計五ニ七五点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経・首楞厳神呪(しゅりょうごんしんじゅ)など、複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は、右基壇から出土した「戒名文字史料」裏面に「安永九年」(一七八〇)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(一七七四)銘の経石が三点出土していることである。
また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永八年(一七七九)に執行されたことが明らかで、三月十五日から二十一日までの七日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結びつく直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌による墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後一二四年を経過した宝永三猿(一七〇六)、甲州城主柳澤吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文『峡中紀行』に戦没者の供養の様子が書かれている。
住持の僧余に語る。遺墳の所在を問えば、すなわち云う。(中略)既に七日を過ぎ、屍に血淋漓す。君臣わきまえず、すなわち同じく一壙に葬る。即ち今の廟の建つる処。故をもって別に窀穸の所なし。
「住持の僧が私に語る。遺墳(=墓)の所在を聞いたところ、こう答えた。(中略)すでに七日を過ぎ、したいには血が滴り落ちていた。主君も家臣も入り乱れており、そのため同じく一つの壙(=穴)に葬った。それは今の廟(=甲将殿)が建っているところである。そのため別に手厚く葬っているところはない。」
(文化庁・山梨県教育委員会・甲州市・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成22年)

勝頼公辞世
 おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ
  はれてゆくえの 西の山の端
北条夫人辞世
 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒
信勝公辞世
 あだに見よ 誰も嵐の さくら花
  咲き散るほどの 春の夜の夢

<参考資料> 四郎作古戦場の由来
150530_1218_天目山の戦い・四郎作古戦場(山梨県甲州市)
四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田家に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正三年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが、小宮山内膳はその折々軍のための率直な意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂にざん言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。
しかし天正十年三月十一日(一五八二年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は朱君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨のなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に仁を敷き寄せ来る的と奮戦数刻の末從容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈矯がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には、忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不忘君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。

この碑は内膳友晴の末裔一族と共に竜王町の小宮山清茂氏が資材を提供し敷地は地主の平山勝広氏の提供によるものである。
(大和村教育委員会設置の石碑より・昭和54年)

<参考資料> 鳥居畑古戦場
150530_1215_天目山の戦い・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)
鳥居畑古戦場
時、天正十年三月十日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦する事に決め、付き従ふ者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等四十三人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。
明くれば三月十一日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払晩、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千である。勝頼公は己の命運がつきたことを知ると、十六才の嫡子信勝を招き、新羅三郎以来武田家に相伝された小櫻韋威楯無の鎧を着せて擐甲の式を挙げた(現在景徳院内に有り)。
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退する事数度以て勝頼公をして從容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人北條氏、世子信勝公の生害せし処 現在景徳院内に有り
「山雲月を憂いて掩ふて夜色自ら惨め足たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(案内板より)





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