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130803_1544_米騒動発祥の地(富山県魚津市)

第一次世界大戦による好景気は物価の上昇を招き、なかでも米価は買い占めなどにより高騰し、庶民の生活に影響を及ぼす事態となりました。
そうしたなか、大正7年(1914)、富山県下新川郡魚津町(現在の魚津市)で、漁師の主婦らが、北海道への米の輸送を行うため寄港した「伊吹丸」に対して米の積み出しをやめるよう要求。米の搬出は中止されましたが、この行動は富山湾沿岸地帯に広がり、やがて全国的規模に発展しました( wikipedia )。
(写真:米騒動発祥の地となった旧十二銀行米倉=平成25年8月3日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 魚津市観光協会 「魚津たびナビ」
  http://www.uozu-kanko.jp/
・ 魚津市ホームページ
  http://www.city.uozu.toyama.jp/


米騒動発祥の地 (平成25年8月3日)
130803_1544_米騒動発祥の地・騒動当時の状況(富山県魚津市) 130803_1542_米騒動発祥の地(富山県魚津市)
米騒動当時の状況 米騒動発祥の地モニュメント


<参考資料> 魚津の米騒動
大正三年(一九一四)に始まった第一次世界大戦は、日本に好景気をもたらしましたが、その反面、物価は急上昇し、庶民の生活は困窮した。特に、米商人の買い占めや売り惜しみなどにより米価は戦前の四倍になっていた。
このような状況下、大正七年(一九一八)七月二十三日、北海道への米の輸送船『伊吹丸』が魚津町に寄港した。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しをやめるよう要求し、このため米の搬出は中止された。
この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など沿岸部で次々と米騒動がおこった。さらにこの騒動は全国に広がり、当時の内閣(※首相:寺内正毅)が総辞職に追いこまれた。その後、日本で最初の本格的な政党内閣(※首相:原敬)の誕生につながった。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 米騒動発祥の地 旧十二銀行 米倉 (地図
大正七(一九一八)年、全国をゆるがせた米騒動は、七月二十三日の魚津町(現・魚津市)で起こった汽船への米の積み出し阻止が発端といわれています。
ここは、旧十二銀行の米倉庫でした。当時は地元の米上人が買い付けた米(俵)は、銀行管理の倉庫に預けられ、そこから汽船に積み込んで出荷していました。現在は海辺の景観も変わってしまいましたが、この米倉が魚津の米騒動の名残りをとどめています。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 旧十二銀行 米倉修繕
建設年代:大正三年(一九一四年)
構造形式:土蔵造り 木造瓦葺
規模:
間口四十メートル、奥行十一メートル(米倉本体は八.二メートル)、高さ六.五メートル、面積四四五平方メートル(米倉本体三一三平方メートル)
特徴:
外観は、土蔵と開放的な下屋(げや・一段下がった屋根)からなる。室内は、七室に仕切られ、その出入り口は、漆喰の鳥居枠に養生石を貼り、壁面には荷物の運搬で傷めないよう板の保護がある。
内部は、半間(約〇.九メートル)間隔に主要な柱が入る強固な構造になっている。また、壁には凝灰岩切石が積み上げられている。さらに通気性を考慮し、板を内外交互に張る大和張りが採用されている。
屋根は棟通りに地棟を入れずに、一間幅(約一.八メートル)の天秤梁(地棟を受ける梁)両端に地棟を二列に通した珍しい構造をしている。また、瓦の下には、厚さ四cmのモルタルがある。
修繕期間:平成二十一年十月~平成二十二年三月
修繕内容:
米騒動発祥の地に現存する歴史的遺産の米倉を後世に残す目的で修繕を実施した。修繕にあたっては、建設時の外観を再現するものとし、可能な限り、現在使用している部材を活用した。波打っている屋根は、米倉の構造上の特徴として、あえて現状のままに修繕をしたので、施工業者は、高い技術と数倍の労力を費やすことになった。しかしながら、建設時の外観を特定できる史料が存在しない外壁は、内部構造を保護するために下見板張りとした。また、七ヶ所ある米倉の出入口周囲は、破損が少ないことから、最小限の修繕にとどめた。
内部の見学:
原則として、内部は公開しておりません。
見学希望の方は、事前に魚津市教育委員会に申請してください。
 (魚津市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 魚津の米騒動はなぜ起こったのか?
大正七年(一九一八)、米価が急に上がり、半年で一.七倍になった。その理由は、年の人口増加によりコメの消費量が増大したことやシベリア出兵をきっかけとした米の買い付け、一部商人による米の買い占めだった。人々の生活は、大変苦しいものになった。そのうような状況の中、北海道に米を運ぶための蒸気船「伊吹丸」が魚津沖に停泊し、米の積込み作業を始めたことから、船への積込みを阻止するために米騒動が起こった。
七月二十三日に起こった魚津の米騒動は、公的機関の記録を基に一番早く起こっていることから、この地を「米騒動発祥の地」と呼ばれるようになった。魚津の米騒動は、暴力的ではなく、話し合いで収まったことが大きな特徴である。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 全国に広がった米騒動
富山県は、江戸時代から、米が高くなった時に藩が米を貸し与えたり、明治時代には、町が白米を給付したりしていた。そのため、町に救済を願い出る行動が、明治時代から行われていた。大正七年(一九一八年)七月二十三日の魚津の米騒動は、すぐに『富山日報』におり県内に大きく報道された。そのため、二〇市町村で米騒動が起き、五三〇〇人が参加した。八月には、富山県内各地に広がった。米騒動が「女房連の一揆」、「女一揆」などの名で全国に報道されると、富山県外でも米騒動が起きた。全国では、青森、秋田、沖縄県を除く、一道三府四〇県、約五〇〇ヶ所で米騒動が発生し、約七〇万~一〇〇万人が参加したと言われている。 (魚津市教育委員会設置の案内板から)





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130803_1528_魚津城跡・大町小学校(富山県魚津市)

富山県魚津市にある市指定史跡(地図)。
魚津城はもともと市の南東部にある松倉城の支城として、15世紀頃に椎名氏が築城しましたが、永禄年間(1568~69)に越後の上杉謙信が攻略。以降、上杉方の越中における拠点となりました。
しかし、上杉謙信死後、景勝と景虎が争う「御館の乱」が勃発し、越後国内の情勢が乱れるなか、北陸に侵略した織田方が勢力を伸ばし、天正9年(1581)、家臣の佐々成政が越中に入り、上杉方は東部に追いやられる状況となりました。
天正10年(1582)3月、柴田勝家を総大将とする織田連合軍は、魚津城攻撃を開始。守備を固める中条景泰ら12名の城将は、4月23日、落城目前となった状況と救援を求める書状を直江兼続宛てに送るものの、南から海津城(長野県長野市)を守る森長可が、また上野(群馬県)からは滝川一益らが越後侵攻を窺う緊迫した状況下にあり、すぐには救援に向かうことができませんでした。
景勝が援軍を率いて、魚津市内の天神山(地図)に布陣したのは5月15日。しかし、この間にも森長可らが越後に侵入し、春日山城に迫る状況となったことから、5月26日、景勝はやむなく天神山城から撤退。魚津城は孤立無援となりました。
織田軍の総攻撃に、景勝は城を捨てて降伏するよう命じるものの、魚津城将たちは最後まで戦い、6月3日ついに落城。
奇しくも、2日早朝、京都では本能寺の変により、宿敵・織田信長が明智光秀の謀反により自害するという事件が勃発。
あと数日、持ちこたえていれば、落城することなく、兵を失うこともなかった…。織田軍撤退後の魚津城を奪取した上杉軍の将兵たちは、きっとそう思ったことでしょう。魚津城の悲劇の籠城戦( wikipedia )は、こうして後世に語り継がれることになりました。
(写真:大町小学校に建つ魚津城跡の碑=平成25年8月3日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 魚津たびナビ(魚津市観光協会)
  http://www.uozu-kanko.jp/
・ 魚津市ホームページ
  http://www.city.uozu.toyama.jp/


魚津市指定史跡 魚津城跡 (8月3日)
130803_1529_魚津城跡案内板・大町小学校(富山県魚津市) 130803_1530_魚津城跡案内板・大町小学校(富山県魚津市)
現在の地図 推定復元した魚津城
130803_1522_上杉謙信の歌碑・ときわの松(富山県魚津市) 130803_1523_上杉謙信の歌碑(富山県魚津市)
ときわの松 上杉謙信歌碑


<参考資料> 史跡 魚津城跡
松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。築城年代は定かではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していました。
天正十年(一五八二)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らの攻撃を受け、「本能寺の変」の翌日である六月三日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下になりましたが、江戸時だの初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代中頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。本丸部分は現在、大町小学校となっています。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 上杉謙信の歌碑
天正の初年(一五七三年)上杉謙信が越後の精兵を引きつれて越中へ進入し魚津城外にたむろして時の歌であり、時は初秋、過雁一声(かがんいっせい)鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩

武士(もののふ)の よろいの袖を かたしきて 枕に近き はつかりの声

(魚津市教育委員会設置の案内板から)





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130713_1656_氣多大社(石川県羽咋市)

石川県羽咋(はくい)市にある能登一ノ宮 氣多大社(地図)。
境内入口にある案内板によれば、氣多大社( wikipedia )の歴史は古く、初見は万葉集に、天平20年(748)に、越中守大伴家持が出挙(すいこ)のため能登を巡行した際に大社を参詣し、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも」と詠んだことが記録されているそうです。また、氣多大社を崇敬した加賀藩の前田利家公をはじめ歴代藩主により、現存する本殿(大己貴命・おおなむちのみこと)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)の造営、本殿背後に広がる原生林「人いらずの森(国指定天然記念物」の保護を受け、現在に至っています。
最近では縁結びの神社として、また「氣」の集まるパワースポットとして、多くの参拝者が訪れています。
(写真:氣多大社本殿=7月13日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 金沢市観光協会
  http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/
・ 氣多大社
  http://www.keta.jp/

<参考資料> 氣多大社
当社は氣多神宮とも称え奉り能登國一宮として世に知られ北陸道総鎮護のお社であります。御祭神は大國主神をまつり世に大國権と申し多くの人々に崇められております。若宮神社の御祭神は事代主命を祀りえびす様と称し親しまれている神様です。神社殿背後の杜は約三万平方米の広さを有し「いらずの森」として千古の歴史を伝え北陸地方随一の原生林であります。 (氣多大社設置の案内板から)

<参考資料> 正覚院(しょうがくいん)
当山は、氣多大社の神宮寺(別当寺)として創建され、元正(げんしょう)天皇御代養老二(七一八)年に越前の大徳泰澄大師(だいとこたいちょうだいし)が、夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられている。
その後、文徳(もんとく)天皇斉衝(さいこう)二(八五五)年に亀鶴蓬莱山氣多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数三人を認めるから永久に絶やすことのないように」との指令が出される。(文徳実録)
以来、一千有余年神社に奉仕してきたが、明治維新の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。しかし今でも神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫(やた)の神鏡」を初め、開かずの宮ともいわれる護摩堂本尊「不動明王」、重文「阿弥陀如来」(※「上品上生まれる阿弥陀如来・平安朝後期定朝様式・昭和25年8月8日指定)など多くの寺宝を秘蔵する。 (正覚院設置の案内板から)





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130713_1301_主計町茶屋街・浅野川(石川県金沢市)

石川県金沢市東山の「ひがし茶屋街」とともに重要伝統的建造物群保存地区になっている主計町(かずえまち)茶屋街( emoji 地図 )。小さいながらも浅野川沿いに連なる古い佇まいは、「ひがし」「にし」とともに、風情漂う姿を現在に伝えています。
(写真:浅野川大橋沿いに連なる主計町茶屋街の町並み=7月13日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 金沢市観光協会
  http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/
・ 泉鏡花記念館
  http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/
・ 武家屋敷 寺島蔵人邸
  http://www.kanazawa-museum.jp/terashima/

<参考資料>
藩政時代、金沢城下に入る浅野川大橋の畔のこの界隈は、人や物資が行き交う大変繁華な場所であった。
明治の中ほどになると、「ひがし」や「にし」と並ぶ茶屋街として大いに賑わったとされ、そのことの様子は、隣町の下新町に生まれ育った泉鏡花( wikipedia )の作品に良く描かれるところとなった。
通りの面して一階を揃いの出格子とし、背の高い二階には吹放しの縁側と座敷を備える姿は茶屋建築の特徴を良く残すとともに、その多くは明治後期以降に三階建とされた珍しい姿を見せている。
今も夕暮れ時には、軒を連ねる茶屋の明かりが川面を照らし、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。
(金沢市設置の案内板から)

<参考資料> 金沢市指定史跡 金沢城惣構跡~西内惣構緑水苑内遺構~
惣構とは?
130713_1315_主計町茶屋街・金沢城惣構跡(石川県金沢市)
復元整備中時の様子
130713_1316_主計町茶屋街・金沢城惣構跡(石川県金沢市)
現在の惣構の様子
「惣構」とは、お城を核とする城下町を囲い込んだ、堀や土居などの防御施設のことです。安土・桃山時代~江戸時代初めにかけて、多くの城下町で造られました。堀の城側には土を盛り上げ土居とし、竹や木が植えられました。
金沢城には、城下町を囲って内、外2重の惣構が造られました。
内惣構は、慶長4年(1599)二代藩主・前田利長が高山右近に命じて造らせたと言われています。さらに慶長15年(1610)には三代藩主・前田利常が篠原一孝に命じて外惣構を造らせたと言われています。

発掘調査結果
①内惣構築造当時は河川敷だった
内惣構築造当時(1600年頃)、この周辺は浅野川の河川敷だったようです。
その後17世紀前半に埋め立てられ堀が形成されたことがわかりました。
②堀が軽視えされてから幕末までの間、堀幅はほとんどかわらなかった
17世紀前半に堀が形成されてから、洪水等による堆積、堀削の繰り返しにより堀底の深さはだんだん浅くなっていったようですが、堀幅は幕末までほとんど変わりませんでした。明治に入ると大幅に埋め立てられたようです。

復元整備について
①発堀調査によって確認された地形をもとに堀の復元をしました。幅は概ね10mです。
②江戸時代の遺構を保護するために、上に30cm以上の保護層を設けました。そのため、実際の幅より少し狭くしています。
③遺構の保護とスムーズな排水確保のため、当時の堀より浅くしています。
④堀や土居の斜面の角度は、発堀調査にて明らかにされた土手面をもとに推定しています。
(金沢市歴史建造物整備課設置の案内板から)





<参考資料> こまちなき保存区域~旧彦三一番丁・母衣町区域
彦三町西内惣構堀(そうがまえぼり)と西外惣構堀の間に位置する武家地であり「旧彦三一番丁」は、その東側に位置しています。町名は地内に神屋敷を構えた不破家代々の通称名「彦三」にちなみ、その名が付けられました。堀越しに見える前庭の緑や、その奥にひかえる屋根などに、武士系住宅地の特徴が見られます。
一方、「旧母衣町(きゅうほろまち)」は、藩政時代に母衣衆の組地があったことが町名の由来となっており、往時からの小路を歩きながら、歴史を感じることができるまちなみがこの町の特徴となっています。
(金沢市設置の案内板から)





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130713_1229_ひがし茶屋街(石川県金沢市)

石川県金沢市東山に残る重要伝統的建造物群保存地区になっているひがし茶屋街( emoji 地図)。江戸時代の文政3年(1820)に加賀藩により整備された町並みには、当時の建物が残り、手仕事の魅力を伝える金沢有数のスポットとして全国各地から多くの観光客が訪れています。今回はその茶屋街へ…。
(写真:石川県金沢市のひがし茶屋街=7月13日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 金沢市観光協会
  http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/


石川県金沢市 ひがしやま茶屋街 (7月13日)
130713_1217_浅野川大橋から梅ノ橋・天神橋を望む(石川県金沢市) 130713_1223_ひがし茶屋街・ヤマト醤油味噌東山直売所(石川県金沢市)
浅野川大橋から望む梅ノ橋・天神橋 ヤマト醤油味噌東山販売所
130713_1234_ひがし茶屋街・茶屋美人(石川県金沢市) 130713_1234_ひがし茶屋街・十月亭(石川県金沢市)
金箔専門店「箔座」 茶屋美人 十月亭
130713_1244_ひがし茶屋街(石川県金沢市) 130713_1245_ひがし茶屋街・かなざわ美かざりあさの(石川県金沢市)
ひがしやま茶屋街 金箔専門店 かなざわ美かざり あさの


<参考資料> 卯辰山麓地区の町並み
卯辰山と旧北国街道(国道359号)に挟まれたこの地には、慶長期から延宝期(1596~1681)にかけて、寺院群が概ね形成されたと考えられています。寺院群と周辺の町場から成る寺町のうち、町割が改変された「ひがし茶屋街」を除く範囲が、卯辰山麓伝統的建造物保存地区となっています。
藩政期からの細街路や町割が今も色濃く残り、傾斜のある地形により曲折した街路には寺社が配されています。また、旧北国街道から各寺院に向かう東西の参道や、それらを結ぶ南北の街路沿いには、伝統的な町屋が建ち並び、寺社と町屋が混然一体と景観を有しています。
寺院の集積する区域では、街路に沿って連続する築地塀と石段を構えた寺院が建ち並びます。「七面小路」と呼ばれる通りからは、いくつもの寺院山門を見ることができます。一方で、町屋が集積する区域もあり、旧北国街道に平行し材木問屋が集積していた「旧木町」や、観音院の門前町として賑わいを見せた「旧観音町」などがあります。
平成23年、卯辰山麓地区は重要伝統的建造物保存地区に選定され、歴史的な町並みの保存と住環境の整備を進めています。

卯辰山麓地区の寺院本堂は、切妻造・平入型の外観で、方丈6室型の平面を持つ形式が大半を占めます。一部に見られる緩やかな直線尾根は、板葺き石置き尾根の名残を残すものです。一方で、切妻造・妻入型で式台玄関を設ける形式も見られ、正面の妻面に梁を何段にも重ねる妻飾りなど、寺院本堂の風格を備えています。
神社建築は、いずれも明治以降の再建です。本堂、幣殿、拝殿を接続する複合型社殿であり、本殿が一間社であるなど、近代の神社建築の特徴を良くあらわしています。
寺社以外の伝統的な建築は、切妻造。平入型で桟瓦葺とする町屋形式のものが大半を占めます。かつての板葺き石置き尾根の勾配を残し、金属板葺きとするものも見られます。袖卯建、軒裏の意匠、2階正面開口部の意匠など、金沢におけるそれおzれの時代の町屋の特徴を良くあらわしたものが多く残っています。

周辺の町並み
卯辰山麓伝統的建造物保存地区い囲まれた「ひがし茶屋街」と浅野川大願の「主計町茶屋街」には茶屋建築が連なり、華麗な茶屋文化を今に伝える町並みが、重要伝統的建造物保存地区に選定されています。
卯辰山麓地区と浅野川に挟まれた「旧御歩町」には、武士系の建物や土塀など、かつての面影を残しています。対岸には、同じく武士系の町並みである「旧彦三一番丁・母衣町」や、商家の連なる「旧新町」の町並みがあります。
また、城下町を守った惣構の跡が、主計町緑水苑や浅野川大橋南の枯木橋詰遺構に見ることができます。

<参考資料> 東山ひがし 重要伝統的建造物群保存地区 
藩政時代、金沢城下への入口にあたる北国街道の浅野川・犀川両大橋界隈には、お茶屋が建ち並んでいた。文政三年(一八二〇)になり、正式に加賀藩の許しを得てこの「ひがし」の茶屋町が犀川外の「にし」と共に開かれ、以来城下随一のにぎわいを見せた。
通りに面して一階を揃いの出格子・座敷を備える背の高い二階を吹放しの縁側とする姿のお茶屋は並ぶ町並みは、藩政末期以来の茶屋町の特徴を良く残している。
今も夕暮れ時には芸妓衆が行き交い、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。 (平成13年11月14日選定)


130713_1230_ひがし茶屋街・国指定重要文化財「志摩」(石川県金沢市)
国重要指定文化財 志摩

<参考資料> 国重要指定文化財 志摩(しま)
所在地  金沢市東山一丁目一三番二一号
建築年代  文政三年
構造    木造二階建(一部三階) 切妻造り、瓦葺き

文政三年(一八二〇)茶屋町創設当初に建てられた茶屋建築である。「茶屋建築」は二階を客間(座敷)とするため、二階部分を高くつくり、通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴である。
一、二階の座敷廻りには要所に「表皮柱(めんかわばしら)」と呼ばれる丸太の肌を残した柱を用い、漆にて全体に濃い色づけをほどこし、弁柄色の土壁や具象的な図案の金物等で、独特の瀟洒(しょうしゃ)で華やかな室内を醸し出している。
全国的にも類例の少ない茶屋建築であり、江戸時代後期における庶民文化の一端を知るうえでも貴重な建物である。
平成一五年三月二五日に国の重要文化財に指定された。


130713_1231_ひがし茶屋街・玉匣(石川県金沢市)
和小物・金澤クラフト アート&ジュエリー 玉匣

<参考資料> 玉匣(たまくしげ)
「ひがし」は藩政期の一八二〇年(文政三年)に形成された由緒ある茶屋街であり、伝統的建造物群保存地区に指定されています。
「玉匣」は、茶屋街創設時からのお茶屋の建物の風情を残し、現在にふさわしく再生修復した店舗であり、二階には料亭「中むら」が今も変わりなくお茶屋として親しまれ営業を続けています。
店名に冠した玉匣とは、「万葉集」に初出する宝石箱を意味する言葉であり、金澤が世界に誇る伝統的な者や建築はもちろんのこと、その「こころ」を継承していく「金澤の宝石箱」でありたいという想いが込められています。
「アートと暮らし」をテーマに、金澤ゆかりの若手工芸作家のクラフト作品やアクセサリー小物など、暮らしを彩る「金澤の逸品」から、ジュエリー・宝飾品などの「世界の逸品」までを紹介、若きアーティストとともに「伝統とデザインの融合」を紡ぎだすラボラトリーショップとして展開していきます。


130713_1232_ひがし茶屋街・懐華樓(石川県金沢市)
金沢市指定保存建造物 懐華樓

<参考資料> 金沢市指定保存建造物 懐華樓
所在地 金沢市東山一-十四-八
ここひがし茶屋街は文政三年(一八二〇年)加賀藩の政策により整備され、天保二年(一八三一年)に一度廃止されるが慶応三年(一八六七年)再び茶屋街として公認された。
創立当初の記録によると「志ま屋」となっているが明治三十九年(一九〇六年)
「金沢廓の栞」に「越濱」に名があり昭和初期まで続いていたと思われる。その後さらに返遷を重ね現在に至っている。
この建物は江戸時代後期の茶屋街建築の様式を伝えるもので間口六間、奥行十二間の規模はこの界隈で最も大きく、お茶室用入口や土蔵も備えており、格式も高く当時の栄華をしのぶうえでも歴史的価値の高い貴重な建造物である。
(金沢市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 金沢市指定保存建造物 旧越濱
種別 日本建築
指定 平成三年四月二十二日
切妻、平入り、二階建てで、裏には土蔵がある。一階の「みせの間」の出格子と、背の高い開放的な二階が特徴である。この地区では最も規模の大きな建物の一つで、周囲の家並みとともに、近世茶屋町独特の雰囲気を伝えている。

<参考資料> 金沢が誇る金箔文化と茶屋街文化との出会い
ひがし茶屋街は藩政期から栄、木虫籠(きむすこ)と呼ばれる木格子の意匠が、今も時代を超えて風情を奏でます。その姿をもっとも色濃く伝える建物に、日本を代表する金箔文化が不思議な縁を結び合わせました。世界ではじめて完成された純金プラチナ箔が、伝統的な建築に重厚な輝きを加え、新たな魅力が現代に再生され、やわらかに悠久のときを語り継ぎます。
(純金箔製造処箔座設置の案内板から)


130713_1233_ひがし茶屋街・友禅ギャラリー久連波(石川県金沢市)
友禅ぎゃらりー久連波 茶房くれは

<参考資料>
一階を町並み揃いの出格子とし、二階は雨戸を設ける茶屋建築独特のこの建物は、芸の道にいそしむ華やかなお囃子が聞こえてくる情緒ある「ひがし茶屋街」特有の雰囲気を醸し出しているお茶屋でした。
金沢市まちなみ保存対策の意に沿いつつ、一部改築したものです。以前は、一軒の建物を二軒で使用し、井戸は角家に掘り、隣家に供給していた割家(柱の中心が境界線)でした。さらに、この建物は二階の床の部分が隣家の境界線上をせり出し、縁側は角家のため道路上に一部がせり出している珍しく貴重な建築様式です。
格子は、加賀格子木虫籠(キムスコ)と称され、この地方固有の様式であり、極めて細かく外部から見通しにくく、内部から見通し易く出来ています。
当店は、日本文化の貴重な町並みを保存しつつ、伝統工芸加賀友禅の展示・小物ギャラリー、及び茶房となっております。中でも友禅作家の夢である染めパネルを駆使した茶房でのひととき、又、二階座敷での優雅で美しい友禅のご観覧は、必ずや金沢の旅の思い出になることでしょう。どうぞお気軽に、ひがし茶屋街の情緒ある風情をお楽しみ下さい。
(友禅ぎゃらりー久連波 茶房くれは 設置の案内板から)

<参考資料> 金沢市指定文化財 旧かみや主屋・土蔵
種別 有形文化財 建造物
指定 平成二十四年三月十二日

「旧かみや」は、明治六年(一八七三)頃の建築とされる茶屋建築です。
主屋は瓦葺き二階建て一部三階建てで、外観は一階に出格子、二階は階高が高く雨戸と戸袋を備えるなど、茶屋建築の特徴を良く表しています。内部は二階正面や中庭に面して、客をもてなす座敷や離れを配置しています。玄関の舟板や店の間の下地窓など数寄屋風の意匠が各所に見られ、襖の引手や長押の釘隠の意匠も変化に富んでいます。
土蔵は二階建て、瓦葺きの置き屋根形式で、外観は基部を戸室石の切石積み、腰を薄青色の凝灰岩系の石張り、上部を白漆喰壁とし、窓に雨風除けの霧除を付けるなど、金沢で見られる土蔵造りの形式を踏襲しています。
「旧かみや」は、明治初期の茶屋建築の外観と間取りの特徴を良く残す貴重な建物であり、あまた、建物を店舗活用する際、内部の建具等を土蔵に保管し旧状への復原を可能とするなど、保存と活用を両立する事例としても評価されています。 
(金沢市設置の案内板から)

<参考資料> 旧中屋
この建物は、文政三年(一八二〇年)に建てられた茶屋建築で、創立時は「中屋」と称した。
外務の格子は目の細かい木虫籠(きむすこ)で腰は越前石が用いられている。一、二階の庇は軒の出が少なく、全体として優美な外観を呈し、玄関の大戸を含む拗ねてが弁柄(べんがら)仕上げを残している。
内部は往時の間取りを忠実に残し、優雅で繊細なお茶屋の造りとなっている。前二階及び広間の座敷は赤い弁柄(べんがら)、はなれは鮮やかな群青(ぐんじょう)の壁である。また造作材は漆塗りで、お茶屋特有の「粋(いき)」を感じさせる大変貴重なものである。 (案内板から)


130713_1238_ひがし茶屋街・宇多須神社(石川県金沢市)
宇多須神社

<参考資料> 200年前のひがし茶屋町
卯辰八幡宮:明治年(一八七三)年西町現在の尾山町へ移り尾山神社を改称されました。
宇多須神社:隣にあった卯辰神社が卯辰八幡宮の跡地に移り宇多須神社と改称されました。
東山菅原神社:卯辰菅原神社が近年東山菅原神社と改称されました。
矢の根川:安宅の関所を通り抜けた源義経と弁慶一行が文治四(一一八七)年当地へたどり着き隠し持った武具、矢の根を洗ったことから、後にこの川を矢の根川と云われようになったと云う伝説があります。そうしてこの川は今も町屋の床下を潜り道路を暗渠となり浅野川へ注いでいます。

<参考資料> 重要伝統的建造物群保存地区 東山ひがし界隈
ひがしの興りと歩み
130713_1250_ひがし茶屋街案内板(石川県金沢市)
水溜の遺構(案内板から)
江戸時代、このあたりは金沢城下から越中を結ぶ北国街道の下口として人や物資が行き交うとともに、観音院を初めとした卯辰山山麓の寺社で行われる行事や門前町の茶屋で楽しむ人々などで大いににぎわいました。
加賀藩はこのような町人達の風俗を取り締まり、武家社会の治安を保つことを目的に、文政三年(1820)、地域を限った茶屋町を正式に認めたことで、ここ「ひがし」に茶屋町が設けられ、卯辰茶屋町とも浅野川茶屋町とも呼ばれていました。
その後、茶屋町は天保二年(1831)に一旦廃止になったものの、幕末の慶応三年(1867)には再び公認され、明治以降は「東新地」・「ひがし」と呼ばれ、市内随一の格式とにぎわいが誇る茶屋町として、今日に至るまで金沢の茶屋文化を受け継いでいます。

ひがし防災広場
「ひがし」は今も特徴ある茶屋様式の町屋が連なる美しい町並みであると同時に、伝統的な木造家屋が細い路地に並んでいるため、防災機能の向上が重要になります。
この広場は藩政期より水溜として利用された場所であり、このたび防火水槽の耐震化を行うとともに、地区の防災拠点広場、また来訪者が休憩できる緑地として整備を行いました。

水溜の遺構
左図のとおり、文政十三年(1830)の『金沢測量図籍』には、南北三間五三(約6.42m)×東西七間(約12・6m)の水溜と思われる描写が見られ、当時から防止用のため池として利用されていたものとも考えられます。
この絵図の場所にあたる当地で行ったこの度の工事において、水溜のものと考えられる石積みを確認しました。石積みは、地表より約2mの深さから立ち上がる二段築造(複断面)で、枕形の野石(河原石)を使用し、1列ずつ上面を揃える「布積み」で積まれていました。
なお、この石積みは記録調査を行った後、壊すことなく地中に保存しました。
(金沢市歴史建造物整備課設置の案内板から)

<参考資料> 円長寺
藤嶋山と号し、真宗大谷派に属する。
開山は、越前国藤島村(福井県福井市)超願寺の僧・道清によるもので、天正一四年(一五八六)、大鋸屋町に創建したことが当時の起こり。その後、慶長元年(一五九六)、当地において建立した。
由来によれば、加賀藩三代三種・前田利常が卯辰山周辺の鷹狩りを行った際に、たびたび小休憩所としてこの寺を利用したと伝えられている。その縁により没後、利常の位牌を守り、現在も安置されている。そのため剣梅鉢の袈裟使用などが許されている。
六角造りの一切経蔵は、慶長元年(一八六五)閏五月御輪堂として建立され、現在も一切経が大切に保管されている。 (案内板から)





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