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130503_1511_岩村城跡(岐阜県恵那市)

岐阜県恵那市岩村町(地図)にある鎌倉時代初期に遠山景朝により築城された山城。
戦国時代は武田方の秋山信友、織田方の川尻秀隆、団忠正、森長可・忠政、田丸直昌が城主。江戸時代は、松平家乗、丹羽氏信、松平乗紀が入城し、以後明治維新まで大給松平氏の居城。日本三大山城。岐阜県指定史跡。
(写真:岩村城とその周辺の様子=5月3日撮影、640×480拡大可能)

女城主・おつやの方
戦国時代、岩村城は武田信玄の武将秋山信友に攻められますが、織田方の援軍によりこれを退けます。翌年、城主遠山景任が病没。織田信長の叔母にあたるおつやの方が景任に嫁いでいた縁で、信長は五男の勝長を遠山氏の養子としました。
元亀3年(1572)、信玄は再び秋山信友に命じ岩村城攻めを行います。しかし、城は落ちず、信友はおつやの方を夫人にすることを条件に開城させ、城は武田方に属することになりました。
信玄死後の天正3年(1575)、長篠の合戦で敗北した武田方の劣勢に乗じ、信長は岩村城奪還のため、長男の信忠を総大将に兵を送ります。五ヶ月間の攻防戦の末に城は落城。信友とおつやの方は長良川で磔にされました。

<管理人ひとこと>

130503_1504_岩村城絵図(岐阜県恵那市)
岩村城絵図
愛知県豊田市稲武から岐阜県恵那市に向かう国道257号線(中津川街道)沿い、新木の実トンネルの出口を過ぎたあたりにこの岩村城跡がありました。国道から急坂の小道を車で駆け上がると、やがて帯曲輪の平坦地。そのまま車を進めると、本丸直下の出丸に設けられた駐車場に到着します。見学するには幾つかルートがあるようですが、車で訪れるのであれば、本丸に近い出丸駐車場を利用するのが便利かもしれません。
立派な石垣を右に見ながら埋門(うずみもん)跡を抜け、本丸へ。享保3年に描かれた岩村城絵図をもとにした案内によれば、埋門には両側と奥の石垣の上に櫓が載せられ、クランクした通路には3カ所に門扉が設けられていたとのこと。また、門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていたということです。
本丸は広い公園のようになっていて、周囲には石垣が廻らされていました。案内によれば、本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が設けられていましたが、当時も施設はなく、広場になっていたようです。こうしたところが典型的な山城の趣きといったところかもしれません。

<参考HP>
・ 恵那市観光協会
  http://www.kankou-ena.jp/


岐阜県指定史跡 岩村城址 (5月3日)
130503_1505_岩村城跡(岐阜県恵那市) 130503_1507_岩村城跡(岐阜県恵那市)
本丸石垣下を歩き二の丸へ 埋門
130503_1506_岩村城跡(岐阜県恵那市) 130503_1512_岩村城跡(岐阜県恵那市)
本丸から東曲輪を望む 岩村城本丸跡


<参考資料> 岐阜県指定史跡 岩村城址
岩村城は別名霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜七一七メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(一五七三年)に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と二八年間に目まぐるしく交替した。
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原合戦後、姓郡に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主になった。江戸時代の城主は松平氏二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治六年(一八七三年)に取壊された。
(岐阜県教育委員会・岩村町教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 岩村城のあらまし
岩村町は木曽山脈のふところに抱かれた高原盆地にあります。岩村城は別名霧ヶ城と呼ばれ、峻険な地形を利用した要害堅固な山城で、海抜717メートルに位置し全国の山城の中で最も高地にあるのが岩村城である。現在も栄華と悲劇を秘めた石垣が残り、広大な岩村城の規模、形状を偲ぶことが出来ます。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の重臣「加藤景廉」が文治元年(一一八五)に遠山庄地頭に補されたのに始まる。岩村城は加藤景廉創築後、森、松平氏等によって修築拡張され、本丸・二の丸・出丸・帯曲輪・東曲輪・八幡曲輪等が設けられ要所に櫓・塀・城門が構えられました。岩村城は文治元年(一一八五)から慶応四年(一八六六)まで六八三年間、全期にわたって城が巌(現)存したことは日本の城史にも例を見ず、長い歴史にも名城たる理由があります。女城主と呼ばれた時代は城主・遠山景任(とおやまかげとう)が武田信玄の将秋山信友が侵入の時に、東美濃遠山一族と出陣、暮れに没した。その妻が織田信長の叔母で女城主とよばれています。





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