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111103_1029_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_0931_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
彦根城 天守 彦根城 天秤櫓
111103_1003_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_0959_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」
111103_1027_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
天守からの遠望
(正面左の小山が佐和山城)
111103_1022_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_1046_1_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市)
玄宮園周辺 人気のひこにゃん

滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、江戸時代初期の元和8年(1622)、井伊直継が築城した平山城( Wikipedia )。明治時代初期の廃城令による破却を免れた天守閣が現存。天主閣と附櫓、多聞櫓は国宝指定、天秤櫓・太鼓門櫓・佐和口多門櫓など5棟は国の重要文化財に指定されています。
(写真:彦根城とその周辺=平成23年11月3日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
名神自動車彦根ICから彦根城まではおよそ10分ほど。
佐和口多聞櫓から表門を通り、先ずは彦根城博物館前にある入場券販売コーナーへ。長浜城から移築されたという天秤櫓を右にみながらぐるりっと左に方向転換。廊下橋を渡り、天秤櫓へ。
天秤櫓では、特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」が行われていて、天下分け目の合戦として名高い関ヶ原の合戦に関わった武将たちの甲冑(レプリカ)を見学しました。
天秤櫓を抜けて更に坂を上ると太鼓門櫓、そして天主。彦根城の天守は、大津城から移築されたとも伝えられ、明治初期の廃城令を免れた国内に現存する4つの天守のひとつ。ただ、実戦のための城という位置づけは黒一色で板張りの壁の松本城(長野県松本市)と同じですが、最上階には外回り縁や高欄が設けられており、戦時期と安定期とが折衷した独特な趣きを見ることができました。
彦根城の見学はこの後、黒門や玄宮園を巡り、佐和口多門櫓へ戻るのが標準コースで、所要時間はおよそ90分。彦根市のキャラクター・ひこにゃんに遭遇する場合もありますので、家族連れのみなさんは、ある程度余裕をもった行動を。因みに管理人は、そのひこにゃんのユニークな姿にしっかり見入ってしまい、全てを巡ることなく、天守から再び天秤櫓を通り、佐和口多門櫓に戻りました。

<参考HP>
・ 彦根市ホームページ
  http://www.city.hikone.shiga.jp/
・ 彦根観光協会
  http://www.hikoneshi.com/jp/

<参考資料> 彦根城
この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてからの実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25キロ平方メートル(75,800余坪) 周囲約4km(1里) 高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。
(案内板から)

<参考資料> 関ヶ原の戦い
慶長3年(1598)、栄華を極めた太閤・豊臣秀吉が病により死去した。その最後の願いは老いてさずかった我が子・豊臣秀頼の行く末の安泰のみであった。だが、その晩年に起こした朝鮮の役は未だに集結を見ず、朝鮮半島に渡った日本軍を無事帰国させることが急務であった。石田三成は奉行として豊臣政権発足以前からすぐれた才覚を見せ、有能な官僚として政権内で重きをなしていた。だが、朝鮮での作戦指導をめぐり、現地で戦った加藤清正らいわゆる武断派の大名と軋轢が生じる。また、朝鮮の役での恩賞はなく、長年にわたる戦いに疲弊した大名たちは、その苦労に報いてくれる新たなリーダーを求め始めていた。
そのようななか、五大老筆頭であった徳川家康は、反三成で団結する豊臣恩顧の武将を糾合し、一大勢力を築き上げようとする。すなわち、加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興らと盛んに婚姻関係を結ぶなどして誼(よしみ)を通じ合った。これを黙って見逃す三成でなく、慶長4年(1599)、亡き太閤の遺言に違反したと家康を糾弾し、さらには家康を襲撃しようとしたが、逆に反三成派の武将たちから襲われそうになる、結局家康の仲裁で三成は無事を得たが、政治的には失脚し、近江(滋賀県)の居城・佐和山城に逼塞した。
三成はその後も家康打倒の機会をうかがい続けたが、慶長5年(1600)ついにそのときがやってきた。上杉景勝の謀反の疑いありとして徳川家康が会津攻めを発動したのである。越後(新潟県)から会津(福島県西部)に転封し、関東の徳川家康を北から牽制する役を負っていた景勝だが、領国内の無断築城や武器製造などで謀反の疑いがかけられた。しかし、そもそも謀反の疑いは家康側にあるとして完全に立ち向かったのが景勝の智将・直江兼続であり、有名な「直江状」を送りつけて家康を激怒させたとされる。関ヶ原の戦いは、その背景に、北に家康をおびき寄せ、その隙に西で石田三成が兵を挙げるという作戦があったとされる。事実がどうかは定かでないが、石田三成と直江兼続は仲が良かったと言われ、そのような申し合わせがあっても決して不思議ではない。
上方で石田三成ら西軍が挙兵したことを知った家康は、下野(栃木県)小山で評定を開き、三成討伐を決定。直ちに軍を反転させた。家康にとって政権を奪取する絶好な機会が訪れたが、不安がないわけではない。徳川軍に味方する大名は多くが豊臣恩顧の者であり、最後まで徳川軍と行動を共にする保証はない。事実、東軍の先鋒であった福島正則は、西軍が大坂城に豊臣秀頼を擁立したことを知ると大いに逡巡(しゅんじゅん)したが、黒田長政に説得され、東軍に留まった。
そして9月15日、美濃(岐阜県)関ヶ原で東軍と西軍が激突、天下分け目の大合戦となった。
本田忠勝とともに東軍の軍監を務めていた井伊直政は、初陣となる家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐して先鋒の福島正則を出し抜き、真っ先に兵を入れ、徳川軍団の面目を保った。午前8時頃に始まった戦いは、両軍とも一進一退、石田隊の島左近らの奮戦もあり、一時は西軍有利かと思われた。だが、家康がかねて仕組んだ調略が奏功。すでに家康に内応していた吉川広家は、南宮山に布陣する毛利本体をさえぎって戦いに参加させず、松尾山に陣取った小早川秀秋は旗幟(さし)を鮮明にしないなど、西軍は軍の統一を乱していた。午後1時頃、家康に督戦された小早川秀秋が東軍に寝返ったことが決定打となり、西軍は総崩れ。勝利はわずか1日で東軍のものとなった。
不本意ななりゆきで西軍に参加し、兵を動かさなかった島津義弘は、状勢が東軍勝利と決まった午後3時頃、突然、敵中突破による戦場脱出を試みた。義弘の甥・島津豊久が数多(あまた)の槍に貫かれて壮絶な討ち死にを遂げるなど苦戦しながら、追撃する井伊直政に銃創を負わせるなど、薩摩武士の意地を見せて戦いつづけ、義弘を戦場から脱出させることに成功した。世に「島津の退き口(のきぐち)」をして名高い。
また、関ヶ原の戦いは各地でも戦闘が行われた。代表的な例として、真田昌幸・幸村(本名は信繁)父子の戦いがある。父子は西軍として本拠地である信濃(長野県)上田城に籠城し、中山道を進む徳川秀忠率いる徳川本軍の西進を食い止め、合戦に間に合わせなくさせるという大功を挙げた。奥州(東北)の独眼竜・伊達政宗は、東軍側につき最上義光とともに上杉景勝と戦った(長谷堂城の戦い)。戦前、家康から東軍が勝ったあかつきには49万石の加増を約束されていたともいわれ、「百万石のお墨付き」と言われたが、結局は反故されてしまったという。
合戦ののち、西軍の総大将となっていた毛利輝元は自ら大坂城を退去して、家康の軍門に降り、石田三成は逃亡中を近江で捕らえられ小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都六条河原で斬首された。
(特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」案内板から)





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