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<<< 奥三河・足助の旅~設楽原の合戦と長篠城址(壱)

120320_1114_長篠城址・長篠合戦図屏風(愛知県新城市)

<行程>
伊那市・駒ヶ根市→(国道153号線)→上伊那郡中川村大草→(国道153号線)→飯田市・下伊那郡下條村→(国道151号線)→下伊那郡阿南町富草→(県道)→下伊那郡天龍村→(国道418号線)→下伊那郡阿南町新野→(国道151号線)→県境→愛知県・北設楽郡豊根村・東栄町→新城市(長篠城址・設楽原古戦場)→(県道21号線・国道257号線)→愛知県北設楽郡設楽町→愛知県豊田市(道の駅どんぐりの里いなぶ)→(国道257号線)→愛知県恵那市→(国道19号線)→中央自動車道中津川IC→中央自動車道伊那IC→伊那市

設楽原古戦場跡 (地図
設楽原(長篠)の合戦は、天正3年(1575)5月21日早朝、織田・徳川連合軍から仕掛けました。前夜、徳川軍の酒井忠次(吉田城主=愛知県豊川市)が率いる東三河の軍勢が大雨の中を豊川を渡り、舟着山の裏に廻り込んで、夜明けとともに、長篠城南で監視をしていた武田軍の5つの砦を強襲したのでした。
久間山・中山・鳶が巣山(とびがすやま)・姥が懐(うばがふところ)・君が伏床(きみがふしど)の5つの砦では、織田・徳川連合軍の別働隊の攻撃に対して奮戦しますが、信玄の弟である武田兵庫頭信実(ひょうごのかみのぶざね)以下名立たる武将が戦死します。
国道151号線を長篠城址から愛知県豊川市方面に5キロほど走った設楽原(長篠)で、織田・徳川軍と対峙していた武田勝頼は、この酒井忠次による強襲に驚き、全軍に戦闘を指令。勇猛果敢な騎馬軍団が敵陣への突入を試みます。しかし、斜面を駆け上がると行方を遮るように立ちはだかったのが空堀と馬防柵、そして築かれた土塁の向こうに銃を構える連合軍の将兵たちでした。
馬防柵とは、武田軍の騎馬軍団から鉄砲隊を守るために構築されたもの。「長篠合戦図屏風」でも、連吾川沿いにこの馬防柵が築かれ、その内側に鉄砲を手に狙いを定めている足軽の姿が描かれています。現地の案内によれば、馬防柵も柵をただ並べたものではなく、武田軍の猛攻に耐えるため、空堀を堀り、次に柵を設け、更に土塁を築いて足軽たちが狙いを定めて鉄砲を撃つ、という構成になっていたようです。空堀は馬でも飛び越えることができるかもしれませんが、その先に柵があっては突入することは困難。躊躇しているところを狙い撃ちされたのでしょう。
総崩れとなった武田軍は、山県昌景・土屋正次などが戦場で討死。僅かな将兵で敗走する勝頼を見送った馬場信房も、殿(しんがり)を務めた後、愛知県新城市出沢で討ち取られました。

日本の合戦史上において、近代戦への転機にもなった設楽原(長篠)合戦。
織田・徳川連合軍による鉄砲掃射に壊滅的な状況に追い込まれるまで、戦わざるを得なかった武田軍の意図するところはどこにあったのか、現場を訪れもっとも疑問に感じるものとなりました。
(写真:「長篠合戦図屏風」=20日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 愛知県新城市ホームページ (新城市設楽原歴史資料館へようこそ)
  http://www.city.shinshiro.lg.jp/
・ 仏法僧のふるさと 鳳来
  http://www.hourai-f.com/


織田・徳川連合軍と武田軍決戦地・設楽原古戦場跡 (3月20日)
120320_1250_設楽原古戦場(愛知県新城市) 120320_1257_設楽原古戦場(愛知県新城市)
両軍の決戦場・連吾川 復元された馬防柵
120320_1256_設楽原古戦場(愛知県新城市) 120320_1304_設楽原古戦場(愛知県新城市)
武田方の土屋正次戦死地 武田方の甘利信康墓


<参考資料> 馬防柵
天正三年(一五七五)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長二粁余に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利阻む痛恨のしがらみとなったのである。 (設楽原をまもる会が建てた案内板から)

道の駅どんぐりの里いなぶ
120320_1455_道の駅どんぐりの里いなべ(愛知県豊田市)
自然薯定食
時間があれば豊川市まで訪ねてみるつもりでしたが、慣れない道中、あまり無理してもいけないかなと思い、設楽原古戦場から反転。県道21号線・国道257号線経由で愛知県豊田市にある道の駅どんぐりの里いなぶへと向かいました。稲武に向かった理由は、その先で時間的に余裕がなければ国道153号線を北上し、下伊那郡根羽村・平谷村・阿智村経由で飯田市まで戻れることもありましたが、それよりもなによりも、この地方の特産であるという自然薯(じねんじょ)を使った料理が味わえると聞いていたからでした。
途中、設楽原の合戦で殿を務めた馬場信房が討たれたという地(愛知県新城市出沢)の前を通り、国道257号線の延々と続く山間の道を進むこと約1時間。ようやく道の駅に到着したのは午後2時のことでした。
ひさしぶりの、しかも晴天の休日ということもあって、この日の道の駅は大賑わい。国道257号線と153号線とが交差する位置にあること、また「どんぐりの湯」とよばれる日帰り温泉施設が近くにあり、家族連れが気軽に山間のいで湯を楽しむことができることなどが賑わう理由になっていたのかもしれません。
そうしたほぼ満車という状況の駐車場にどうにか車を停め、早速、道の駅内にある食堂へ。話題の自然薯を使ったメニューはあるかいな?と並んだメニューを見てみると…、ありました、自然薯付ランチメニュー(自然薯定食)が。お米にこだわりがあるという稲武のごはんと自然薯、末広うどん、そしてお味噌汁が付いてお値段は850円。慣れない方はお口のまわりが少しカイカイするかもしれませんが、ぜひこれをおススメしておきます

<参考HP>
・道の駅どんぐりの里いなぶ
 http://www.dongurinosato.com/

稲武から恵那市、そして伊那市の仮住まいへ
お腹パンパンになった管理人ひろさく。このまま飯田市へ北上してもよかったのですが、エネルギーを蓄え元気もでてきたので、時間が許す限り動き回ってみようということで、このまま国道257号線を進み、岐阜県恵那市へ向かいました。
しかし、恵那市から中津川市にかけての国道19号線で、現在拡幅工事が行われており、それによる渋滞に巻き込まれてしまい、描いていた岐阜県恵那市→(国道19号線)→中津川市→長野県木曽郡南木曽町→木曽町→権兵衛峠→伊那市というルートを変更。中央道中津川ICから恵那山トンネル経由で伊那ICへ向かうこととなり、この日の旅は終わりました。伊那市内の仮住まいに到着したのは午後6時。翌日に疲れが残らなかったことを考えると、このルートでの帰宅でよかったのかなぁと思っています。


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<<< 奥三河・足助の旅~設楽原の合戦と長篠城址(弐)

120320_1134_長篠城址(愛知県新城市)

20日の休日を利用して、愛知県新城市にある設楽原の古戦場と長篠城址(地図)を訪ねました。
設楽原(長篠)の合戦は、天正3年(1575)、織田・徳川連合軍の鉄砲隊と、甲州騎馬軍団で編成された武田軍が戦った合戦。鉄砲隊による3000ともいわれる火縄銃の三段撃ちで、連吾川を渡り、突入してくる騎馬隊を抑え込んだこの戦術は、これまでの戦いの方法を一変させたことで知られています。
また、長篠城はその設楽原の合戦において前哨戦が行われた場所で、豊川と宇連川が合流する断崖上に設けられたこの城に、武田軍1万5000が攻撃。城主・奥平貞昌以下城兵500が籠り、武田軍の猛攻に耐えますが、やがて食糧が尽き、落城寸前にまで追い込まれてしまいます。
そうした状況のなかで、城主から命を受けた鳥居強右衛門が闇夜に乗じて川を潜り、50キロ離れた岡崎へ援軍の要請に走ります。命を賭けて駆け付けた強右衛門の情報に、信長は長篠城救援を約束。知らせを伝えるために城に戻る強右衛門でしたが、城下近くで武田軍により捕縛。城兵に対して「救援は来ない」と叫ぶよう指示されますが、強右衛門はこれに逆らい「救援は来る」と叫び、磔により命を落とします。しかし、この強右衛門の行動により、城兵は奮起。織田・徳川連合軍が到着するまで、城を守り抜いたのでした。

<行程>
伊那市・駒ヶ根市→(国道153号線)→上伊那郡中川村大草→(国道153号線)→飯田市・下伊那郡下條村→(国道151号線)→下伊那郡阿南町富草→(県道)→下伊那郡天龍村→(国道418号線)→下伊那郡阿南町新野→(国道151号線)→県境→愛知県・北設楽郡豊根村・東栄町→新城市(長篠城址・設楽原古戦場)→(県道21号線・国道257号線)→愛知県北設楽郡設楽町→愛知県豊田市(道の駅どんぐりの里)→(国道257号線)→愛知県恵那市→(国道19号線)→中央自動車道中津川IC→中央自動車道伊那IC→伊那市


120320_0854_道の駅信州千石平(阿南町)
国道151号線通行止め
120320_0956_新野峠(阿南町)
長野県と愛知県との県境にある新野峠
120320_1011_道の駅豊根グリーンポート宮嶋(愛知県豊根村)
道の駅豊根グリーンポート宮嶋
この日、伊那市にある管理人の仮住まいを出発したのは午前6時。途中、上伊那郡中川村や下伊那郡天龍村などに寄り道し、午前9時頃、県境に近い下伊那郡阿南町新野の道の駅信州千石平に到着しました。
中川村を訪ねたのは、この日の中央アルプスがとても綺麗で、天竜川越しに山並みを撮影してみたい、と思ったため。天龍村については、阿南町の国道151号線で土砂災害があり通行止めになっていたことがその理由。伊那市からまっすぐ走れば、もう少し早く新野の道の駅に到着していたかもしれません。
長野・愛知県境にある新野峠を越えると、愛知県側の国道は下るだけ。途中にある道の駅豊根グリーンポート宮嶋では、道の駅ギャラリーに並ぶ土人形たちを見学。案内によれば、土人形は江戸時代中期に京都の伏見(一般的に京都伏見系と呼ばれるもの)で作られ、伏見稲荷に参拝した人たちの土産として全国に広がったのが始まり。江戸時代後期(幕末)頃には、愛知県の尾張・三河地方でも盛んに土人形が作られるようになり、一般的に愛知三河系と呼ばれる土人形の流れは、長野県中野市にも伝わりました。岐阜県東濃地方では、明治中頃に三河の職人・杉浦伊助が訪れ、地元の自工で土人形を作ったものが広がり、やがて農家の副業として数々の土人形が作られるようになったそうです。
可愛らしい土人形を見学した後は、右に左に急カーブ連続の坂道を下り、JR飯田線東栄駅へ。ここで県道と合流し、やや平坦となった国道をJR線沿いに走ること約1時間で、目指す長篠城址(愛知県新城市)にようやく到着したでした。

120320_1124_長篠城址・案内図(愛知県新城市)
長篠城址・案内図
国指定史跡の長篠城址に残されている建設当時の遺構は、本丸を巡る土居と堀のみ。背後に豊川(寒狭川)と宇連川が合流する地点に築城されたこの城の備えは、本丸を中心とした北東から北西にかけて扇状に広がる方向に対するもので、二の丸や巴城(はじょう)郭についても、本丸同様にこれらの方面に対して土居や堀が設けられていたようです。
実際の戦闘では、長篠城を囲む武田軍は鳥居強右衛門が岡崎へ救援に走る頃には巴城郭まで占拠しており、追い詰められた城兵は本丸と二の丸で防戦に努めていたようです。本丸の土居の上に立ち、周囲を見渡してみると、二の丸(見学者駐車場)は、本丸と堀で隔てているとはいえ、話す声が聞こえてしまうほどの至近距離。その先の巴城郭に至っては、まさに目と鼻の先といった状況で、織田・徳川連合軍の到着が少しでも遅れれば、落城…といった、まさに危機的状況であったことが想像できます。
長篠城は、設楽原の到着した織田・徳川連合軍の勝利により、5月21日に包囲していた武田軍から解放され落城の危機を脱します。
城兵の奮闘により城を守り抜いたこの戦いは、戦国六大籠城戦(長篠城・月山富田城・三木城・賎ヶ岳要塞・上田城・大坂城)のひとつに数えられています。
(写真:国指定史跡長篠城址本丸=3月20日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 愛知県新城市ホームページ (長篠城址史跡保存館へようこそ)
  http://www.city.shinshiro.lg.jp/


国指定史跡長篠城址 (クリックで拡大)
120320_1126_長篠城址(愛知県新城市)
長篠城本丸土居から(左本丸・堀を挟んで右が二の丸跡)
120320_1139_長篠城址(愛知県新城市)
長篠城本丸


<参考資料> 国指定史跡 長篠城址
長篠の戦い
天正三年(一五七五)五月、武田勝頼軍一万五千が、徳川家康の将奥平貞昌以下五百が守るjこの長篠城を包囲して攻防約十日、織田信長三万、家康八千の援軍は、五月十八日西方四キロの設楽原に到着して陣を築く。武田軍は二十日長篠城の囲みを解いて設楽原に進出、二十一日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千艇の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失なった。勝頼は数騎に守られ敗走した。

長篠城
・豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭・瓢郭・弾正郭等、総面積約一〇ヘクタール。
・本丸の土塁と堀の一部を残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
・永正五年(一五〇八)今川氏の将・菅沼元成築城。
・天正三年(一五七五)十一月徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し城郭整備。五月、武田勝頼の猛攻に耐える。

長篠城址史跡保存館
・現地に残された武具や出土品参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
・奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
・鳥居強右衛門磔死の図(落合佐平次指物写)
・火縄銃(三ー三〇匁)各種、弾丸、用具其の他
・長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
・具足・武具、其の他
(案内板より)

<参考資料> 磔に散る 烈士 鳥居強右衛門
五月十四日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食糧はあと四、五日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜けた。梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること四キロ。
十五日朝かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。(長篠ー岡崎は50キロ)岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。使命を果たして、休養をすすめられたが、彼はすぐに引き返した。
十六日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙三発。そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけ残る)しかし「援軍はくる。この眼で見てきた、あと二、三日、堅固に守れ」とさけんだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時三十六才
十八日、織田、徳川三万八千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。
(案内板より)


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