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長野市長沼の千曲川堤防道路下にある城跡(地図)。
平成21年2月10日付長野市民新聞記事によれば、長沼城の築城から廃城に至るまでを研究されている「長沼の歴史を学び隊」の皆さんが、長沼城のオリジナルイメージ図作成し、初めて一般向けに公開した記事が掲載されていました。
現在、城跡があったと思われる付近は田畑となっており、当時の名残をとどめるものがほとんどないのが現状。学び隊の皆さんの研究・調査により、今後、本丸や二の丸といった主要部分や、武田流の築城法として知られる三日月堀の存在が明らかとなり、地元の史跡として整備されることを期待したいと思います。 (写真=3月29日撮影)
<参考資料> 長沼城址
戦国期から江戸初期にかけての平城である。この地は天然の要害である千曲川、また北国街道(越後街道)に通じる渡河地点として、海津城につぐ北信濃の最重要拠点であった。
元は太田庄地籍の島津氏の居所であったが、戦国初期は長尾(上杉)方に属し、その後武田氏方により改めて築城されている(一五六八)。
天正六年(一五七八)武田勝頼が入城。武田氏滅亡(一五八二)後は、織田信長の将森長可、上杉影勝(原文まま)、旧主島津忠直と変わる。
元和元年(一六一五)、佐久間勝之が長沼藩一万八千石で入った。元禄元年(一六八八)、四代佐久間勝親の時に徐封されて、幕府領となり廃城した。現在地は天王宮が祀られたところで、城本丸はここより北二百米のところにあった。 (案内板から)
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