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130914_1152_貴船神社本宮(京都市左京区)

山行を終えてたどり着いたのは貴布禰総本宮 貴船神社。
貴船神社( Wikipedia )は、貴船川の下流から石段の両側に整然と本宮、天の磐船や和泉式部の歌碑のある結社、船形石のある奥宮で構成されており、今回のように鞍馬山を巡って西門から本宮境内に向かうか、叡山電車貴船口駅間を往復するバスで貴船まで行き、バス停から歩いて参拝する二つの方法があります。道路と並行して流れる川の上では、有名な「川床」( Wikipedia )も設けられ(季節営業)、京料理に舌鼓を打つのも貴船詣での楽しみかもしれません。

この日の京都は残暑厳しく、鞍馬山の山行とで管理人ひろさくは既に疲労困憊。頑張れば奥宮へも行けたかもしれませんが、無理をすることを止め、途中にある結社まで歩き、そこで貴船神社の参拝を終えることとしました。来た道を引き返し、貴船のバス停にたどり着くと、駅に向かうバスはナント!満員御礼状態。突入する元気もなく、やむなく汗をかきかき、貴船口駅への道を歩いたのでした。
(写真:貴船神社本宮境内=平成25年9月14日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 貴船神社ホームページ
  http://kifunejinja.jp/
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
  http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
・ 京都観光サイト KYOTOdesign
  http://kyoto-design.jp/
・ 京都・貴船(貴船観光会と貴船神社)
  http://kibune.jp/


天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ
貴船神社周辺
(平成25年9月14日)
130914_1226_貴船神社結社・和泉式部歌碑(京都市左京区) 130914_1225_貴船神社結社(京都市左京区)
和泉式部歌碑 天乃磐船
130914_1219_貴船川の「川床」(京都市左京区) 130914_1258_叡山電鉄貴船口駅(京都市左京区)
貴船川の「川床」 叡山電鉄貴船口駅

<参考資料> 貴船神社 本宮
水徳神高龗神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣(かんぺい)中社で、社名は古くは木船、貴布称とも書かれたが、明治四年(一八七一)以降「貴船」と改められた。
平安時代縁起の制には、名神(みょうじん)大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁九年(八一八)以来の歴朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ・上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。
かつて社殿は貴船川に沿って上がった処にある現在の奥宮の地にあったが、天喜三年(一〇五五)、現在地に移転された。本殿、拝殿、権殿等から成り、本殿は文久三年(一八六三)及び平成十七年(二〇〇五)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫との願いがかなって復縁した話しはよく知られている。
(京都市設置の案内板から)

御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、水の供給を司る神。
創建年代は明らかでないが、第十八代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦十五年(七九六)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているので、その当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(一〇四六)七月の水害で奥宮が被災、天喜三年(一〇五五)四月この地の本社を移築した。
京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社二十二社の一社で、延喜式名神大社。庶民の崇敬も篤く全国に二千社を数える分社がある。
古くは「貴布※禰」と記したが「黄船」「木船」「木生嶺」「氣生根」などの表記も見られる。明治四年官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された。
例祭 六月一日
(境内に設置されている案内板から)

<参考資料> 貴船神社本宮 絵馬発祥の杜
先人にならい絵馬を奉納してご祈願下さい
古来より雨乞いの杜として名高い当社には、おそく畏くも歴代天皇様より旱天(ひでり)には黒馬・霖雨には白馬又は赤馬を、その都度献げて御祈願される例になっていました。
しかし、時には生馬に換えて『板立馬』を奉納したと、平安時代の文献である「類聚符宣抄」に伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。塔宮では、此の故事に倣らい、かつて和泉式部が復縁を、平寶重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったように、皆様方の心の願いを、一枚の絵馬に託して御祈願なさいますよう、お勧め致します。
三社順拝のおすすめ
本宮  諸願成就
結社  えんむすび
奥宮  心願成就
(本宮境内に設置されている案内板から)
 
<参考資料>貴船神社中宮 結社
御祭神 磐長姫命(いわながひめのみこと)
神武天皇(初代の天皇)の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはんさくやひめのみこと)を娶らんとする時、父の大山衹命(おおやまつみのみこと)が姉の磐長姫命も共におすすめしたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。
古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌に託して祈願したという話は有名です。
(和泉式部の歌碑がこの上の境内に建っています)
昔はススキ等の細長い草を、今は「結び文」を神前に結びつけて祈願する習わしがあります。男女間の縁だけでなく、人と人、会社と会社、就職、進学などあらゆる縁を結んで下さる神様です。
(中宮境内に設置されている案内板から)

<参考資料> 桂(御神木)
この桂は、樹齢およそ四百年。
神道では体内の気が衰える事を「気枯(けが)れ」といい、古来当社に参拝する人は皆御神気に触れ、気力の再生・充実する事から、運気発祥(開運)の信仰が篤い。
いくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇る姿に似て、当社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。本社と奥宮にも大きな桂がある。
※結び文は社殿脇の結び所に結んで下さい、樹木に結ぶと枝が枯れ、貴方の「気」も枯れてしまいます。
(中宮境内に設置されている案内板から)

<参考資料> 和泉式部 歌碑
貴船神社は、古来、恋を祈る社でもありました。
平安時代の有名な女流歌人・和泉式部( Wikipedia )は、夫との仲がうまくいかなくなって当社に御参りし、貴船川に飛ぶ蛍を見て、切ない心情を歌に託して祈願しました。すると、社殿の中から慰めの返歌が聞こえてきて、ほどなく願いが叶えられ、夫婦仲がもとのように円満になったということです。「後拾遺和歌集」には次のように記されています。

男に忘れられて 侍りけるころ 貴布※禰に参りて
みたらし川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる
ものおもへば 沢の蛍も わが身より
あくがれいづる 魂かとぞみる
(※あれこれ思い悩んでここまで来ますと、蛍が貴船川一面に飛んでいます。そのはかない光は、まるで自分の魂が体からぬけ出て飛んでいるようでございます。)
御返し
おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の
玉ちるばかり ものな思ひそ
(※しぶきをあげて飛び散る奥山の滝の水玉のように<魂がぬけ出て散り消えていく=死ぬかと思うほど>そんなに深く考えなさるなよ。)
この歌は貴布※禰の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなむいひ伝へたる。
(中宮境内に設置された案内板から) 

<参考資料> 天乃磐船(あまのいわふね)
この船形の自然石は、貴船の山奥より出土し、平成8年三月、市内の造園業・久保篤三氏より奉納された。重さ六トン。
船は、古くから唯一の交通機関であり、人と人、文化と文化の交流(結ぶ)ということから、縁結び信仰と関わりがある。また、奥宮の「船形石」伝説に見られるように、神様の乗り物としれ神聖視され、当社と船との関わりも深い。
縁結びの神で知られる結社の御祭神・磐長姫命の御料としてここに納めた。
(中宮境内に設置されている案内板から)





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130914_1038_総本山鞍馬寺・本殿金堂(京都市左京区)

JR京都駅から地下鉄・叡山電車を乗り換えおよそ1時間ちょっとの場所に、牛若丸が天狗と修行したという伝説が残る鞍馬寺と、京都の奥座敷として知られる貴船神社があります。
鞍馬寺( Wikipedia )は、宝亀元年(770)、鑑真和上の高弟・鑑禎(がんちょう)上人が毘沙門天を祀ったのがはじまりとされ、その後、造東寺長官・藤原伊勢人が堂塔伽藍を建立し、以降、皇室・幕府から庶民に至るまで幅広い信仰を集めてきました。
鞍馬山の西側にある貴船神社( Wikipedia )は、京都の水源を守る神様として古くから信仰され、最近では平安時代の歌人・和泉式部の夫婦復縁を叶えた逸話から「縁結び」の神様として、女性参拝者の人気を集めています。神社前を流れる鴨川の清らかな流れの上で涼みながら旬の味を堪能する「川床(ゆか)」もグルメファンとしては押さえておきたいポイントかもしれません。

今回の旅は、叡山電車鞍馬駅から、急峻な坂を一歩一歩踏みしめ鞍馬寺を参詣し、さらに急勾配の「木の根道」を通り、貴船神社の至るルートを辿ってみました。9月とはいえ、残暑厳しい京都のこの日の最高気温はナント!35度。望むつもりもなかった修行を強いられる、それはそれは厳しい山行となりました。
(写真:総本山鞍馬寺 本殿金堂=平成25年9月14日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
  http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
・ 京都観光サイト KYOTOdesign
  http://kyoto-design.jp/
・ 鞍馬山・鞍馬寺 休日の癒し
  http://www.kuramayama.net/
・ 叡山電車
  http://eizandensha.co.jp/


天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ
叡山電鉄鞍馬駅周辺
(平成25年9月14日)
130914_0955_叡山電鉄鞍馬駅(京都市左京区) 130914_0956_叡山電鉄鞍馬駅(京都市左京区)
叡山電鉄鞍馬駅 京都電燈デナ21形電車
130914_0959_叡山電鉄鞍馬駅(京都市左京区) 130914_1004_叡山電鉄鞍馬駅(京都市左京区)
鞍馬といえば天狗 鞍馬寺の門前町

<参考資料> 京都電燈デナ21形電車
この電車( Wikipedia )は当社の前身京都電灯と鞍馬電鉄の両社が、昭和三年鞍馬線の開通に備えて共通設計した車両で、昭和四年八月に就役しました。
以来平成六年十一月に引退する迄の六五年間に二一七万粁余を走行し、沿線の皆様をはじめ多くの鉄道ファンに親しまれて来ました。
最盛期には一〇両の仲間がいましたが、この車両を最後に姿を消しました。
ここに、この車両の一部を保存展示し、当社の歴史にその名を留めたいと思います。
(叡山電車鞍馬駅横に設置されている案内板から)

<参考資料> 鞍馬山・僧正が谷の天狗
130914_1009_総本山鞍馬寺・雍州路(京都市左京区)
精進料理専門店 雍州路
http://www.yoshuji.com/
僧正が谷は木の根道が続く奥の院の大杉権現、不動堂、摩王殿の辺り一帯をさす。この付近は古来から天狗が棲みつき出没、牛若丸(義経)はここで鞍馬の天狗をはじめ高雄・愛宕の天狗などから武芸を教わったと伝えられる。
天狗は古くから山岳信仰とかかわりがあり、修験者が守護神として祀っていたが、中世以降山伏の堕落もあり天狗や妖怪や「魔」とみなす風潮も生まれるなど、時代とともに姿やイメージも変遷していった。本来の天狗とは、山に宿ると考えられる「精霊」で、姿をみせない神秘的存在であろう。
鞍馬・比叡・愛宕・飯綱・白峯・大峯・大山・彦山など全国各地の霊山には天狗伝承があり、また大天狗・小天狗・鳥天狗・木の葉天狗などの階層もつけられているが、なかでもここ鞍馬山の大天狗は「僧正坊」と呼ばれ日本各地の天狗たちの総元締めとして、また僧正が谷は総本山ともいえる場所の一つとして語り継がれている。
(叡山電車鞍馬駅前の設置されている案内板から)


天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ
総本山鞍馬寺
(平成25年9月14日)
130914_1005_総本山鞍馬寺(京都市左京区) 130914_1010_総本山鞍馬寺・仁王門(京都市左京区)
鞍馬寺 仁王門
130914_1022_総本山鞍馬寺・ケーブル山門駅(京都市左京区) 130914_1028_総本山鞍馬寺・多宝塔(京都市左京区)
鞍馬山ケーブルカー 多宝塔
130914_1043_総本山鞍馬寺・本殿金堂(京都市左京区) 130914_1046_総本山鞍馬寺・奥の院へ(京都市左京区)
本殿金堂(パワースポット) 奥の院へ
130914_1050_総本山鞍馬寺・与謝野鉄幹・晶子冬柏亭(京都市左京区) 130914_1052_総本山鞍馬寺・義経公息次ぎの水(京都市左京区)
冬柏亭 義経公息つぎの水
130914_1103_総本山鞍馬寺・大杉権現に続く木の根道(京都市左京区) 130914_1104_総本山鞍馬寺・背比べ石(京都市左京区)
大杉権現へ 義経公背比べの石
130914_1109_総本山鞍馬寺・僧正ガ谷不動堂(京都市左京区) 130914_1110_総本山鞍馬寺・義経堂(京都市左京区)
僧正ガ谷不動堂 義経堂
130914_1113_総本山鞍馬寺・奥の院魔王殿に続く木の根道(京都市左京区) 130914_1118_総本山鞍馬寺・奥の院魔王殿(京都市左京区)
木の根道 奥の院魔王殿

<参考資料> 鞍馬寺
奈良・唐招提寺の開山鑑真和上の高弟、鑑禎上人が、宝亀元年(七七〇)、鞍を負った白馬の導きで当山に至り、毘沙門天を感得して草庵を結んだのが始まりである。
延暦十五年(七九六)には、藤原伊勢人(いせんど)が王城鎮護の道場として伽藍を造営し、爾来(しらい)、衆庶の信仰を集めてきた。
現在は鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山であり、宇宙の大霊・尊天を本尊とする信仰の浄域である。
山の政令である天狗が住む山としても有名で、貴船に続く参道には、豊かな自然の中に、牛若丸(源義経)ゆかりの「息次ぎの水」や「背比べ石」、枕草子に記された「九十九折(つづらお)り」などの名所古跡が散在し、多くの文学作品にも登場する。
「初寅大祭」や「竹伐り会式」など由緒ある年中行事も多く、春の花に始まり、夏は全山緑に包まれ、秋は紅葉の彩り、冬は雪景色と四季折々の風情ある佇まいは、訪れる人々の心の安らぎを与えている。
(京都市設置の案内板から)

<参考資料>
鞍馬寺 仁王門
寿永年間(一一八二~一一八四)に建立されたが、明治二十四年に炎上したので、明治四十四年に再建され、更に昭和三十五年に移築修理が加えられた。向かって右側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は湛慶作と伝えられ、明治の再建時に丹波よりお移しされたという。

鞍馬寺 寝殿
この寝殿は、大正十三年に木曽の御料林の檜杙の御下賜を得て、平安時代の寝殿造を忠実に型どって建立され、同年貞明皇后さまが行啓された折、ご休息された建物である。
昭和四十一年に一部増改築され、今は毎年八月一日より三日間奉修される「如法写経会」の道場となっている。

冬柏亭(とうはくてい・与謝野晶子先生書斎)
与謝野家は、昭和二年に、当寺の東京市荻窪村(杉並区荻窪二ノ一一九)へその居を移した。広い屋敷の中には、「采花荘」と呼ぶ日本屋と、「遥青書屋」という大きな洋館があった。
この二つの建物の間に、「冬柏亭」と呼ばれる書斎が、晶子先生の五十の賀のお祝い(昭和四年十二月)に、お弟子さんたちから贈られた。それが完成したのは昭和五年三月である。
晶子先生の没後、昭和十八年十月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、大磯にある氏の住居へ移された。
それが岩野氏のご好意から、さらに鞍馬山に移築されたのは昭和五十一年四月のことで、同門の信楽香雲先代管長とのご縁によるものである。
(寄贈された関係資料は、霊宝殿に収納展示されています)

何となく 君にまたるる ここちして
     いでし花野の 夕月夜かな       晶子
遮那王が 背くらべ石を 山に見て
      わがこころなほ 明日を待つかな   寛
 
義経公息次ぎの水
牛若丸が、毎夜奥の院増正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる。八百四年後の今も湧きつづけている。

義経公背比べ石
遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衝の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。

遮那王が 背くらべ石を 山に見て
      わがこころなほ 明日を待つかな   与謝野 寛

謡曲「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷
謡曲「鞍馬天狗」は、源義経幼時の武勇説話を現代物に脚色した曲である。
鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修行中の稚児平家の公達や牛若丸を連れて出かけたが、見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。ただ一人残っている牛若丸の素性を知り憐んだ山伏は諸所の花の名所を案内し「自分は大天狗である。平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けよう」といい、翌日からのはげしい修業の末、約束の如く兵法を授け再会を約し大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。
僧正ヶ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、老杉高く聳え、巨根地を這って昼なお闇く神秘感をただよわせている。
(謡曲史跡保存会設置の案内板から)

極相林
裸地や、山火事・伐採などで樹木を失った土地には、はじめに光を好む草が生え、ついでマツやナラのような陽樹が入りこむ。その日陰にはシイやカシなどの陰樹が生え、陰樹が成長して陽樹を追いやる。すると最後に陰樹だけの林となり永く安定する。これを極相林という。
鞍馬山では、このあたり一帯が極相に達した森である。ウラジコロカシ・ツクバネガシ・シラカシ・アラカシ・カゴノキ・サカキ・ツバキなど暖地性の照葉樹やツガ・モミなどの針葉樹が中心となり、林内にはそれらの若木が育っている。このような森ができるまでには少なくとも二百年から三百年の歳月が必要だと考えられている。
(鞍馬山自然科学博物苑設置の案内板から)

義経堂
歴史には文治五年(一一八九)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
この義経堂には遮那王尊をおまつりする。





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130914_0729_JR東海道新幹線岐阜羽島駅(岐阜県)

京都・奈良・大阪方面へのお出かけに、長野県民(特に北信地域の在住者)が使う交通手段といえば、長野駅から中央線を走る特急「しなの」に乗り、名古屋で新幹線に乗り換える方法が一般的。
ところが伊那谷(南信地域)に住む人たちは、名古屋までであれば頻繁に運行される高速バスを、それより以西(いせい)であれば、場合によってはJR東海道新幹線 岐阜羽島駅(地図)まで自家用車を運転して出かけるよ、と聞き、もうびっくり。
  
会社の同僚に、なぜ岐阜羽島なの?と聞くと…
(1)京都や奈良、大阪まで車で行くにはちょいと遠いし渋滞が心配
   ※午前7時に到着できれば始発の「こだま」に乗車が可能
(2)名神道・岐阜羽島ICから近く、低価格の大きな駐車場が多数ある
   ※岐阜羽島駅は中京地域におけるパークアンドライド( Wikipedia )の拠点
(3)多人数であれば高速道路を使っても費用面において節約が可能
以上(1)~(3)が岐阜羽島駅を利用する理由とのこと。
   
ひろさくさんも一度使ってみたら…ということで早速今回の京都の旅でチャレンジ。
先ずは伊那の仮住まいを午前5時に出発。中央道恵那峡SAで休憩しながら、のんびり小牧JCTを東名・名神へ。渋滞が心配された一宮JCTもゆるゆる通過し、新幹線と並走する木曽川橋((愛知・岐阜県境)を渡るとやがて岐阜羽島IC。岐阜羽島駅南口への到着は、伊那の仮住まいを出発して2時間後の午前7時のことでした。
岐阜羽島駅前はウワサどおりに、それはそれは多くの貸駐車場があり、料金もさまざま。ぐるっと周辺をまわってみましたが、概ね1日(24時間)300円~400円というのが平均的な値段で、長野市内にある駐車場などと比較すると、まさに雲泥の差、激安という言葉がぴったりの印象を受けたのでありました。
岐阜羽島から京都までは、各駅停車の「こだま」で約40分。
始発ということもあり、席に座ってゆっくりと京都までの列車の旅を楽しみました。
  
開通する北陸新幹線。
長野駅周辺にも駐車場は多数ありますが、地価も高いのでなかなか料金を引き下げることは難しいかもしれません。飯山駅周辺の土地事情や、潜在的な需要がどれほどあるのかわかりませんが、高速道路のIC(豊田飯山IC)から近いという条件は岐阜羽島駅とよく似ており、ある程度の遊休地が確保できるのであれば、こうした利用方法も検討する価値はあるのかも…しれません。
(写真:JR東海道新幹線岐阜羽島駅=平成25年9月15日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 株式会社スペース24
  (今回利用した駐車場の運営会社)
  http://www.space24.co.jp





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111123_1459_豊川稲荷(愛知県豊川市)

豊川稲荷( Wikipedia )は愛知県豊川市(地図)にある日本三大稲荷のひとつ。
室町時代前期の嘉吉元年(1441)、永平寺開山の道元禅師の法嗣である寒巌義尹禅師( Wikipedia )から六代目の法孫、東海義易禅師により、曹洞宗の寺として開創され、今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの戦国大名のほか、江戸時代には名奉行で知られる大岡忠相、渡辺崋山などの信仰を集めてきました。
「稲荷」と呼ばれるため神社と思われがちですが、実は円福山 豊川閣 妙厳寺という曹洞宗の寺院であり、お祀りされている「豊川吨枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」が稲穂を荷(にな)い、白い狐に跨っていることから「稲荷」と呼ばれるようになったようです。
(写真:豊川稲荷・大本殿=平成23年11月23日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 豊川稲荷公式ホームページ
  http://toyokawainari.jp/
・ 豊川市観光協会
  http://www.toyokawa-map.net/

<参考資料> 総門
この総門は当寺の創立から二百十四年後の明暦二年(一六五六年)に一度改築された。
現在の門は明治十七年(一八八四年)四月十八日当寺第二十九世黙堂(もくどう)禅師によって上棟改築されたものである。
門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた高さ四、五メートル・巾一、八メートル・厚さ十五センチの欅の一枚板で欅独特の如鱗(うろこ)のような木目は類い稀な木材として専門家に知られている。
屋根は銅板鱗葺きで又諸処に使用されている唐金手彫の金具は優れた技法を示している。
頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪ノ和四郎その他名工の合作といわれ参詣の諸人はこの仏様に見守れながら、この門をくぐるのである。

<参考資料> 法堂 通称 本堂
111123_1509_豊川稲荷・豊川稲荷秋季大祭(愛知県豊川市)
豊川稲荷秋季大祭
11月22日と23日に開催
「提灯祭り」とも呼ばれる
今から五百五十年前東海義易禅師によって創立されて円福山妙巌寺(えんぷくさんみょうごんじ)の中心を占める建物で寒巌禅師が自ら刻まれた千手、千眼観世音菩薩の尊像を本尊仏として奉祀している。
建物は総桧二重屋根瓦葺で重厚な外観を示す。
内部は禅宗寺院特有の簡素な構造で朝、昼、晩の勤行、仏事、法要、説教が随時行われる。
内部正面には浄聖台(じょうしょうだい)の額が、外部正面には大本山総持寺独住第一世奕堂(えきとう)禅師が揮毫した「妙巌禅寺」の扁額が掲げられている。
現在の建物は、天保時代二十四世の住職によって新築されたものである。
この建物に続いて開山堂があり宗祖道元禅師をはじめ、寒巌禅師、当寺の開祖、東海義易禅師、歴代住職、諸大和尚の尊像霊牌並びに開基の(今川義元公)位牌がお祀りされている。
尚釋尊のご分骨を奉安した舎利塔は国宝級の宝物で毎年十二月初旬舎利供養が営まれている。

<参考資料> 豊川いなり大本殿
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師がご感得、ご自作の端巌妙相をそなえられる豊川吨枳尼眞天通称「豊川いなり」のご本体が祀られており、全国幾千万のご信者の信仰の中心でありご祈祷の根本道場である。
御真言は「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」と申しご参詣の人々は、このご眞言を唱えて拝礼しご加護を受けられたい。
当時二十九、三十、三十一世の三代にわたる大本殿新築の大願は明治、大正、昭和の三世代に跨って信者の信心を凝集して昭和五年春竣工し落慶大開帳が行われた。
建物は総欅造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり間口十間七分五厘(十九、三五メートル)高さ百二尺(三十、六メートル)奥行二十一間四分三厘(三十八、五九メートル)丸柱直径八寸(二十四センチ)のもの、直径三尺(九十センチ)のもの計七十二本が使われ内部は内陣般若殿、施主殿に区画され内陣は本尊「豊川吨枳尼眞天」が奉祀してありその厨子は、諏訪ノ和四郎の作で尾根の瓦に至るまで朱漆塗りで精巧に彫刻を配し稀に見る巧緻精麗(こうちせいれい)な出来栄えは拝観者の讃嘆するところである。
更に両脇祭壇には伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩、その他貴重な諸仏、諸菩薩の像及び諸仏具等が安置されている。
明治時代に至り有栖川宮家より「豊川閣」の大額が下賜され大本殿内に掲揚されている。
当時を「豊川閣」と呼ぶのは、この因縁によるものである。
(豊川稲荷境内に設置されている案内板から)





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111123_1258_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町) 111123_1250_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)
臨済宗 片岡山 華蔵寺
111123_1252_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町) 111123_1245_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)
吉良家墓所 吉良義央の墓(右)
111123_1314_星野勘左衛門碑(愛知県西尾市吉良町) 111123_1323_清水一学の墓(愛知県西尾市吉良町)
星野勘左衛門生誕地 剣客・清水一学の墓

元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜、大石良雄以下赤穂浪士47名が江戸本所の吉良屋敷に討ち入り、主君浅野長矩(内匠頭)の仇を討ったことで知られる元禄赤穂事件( Wikipedia )。
討たれた高家旗本・吉良上野介義央が所領として治めていたのが、現在の愛知県西尾市吉良町(三河国幡豆郡)。歌舞伎や浄瑠璃などの題材として知られる「仮名手本忠臣蔵」では「悪役」として演じられることが多い義央ですが、「黄金堤」( Wikipedia )の築堤や、領内を赤馬に乗って視察を行ったことに因む「赤馬」と呼ばれる郷土玩具が今も地元に残るなど、一般的な評価と異なり、「名君」として多くの人たちに慕われていることは事実のようです。
吉良家菩提寺である臨済宗 片岡山 華蔵寺(地図)には、吉良義安(三河吉良家13代)から、元禄赤穂事件により改易され、幽閉先の信州諏訪・高島城で若くして亡くなった吉良義周(吉良家18代)までの墓があり、墓前に花が手向けられているのも、吉良家を慕う人たちの想いによるものなのかもしれません。
近くには、元禄赤穂事件において奮戦空しく討たれた剣客・清水一学( Wikipedia )の墓があり、吉良町の集落を望む高台から、町の人たちの生活を見守っています。
(写真:愛知県西尾市吉良町にある臨済宗 片岡山 華蔵寺ほか=平成23年11月23日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 西尾市観光協会
  http://www.240kanko.com/
・ 銘菓・御菓子所 東角園
  http://www.toukakuen.jp/

<参考資料> 臨済宗 片岡山 華蔵寺
慶長五年(一六〇〇)吉良義定公、妙心寺の高僧月船禅師を請じて、吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。当寺吉良家一三代から一八代(※義安から義央の継嗣義周)までの墓を護る。
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり吉良荘(現在の西尾市一帯)に住み、吉良を称した。
室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した。
当寺には県指定の文化財を数多く伝えている。吉良上野介義央公自らの彩色といわれる木像(※愛知県指定文化財)をはじめ、江戸期南画の第一人者とされる池大雅の作品群、吉良家寄進の品等、その代表的なものである。
また、本堂裏の枯山水は、小堀遠州流といわれ、古来から有名である。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 星野勘左衛門
弓の名手として有名な星野勘左衛門( Wikipedia )は、ここ宮迫で生まれ、尾張藩に仕えた。寛文二年(一六六二)五月一日に、京都三十三間堂の通し矢を試み、八千本の新記録をつくって「総一」(第一の者)を称され、弓道の達人として有名になった。この記録は貞享三年(一六八六)四月六日まで二十四年間も破られなかった。
勘左衛門は元禄九年(一六九六)五月六日に五十五歳で亡くなった。住居跡は現在の愛知県芸術文化センターの南側にあり、標柱が建てられている。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>
吉良の五本松
西尾市指定天然記念物 吉良の五本松
地図
昭和三十九年十二月一日指定
根回り四.〇~四.五m 樹高約三〇m
現在は二本が残るのみ。伐採時に年輪を調べたところ樹齢四三〇年以上と判明。
※吉良町宮迫の円融寺前
 
西尾市指定天然記念物 円融寺の大梛
昭和四十九年二月二十二日指定
目通り二m 根回り二.五m 樹高約十五m
県内でも特に大きな梛(なぎ)とされる。幹は垂直に伸び、下部の枝は取り除かれている。

<参考資料> 史跡 清水一学の墓
一学はここ宮迫の百姓の生れで、幼名を藤作といった。少年のころから剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。
義央公(吉良上野介)は、藤作に目をかけ、十五歳で江戸に呼び寄せ、やがて中小姓にとりたてた。赤穂浪士襲撃の夜一学は奮戦して討死、行年二十五歳であった。
遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺(地図)に分骨した。時の円光上人は一学の法名端翁元的を改め、義央公の法名にちなんで実相院宗禅信士として、ここに葬った。
一学は、一角 逸学 逸覚とも書かれ仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内(さぎさかばんない)の名で知られている。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)





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