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160211_0806_安国寺門前の古戦場(茅野市)

160211_0933_丸井伊藤商店・宮川街歩きマップから(茅野市)
諏訪侵略図
(茅野市・丸井伊藤商店案内板)
茅野市宮川にある安国寺( Wikipedia )は、南北朝時代、足利尊氏が全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立した寺院のひとつ。江戸時代中期の安永年間に移転し現在に至ります。その門前で、戦国時代、安国寺門前の古戦場(または宮川の戦い)とよばれる戦い(地図)が行われました。
天文11年(1542)7月、武田晴信(信玄)と高遠頼継( Wikipedia )連合軍の攻撃(参考:諏訪侵略図)を受けた諏訪惣領家の諏訪頼重( Wikipedia )は、降伏後に甲斐へ送られ、東光寺(山梨県甲府市)で自刃。諏訪惣領家の滅亡により、諏訪領は宮川を境に東が武田領、西は高遠領となります。しかし、諏訪惣領家の地位に拘る頼継は、同年9月、武田領に攻め込み諏訪を手中に入れようとします。頼継侵攻の知らせを受け出陣した武田軍との間で行われた戦闘が、この安国寺門前の戦い( Wikipedia )であり、激戦の末、頼継は敗走。諏訪領は武田家の統治下となりました。
頼継はその後も福与城の藤澤頼親や、小笠原長時の支援を受け、武田家への反抗を企てますが、天文14年(1545)4月、杖突峠を越え、高遠に押し寄せた武田軍を支えきれず城から逃走。後に武田家に従うことになりました。
(写真:安国寺門前の古戦場跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 泰平山 安国禅寺の由来
延元三年(一三三八)に天下を平定し、征夷大将軍となった足利尊氏は当寺の名僧夢窓国師の勧めに後醍醐天皇はじめ元弘以来の戦乱によって死傷した人々の菩提を弔い、あわせて足利幕府の威信を示し民心をつかむため京都に天龍寺を建立した。その後興国六年二月(一三四五)にいたり幕府は光厳上皇に奏請して全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立したのが安国寺である。信濃国の安国寺は、当時幕府の奉行人として活躍した諏訪円忠のはたらきによってこの地に建立された。古代から諏訪大明神の現人神として崇敬された大祝の居館の地である前宮に近く、千沢城下の門前には大町、小町が繁栄した中心地であった。然し度重なる宮川の氾濫と戦乱によってし大に衰微したが戦国時代にいたり諏訪を一時期支配した武田信玄の保護や諏訪氏中興の祖である諏訪満隣らの帰依によって寺は再建された。足利将軍家の御位牌十五体 諏訪家先祖一族の御位牌十八体、諏訪氏系図、天正の法度状、紺紙金泥の軸物などが納められており藩主代々の墓参と供養が行われた。江戸時代安永年中にいたり現在地に移転造立され、宗旨は臨済宗妙心寺派となり「こがい」といった部落もいつしか安国寺村と呼ばれるようになった。

諏訪郡百番霊場中十九番札所御詠歌
 泰平の御代ありがたき安国寺
 はこぶ歩みは後の世のため

(安国寺史友会設置の案内板から・平成3年)

<参考資料> 安国寺門前の古戦場
武田晴信(信玄)は天文十一年(一五四二)六月に諏訪を攻略し、妹むこの諏訪惣領家頼重を自刃させ滅亡させた後、宮川を境に東は武田が直轄とし、西は晴信とひそかに通じていた高遠頼継が領するところとなった。しかしあきたらない頼継は急に兵をあげて諏訪を一手におさめようとした。
晴信は直ちに五千の軍団を引きつれ、諏訪頼重の遺児虎王を擁して出動、九月二十五日に安国寺門前のこの辺一帯で両軍の大激戦があり、七百余人の戦死者を出して頼継は敗退したのである。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料> 皇大神宮社
江戸時代の諏訪藩主手元絵図には、この社は「鎮守」と記されている。安国寺村の産土神であったことをうかがわせ、祭神は天照大神である。一書によれば諏訪明神、秋葉神、妙義神、三宝荒神、金比羅神、北野天満宮、愛宕神、水劔神など諸神を合祀したとあるが、境内には御鍬社と天満宮の石祠があり、元禄十六年(一七〇三年)の石燈籠二基が現存している。明治二十六年に拝殿が建設され、例祭は九月十七日であった。十月一日の甘酒祭は村中を楽しませ、子供たちによる火祭の場所でもあったが、戦後しばらくして廃絶した。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和54年)

<参考資料> 掘り出された石造物
昭和五十二年十一月安国寺橋の架替工事に関連して道路の中から掘り出した石塔九体である。
いつの時代に埋められたものかさだかではないが宮川の大洪水でしばしば堤防が欠壊した個所で昔から江戸道へ通ずる幹線道路がとおり石垣の根石の中に積み込まれていたものである。古いのは元禄十六年の念佛庚申供養塔 また宝永四年の伊勢講供養塔 そして享保三猿や天明元年、文化三年、文政七年のものは女講十七人で建てられている。
(安国寺史友会設置の案内板から)





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