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130814_1527_掛川城(静岡県掛川市)

130814_1531_掛川城(静岡県掛川市)
掛川城要図
静岡県掛川市にある掛川城(地図)は、当初は現在の掛川城より東へ500mほどのところに掛川古城として、室町時代に今川氏が朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて築城させ、その後、今川氏の勢力拡大に伴い、現在の場所に築かれました。
然しながら、桶狭間の戦い(1560)で今川義元が織田信長に倒されると、今川氏の勢力が衰え、子の今川氏真は永禄11年(1568)武田信玄に駿河を追われ、掛川城に落ち延びることになります。さらに、翌年、今度は徳川家康の攻撃を受け、和睦により開城。掛川城は徳川の勢力下に入り、武田氏に対する備えの城となりました。
天正18年(1590)、家康の関東移封により、掛川城は豊臣秀吉配下の山内一豊が入城。掛川城の整備に取り組み、現在の掛川城および城下の基礎を築きました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦により、山内一豊は土佐に移り、その後は譜代大名(10の大名家)を経て、太田道灌の子孫である太田氏の時代に明治維新を迎えました。
山内一豊時代の天守閣は慶長9年(1604)の地震で倒壊。元和7年(1621)に再建されましたが、安政元年(1854)の東海大地震により再び倒壊。現在の天守閣は、地元のみなさんの熱意と努力により平成6年(1994)、木造建築にて再建されました。
また、二の丸跡にある城郭御殿は、安政元年の東海大地震の後に藩主太田資功(おおたすけかつ)により再建されたもので、全国でも現存するものが4つしかない城郭御殿のひとつとして、昭和55年(1980)に国の重要文化財に指定されました。
(写真:掛川城天守閣=14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 掛川城と城下町・掛川の歩き方
  http://kakegawajyo.info07.net/
・ 掛川城 公益財団法人掛川市生涯学習振興公社
  http://www.k-kousya.or.jp/kakegawacastle/


日本で初めて木造天守閣を復元 掛川城 (8月14日)
130814_1517_掛川城(静岡県掛川市) 130814_1523_掛川城(静岡県掛川市)
大手門礎石根固め石 十露盤堀(そろばんぼり)
130814_1526_掛川城(静岡県掛川市) 130814_1538_掛川城(静岡県掛川市)
本丸跡から天守閣を望む 霧吹き井戸
130814_1533_掛川城・太鼓櫓(静岡県掛川市) 130814_1535_掛川城・二の丸御殿(静岡県掛川市)
太鼓櫓 二の丸御殿


<参考資料> 掛川城大手門礎石根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないように基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を縁系に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存ができないので、そのままの状態で取り上げました。

<参考資料> 掛川城大手門番所 (掛川市指定文化財)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(一九七八)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に位置した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(一九八〇)市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(一六四四~一六四七)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(一九九五)周辺の区画整理により、本来の位置から約五十メートル北に大手門を復元するkとにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移転・復元しました。 (掛川市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 三光稲荷御由来
三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手廐の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる十二月二一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、

ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)

と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといいわれこうした御利益から大手廐の構内にお祀りされました。 (案内板から)

<参考資料> 十露盤掘(そろばんぼり)
本丸を囲む重要な掘りです。十露盤掘という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。 (城内案内板から)

<参考資料>太鼓櫓(たいこやぐら)
正保城絵図(しょうほしろえず)では、荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓です。何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。 (城内案内板から)

<参考資料> 天守丸 霧吹き井戸
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天主閣を配置する独立した曲輪になりました。

永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。(井戸は1522年に井戸が掘られ、深さ45m、日本第3位の深さがあり、昭和35年まで使われていました)





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