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111103_1438_大垣城(岐阜県大垣市)

岐阜県大垣市(地図)にある四層四階の天守をもつ平城( Wikipedia )。
慶長5年(1600)に起きた徳川家康と石田三成とが争った関ヶ原合戦では、西軍・石田三成の拠地として、東軍・徳川家康の動きに備えました。
合戦後の慶長6年(1601)、家康は譜代大名の石川康通を城主に任命。その後、石川(2代)・松平(2代)・岡部(2代)・松平(1代)氏を経て、寛永12年(1635)に摂津尼崎藩より戸田氏鉄( Wikipedia )が入り、以降、明治4年(1871)の廃藩置県まで、戸田氏が大垣の地を治めています。
(写真:大垣城天守・西門と戸田氏鉄公騎馬像=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
関ヶ原の合戦では西軍・石田三成の本拠地となり、東軍・徳川家康と対峙するなかで、合戦前日の9月14日、家康本陣が大垣城北西の赤坂(地図)に移動。西軍を率いる石田三成はその夜、大垣城を出て関ヶ原に向かいました。
籠城戦をせず、家康との戦いを関ヶ原に選んだ三成の行動は諸説あるところですが、これに類似する事例がかつてありました。それは、甲斐の武田信玄が浜松城に攻め込まず、素通りしたことに激昂した若かりし家康が、信玄の罠にハマり城からおびき出されて大敗した、あの三方ヶ原の戦い( Wikipedia )です。
三成の性格をよく知る家康は、大垣城への総攻撃は行わずそのまま西に進めば、きっと三成は動くと考えたのでしょう。家康の巧妙な罠にハマった三成は、翌15日、関ヶ原で打ち破られることになります。

<参考HP>
・ 大垣・西美濃ポータルサイト
  http://www.ogakikanko.jp/
・ 今日は何の日?徒然日記 (羽柴茶々さん)
  http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/

<参考資料> 大垣城由来
111103_1425_大垣城(岐阜県大垣市)  
大垣城案内図
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び当時の城主は大井庄のうち石包名(いしかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後、天文四年宮川安定が城郭を築き、永禄二年大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年(一五八五)九月豊臣秀吉が一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年(一九三六)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年の戦災( Wikipedia )で惜しくも焼失しました。その後、お城再建の機運が高まり、昭和三十三年五月着工、翌三十四年四月、昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
なお江戸時代の城主は下記のとおりです。

石川康通  慶長六年二月~慶長十二年七月
石川家成  慶長十二年七月~慶長十四年十月
石川忠總  慶長十四年十二月~元和二年九月
松平忠良  元和二年九月~寛永元年五月
松平憲良  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部長盛  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部宣勝  寛永九年十一月~寛永十年三月
松平定綱  寛永十年三月~寛永十二年七月
戸田氏鉄  寛永十二年七月~慶安四年十一月
戸田氏信  慶安四年十一月~寛文十一年七月
戸田氏西  寛文十一年七月~貞享元年八月
戸田氏定  貞享元年八月~享保八年四月
戸田氏長  享保八年四月~享保二十年八月
戸田氏英  享保二十年九月~明和五年四月
戸田氏教  明和五年六月~文化三年四月
戸田氏庸  文化三年六月~天保十二年五月
戸田氏正  天保十二年五月~安政三年十月
戸田氏彬  安政三年十月~慶応元年八月
戸田氏共  慶応元年八月~明治二年六月

<参考資料> 明治29年(1896)7月・9月の風水害
111103_1424_大垣城(岐阜県大垣市)
大洪水の碑
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。
この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378ミリとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。
この大垣城石垣の刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投じて建てたのが、この洪水碑である。

<参考資料> おあむの松
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日東軍から矢文が届き「玄暦は家康様御手習師匠であったので逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母らと西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸無事に逃れた、そののちその松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
(以上、案内板から)





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