[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
浜松城復興天守 | 鎧掛松 |
整備工事完了後の浜松城 | 浜松城要図 |
徳川家康が元亀元年(1570)に、武田信玄の侵攻に備えて築いたのが浜松城(地図)。最も高いところに天主曲輪、その東に順に本丸・二の丸(浜松市立元城小学校と浜松市役所・中区区役所)・三の丸がほぼ一直線に並ぶ「梯郭式」の築城法を採用して築かれました。家康以降は、幕府の重鎮ともいえる譜代大名が城主を務め、25代目の井上氏の代に明治維新を迎えました。
(写真:復元された浜松城天守閣=14日午後撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
浜松城公園を利用するには、浜松市役所・中区区役所の駐車場を利用します(無料)。現在、浜松城公園では、「浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画」に基づき、天主門整備工事が行われているため、天主閣へは、二の丸から西へ歩道を歩き、清水曲輪・西端城曲輪から少し坂を上がって、天主曲輪に至るルートを利用します。
工事は、平成24年10月から2年の計画とのことですが、天主門が完成すれば、、もう少し短い距離で天主閣を訪ねることができるようになりそうです。
<参考HP>
・ はままつ観光ナビ 浜松城
http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/
<参考資料> 浜松城二の丸跡
「二の丸」は「本丸」の東側に位置し土地も一段低く、広さがおよそ四九五〇平方メートル(約一五〇〇坪)で城主の居館がありました。また、政庁も設けられて江戸時代を通して藩政の中心でした。
「二の丸」の主な建物は「表御殿」と「奥御殿」からなっていて、「表御殿」には藩の行政機関が置かれ、およそ一六五〇平方メートル(約五〇〇坪)ありました。唐破風の玄関の奥に広間と使者の間、正面奥に近習・年寄詰め所・祐筆所(ゆうひつじょ)と並び、その左側に藩主が執政に使う上段の間と書院、右側には御用所・勘定所・勝手などの部屋がありました。
「奥御殿」はおよそ三三〇平方メートル(約一〇〇坪)で、左側が藩主の居間。右側が湯殿、小姓詰め所など計一五の部屋がありました。両御殿とも、生活と執務に便利のように細かく部屋割りがされていました。
また、二の丸の北の広場には米蔵があって、御城米蔵(ごじょうまいぐら)とか八千蔵(やちぐら)と呼ばれていました。西側には、二代将軍徳川秀忠の誕生屋敷跡ということで、享保元年(一七一六年)の絵図には誕生の松が描かれています。
現在、二の丸跡地は浜松市役所・浜松市立元城(もとしろ)小学校の一部になっています。 (案内板から)
<参考資料> 鎧掛松
元亀三年(一五七二)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和五十六年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の掘りのそばにあった。
また、当時鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬のからだを冷やしたところは、馬冷(うまひやし)と言って、その地名が今も松城町内に残っている。
(浜松市が建てた案内板から)
<参考資料> 浜松城跡
浜松城は徳川家康は遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、十七年間在城した。東西六百メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここはその天守曲輪跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄<不明>した人が多い。中でも水の越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。
<参考資料>八幡台
ここは天守台の北西にあたり、五段の市が気により天守台より高い。面積はおよそ四十㎡(十二坪)あり、浜松城のなかで最も高い所(四十一.九m)である。
城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。
八幡大菩薩は武士の守り神として信仰された。
<参考資料> 井戸
この井戸は、銀明水(ぎんめいすい)と呼ばれていたという。
浜松城には、天主台に一つ、天主曲輪の埋門(うずめもん)のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左(さくざ)曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。
天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天主閣の地下室にある。
直径一.三m、深さは現在一mほどになっており水はない。
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
愛知県新城市下吉田の国道257号線沿いにある道の駅・鳳来三河三石(地図)。
この道の駅の裏手にあるのが曹洞宗青龍山満光寺。
道の駅に、駅の名称にもなっている「三石」について、満光寺に伝わる逸話が紹介されていました。
武田軍に追われた徳川家康が満光寺に宿泊し住職に翌朝一番鶏が鳴いたら起こしてくれるよう頼みました。その日に限っていつもより早く一番鶏が鳴きましたが住職は約束どおり家康一行を起こし、家康たちは出立しました。
直後に武田軍が到着。家康は一瞬の差で助かりその礼として満光寺の鶏に三石の扶持を与えたということです。
山の吉田の 満光寺様の
鶏(とり)になりたや鶏(にわとり)に
元亀2年(1571)に武田信玄が三河へ侵攻し、新城市の野田城(地図)や豊橋市の吉田城(地図)攻めを行っており、その際に若い家康が果敢に信玄に挑戦したものの、敗れて落ちのびた…と考えられます。この逸話もこうしたできごとから、代々と伝えられてきたものなのかもしれませんね。
あ、くるみたれ付の五平もち、食べ損ねた…。
(写真:道の駅鳳来三河三石にある案内=14日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 三河の山里だより
http://yamazato.aichi-kouryu.jp/
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
城址から望む武節町の風景
|
愛知県豊田市武節(ぶせつ)町の国道153号線沿いにある戦国時代の城跡(地図)。
室町時代の永正年間に田峯(愛知県北設楽郡設楽町)城主菅沼定信によって築城。
天正3年(1575)の長篠合戦で敗れた武田勝頼が甲州へ落ち延びる際、この城で休息を取ったと伝えられています。
(写真:城跡から望む武節町の風景=14日午前撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
道の駅どんぐりの里いなぶは、愛知県から信州に向かう国道153号線沿いに立地し、多くのドライバーが立ち寄ることから、行楽シーズンともなると大変な賑わいになります。このため駐車場の確保がままならず、残念ながら素通りしてしまうことが多いのですが、幸いにも今回は時間帯も早めに到着できたため、武節城址まで足を延ばすことができました。
城址は道の駅から歩いて10分程度。少し急坂な車道をとことこ歩いて本丸へ。かつては物見台や狼煙台があったと伝えられる八幡神社まで歩き、帰りはお墓の横を抜ける遊歩道をのんびり下って道の駅に戻りました。
<参考HP>
・ どんぐりの里いなぶ
http://www.dongurinosato.com/
武田勝頼ゆかりの武節城址 (8月14日) | |
本丸に続く車道入口 | 入口にある湧水 |
武節城址本丸跡 | 八幡神社(物見台・狼煙台跡) |
八幡神社から望む本丸跡 | 武器や兵糧を補完した蔵屋敷跡 |
<参考資料> 武節城址
この城は、名倉川を臨む断崖上にあり、段戸山系に続く尾根の先端を掘切って男山とし、これに主たる郭4従たる小郭10数箇所を配した群内では有数の平山城であります。麓には、問屋。古町屋(市場)、姫井戸など当時からの地名が残っています。
一名地伏城とも呼ばれるこの城は、永正年間に田峯城主菅沼定信の支城として築かれ、菅沼十郎などの城代が遣わされました。
弘治2年(注:1556年)、下條信氏の侵略をうけて激戦がありました。また、元亀2年、武田信玄の三河侵入のときには、本城である田峯とともに戦わずして軍門に降りました。天正3年、長篠で大敗した武田勝頼は、この城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。越えて7月、酒井忠次の攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。
(稲武町教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 武節城
永正年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、天正十八年(一五九〇)最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となった。その間約一〇〇年にわたって存在した城である。
信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが武田、徳川にとってたいへん気になる存在の城であった。
いまも城跡は二の丸、三の丸と階段状に下がり、本丸の上にはかつての物見台や狼煙台の跡に八幡神社がある。周囲には十数カ所の曲輪の跡があり、五百年前の空堀が当時の名残をとどめている。
武節谷合戦
弘治二年(一五五六)十一月、信州の下條信氏に攻められ激しい合戦の末落城した。城下には姫が身を投げたという「姫井戸」の伝説がある。
武田の大軍が城下を通過
元亀二年(一五七一)四月、武田信玄が本格的な三河侵攻を開始、二万五千の大軍を率いて飯田から南下し、杣路峠(注:そまじとうげ)を越えて城下に迫り、武節城は戦わずして武田の軍門に降った。信玄はさらに足助城を落とし、下山から作手へ登り亀山城を落とし、新城に降り野田城を攻め、吉田城を脅かして甲州へ帰った。
徳川信康の初陣
天正元年(一五七三)三月、徳川家康の長男信康が十四才の初陣に武節城を攻めた。そのときの模様は山岡荘八の小説「徳川家康」の中に詳しく書かれている。
武田勝頼武節城に泊まる
天正三年(一五七五)五月二十一日、長篠合戦に敗れた武田勝頼は、田峯城主菅沼定忠に伴われて敗走、田峯城に入ろうとしたが家臣の反逆にあって果たせず、やむなく段戸山を越えて武節城にたどり着き、一泊して自分の支配地である信州へ逃れた。
(案内板から)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
岐阜県恵那市岩村町(地図)にある鎌倉時代初期に遠山景朝により築城された山城。
戦国時代は武田方の秋山信友、織田方の川尻秀隆、団忠正、森長可・忠政、田丸直昌が城主。江戸時代は、松平家乗、丹羽氏信、松平乗紀が入城し、以後明治維新まで大給松平氏の居城。日本三大山城。岐阜県指定史跡。
(写真:岩村城とその周辺の様子=5月3日撮影、640×480拡大可能)
女城主・おつやの方
戦国時代、岩村城は武田信玄の武将秋山信友に攻められますが、織田方の援軍によりこれを退けます。翌年、城主遠山景任が病没。織田信長の叔母にあたるおつやの方が景任に嫁いでいた縁で、信長は五男の勝長を遠山氏の養子としました。
元亀3年(1572)、信玄は再び秋山信友に命じ岩村城攻めを行います。しかし、城は落ちず、信友はおつやの方を夫人にすることを条件に開城させ、城は武田方に属することになりました。
信玄死後の天正3年(1575)、長篠の合戦で敗北した武田方の劣勢に乗じ、信長は岩村城奪還のため、長男の信忠を総大将に兵を送ります。五ヶ月間の攻防戦の末に城は落城。信友とおつやの方は長良川で磔にされました。
<管理人ひとこと>
岩村城絵図 |
立派な石垣を右に見ながら埋門(うずみもん)跡を抜け、本丸へ。享保3年に描かれた岩村城絵図をもとにした案内によれば、埋門には両側と奥の石垣の上に櫓が載せられ、クランクした通路には3カ所に門扉が設けられていたとのこと。また、門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていたということです。
本丸は広い公園のようになっていて、周囲には石垣が廻らされていました。案内によれば、本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が設けられていましたが、当時も施設はなく、広場になっていたようです。こうしたところが典型的な山城の趣きといったところかもしれません。
<参考HP>
・ 恵那市観光協会
http://www.kankou-ena.jp/
岐阜県指定史跡 岩村城址 (5月3日) | |
本丸石垣下を歩き二の丸へ | 埋門 |
本丸から東曲輪を望む | 岩村城本丸跡 |
<参考資料> 岐阜県指定史跡 岩村城址
岩村城は別名霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜七一七メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(一五七三年)に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と二八年間に目まぐるしく交替した。
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原合戦後、姓郡に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主になった。江戸時代の城主は松平氏二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治六年(一八七三年)に取壊された。
(岐阜県教育委員会・岩村町教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 岩村城のあらまし
岩村町は木曽山脈のふところに抱かれた高原盆地にあります。岩村城は別名霧ヶ城と呼ばれ、峻険な地形を利用した要害堅固な山城で、海抜717メートルに位置し全国の山城の中で最も高地にあるのが岩村城である。現在も栄華と悲劇を秘めた石垣が残り、広大な岩村城の規模、形状を偲ぶことが出来ます。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の重臣「加藤景廉」が文治元年(一一八五)に遠山庄地頭に補されたのに始まる。岩村城は加藤景廉創築後、森、松平氏等によって修築拡張され、本丸・二の丸・出丸・帯曲輪・東曲輪・八幡曲輪等が設けられ要所に櫓・塀・城門が構えられました。岩村城は文治元年(一一八五)から慶応四年(一八六六)まで六八三年間、全期にわたって城が巌(現)存したことは日本の城史にも例を見ず、長い歴史にも名城たる理由があります。女城主と呼ばれた時代は城主・遠山景任(とおやまかげとう)が武田信玄の将秋山信友が侵入の時に、東美濃遠山一族と出陣、暮れに没した。その妻が織田信長の叔母で女城主とよばれています。
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)12月22日に、現在の静岡県浜松市で行われたもので、武田信玄が率いる武田軍2万7千と、徳川家康が率いる徳川軍1万1千とが戦い、徳川軍が大敗を喫した合戦。
戦いが行われた場所については定かではなく、静岡県浜松市北区の三方原墓苑の一角(地図)に古戦場の碑が建てられており、ここが主戦場であったとされています。また、三方ヶ原の合戦の後、浜松城(地図)の籠る徳川軍が武田軍に夜襲を仕掛け勝利したとされる犀ヶ崖(地図)の戦いの場所についても定かではないようです。
(写真:三方原墓苑に建つ古戦場碑=平成24年8月14日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・はままつ旅百花 (浜松観光コンベンションビューロー)
http://hamamatsu-daisuki.net/
<参考資料> 三方原古戦場碑
元亀三年(一五七二年)十二月二十二日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍はおよそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも結果は大敗に終った。
これが三方原合戦である。戦いが展開されたのは、この三方原台地であるが、そのところは定かではない。
われわれはこの三方原の一角にこの碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。
(三方原歴史文化保存会有志建立の記念碑から)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |