管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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愛知県岡崎市康生町(地図)にある3層5階(復元前は3層3階)の天守と井戸櫓・附櫓からなる平城( Wikipedia )。岡崎市指定史跡。
<管理人ひとこと>
岡崎城といえば、誰もが思い浮かべるのが徳川家康( Wikipedia )出生の地ということ。整備された城址公園には、「東照公産湯の井戸」や「えな塚」など、家康出生にかかわる旧跡が残り、あの250余年も続く江戸幕府を築いた人物はここで生まれたのか…と感慨に耽る人たちも多いようです。
家康は天文11年(1542)12月、岡崎城内で誕生。しかし、世は戦乱続く戦国時代。西の織田氏と東の今川氏が互いに勢力を拡大するなか、その狭間にある岡崎も標的とされ、家康は6歳で織田氏へ、8歳で今川氏の人質とならざるをえませんでした。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、状況は一変。岡崎に戻った家康は、元亀元年(1570)に浜松城へ拠点を移すまで、この岡崎城から各地を転戦。徳川家ゆかりの武将(大名)の多くがこの三河から輩出する由縁にもなっています。
天守から望む岡崎の町並みは、庶民の日常生活がすぐ手にとれるほど近い距離にありました。矢作川や菅生川に挟まれた地形にも理由があるのかもしれませんが、そうした河川の氾濫から町並みを守るため、惣掘の土塁内にコンパクトに町並みが収める必要があったこともその理由なのかもしれません。
最上階の床には「17世紀本多時代の岡崎城図」(原資料 西尾市岩淵文庫蔵)が、東西南北の方向に合わせて貼られています。ぜひ、現在の町並みとの比較をされることをおススメします。
<参考HP>
・ 岡崎市ホームページ
http://www.city.okazaki.aichi.jp/
・ 岡崎市観光協会
http://okazaki-kanko.jp/
・ 岡崎公園
http://okazakipark.com/
徳川家康出生の地 岡崎城 (平成23年11月23日) |
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岡崎公園案内板 | 解体前の天守 |
本多時代の岡崎城図 | 天守から望む岡崎市内 |
内堀と巽閣 | 舟着き場跡 |
<参考資料> 岡崎城
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清隆が入城し本格的な岡崎城を構えた。
1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した、江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本田氏(康重系統/前本田)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。
岡崎城の歴史
1452~1455年(享徳元~康正元年)
西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)、竜頭山に築城。
1531~32年(享禄4~5年)
安城松平4代清隆、竜頭山の岡崎城へ移る。
1542年(天文11年)12月26日
徳川家康、岡崎城内で誕生する。
1590~1600年(天正18~慶長5年)
岡崎城主田中吉政、城と城下町を大改造、天主閣・惣構えの堀を築く。
※1602年(慶長6年)
岡崎藩( Wikipedia )立藩
1617年(元和3年)
櫓をもつ複合天守閣に再建。
1871年(明治4年)
廃藩置県、額田県成立し旧城内に県庁設置。
城址は県有地。
1873~74年(明治6~7年)
城郭取り壊し、天主閣解体、礎石のみ残る。
武家屋敷払い下げ。
1875年(明治8年)
旧本丸・二の丸、城址公園となる。
1959年(昭和34年)
岡崎城天守復元。
1962年(昭和37年)
岡崎城跡約96,700平方メートルを岡崎市史跡に指定。
1982年(昭和57年)
旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。
(案内板から)
<参考資料> 写された岡崎城
天守は城の中心となる建物で、物見櫓が発展したもの、城主の権威を象徴する建築物である。岡崎城の天守は、田中吉政が城主の時代に創建され、その後の地震等で倒壊したと考えられている。1617年(元和3)本多康紀が城主の時、3層3階、地下1階で東に井戸櫓、南に付櫓を附属した複合天守で再建されたものであったが、維新後の1873年(明治6)に廃城令が出され、翌7年にかけて取り壊された。1875年には本丸・二の丸部分が城址公園となり、後の1962年(昭和37)に公園の部分が市の史跡に指定され現在に至る。
再建の気運は1955年頃より市民の間から生じ、折しも日本各地で天主閣復興の気運が盛り上がり、近くでは岐阜城が56年に再建され、名古屋城の再建計画の話も伝わり、市のシンボル・観光の拠点として再建が多くの市民から望まれその道を歩みはじめた。当時5,700万円の総工費のうち、1,800万円が県費補助金、1,200万円は寄附金で賄われた。天主に飾られた鯱は青銅製で高さ1m36cm、重さ190kg、角のあるオスは南側、メスは北側にすえられた。
(城内案内板:「復元大系 日本の城4」ぎょうせい刊、「新編 岡崎市史 5現代」岡崎市刊から)
<参考資料> 東照公遺訓碑由来
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢次郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和十八年三月九十八歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に至った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和十一年四月十六日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年(※昭和六十一年)は、遺訓碑が建立されて五十年、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
(案内板から)
<参考資料> 昔の舟着き場
昔は帆掛け舟が荷物をたくさん積んで菅生川(乙川)を上り下りした。
ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場である。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。
(案内板から)
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