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111123_1212_西尾城跡(愛知県西尾市)

愛知県西尾市錦城町(地図)にある平山城( Wikipedia )。築城は、承久の乱の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏( Wikipedia )が築いた西条城が始まり(西尾市ホームページ)で、その後、天正13年(1585)に、徳川家康の命を受けた酒井重忠が二の丸に天守を、天正18年(1590)には岡崎城主の田中吉政が三の丸を増築し城郭を整えました。
江戸時代は、慶長6年(1601)に本多康俊が二万石の藩主として入城。以降、代々譜代大名が藩主を務め、大給松平氏の代に明治維新を迎えました。
天主閣など城内にあった建物の多くは明治初期に取り壊されましたが、平成8年(1996)、本丸丑寅櫓と鍮石門を再建。現在、本丸と二の丸跡の一部は西尾市歴史公園として市民に開放されています。
長野県佐久市の日本では函館・五稜郭と2例しかない西洋式(擬様式)城郭を持つ龍岡城( Wikipedia )を藩庁とした田野口藩(龍岡藩)は、この西尾藩・本家大給松平家( Wikipedia )の系統。
(写真:再建された西尾城本丸丑寅櫓=平成23年11月23日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 西尾市ホームページ
  http://www.city.nishio.aichi.jp/
・ 西尾市観光協会
  http://www.240kanko.com


西尾市歴史公園
(平成23年11月23日)
111123_1226_1_西尾城跡(愛知県西尾市) 111123_1226_2_西尾城跡(愛知県西尾市)
西尾市歴史公園案内板 鍮石門
111123_1206_西尾城跡(愛知県西尾市) 111123_1202_西尾城跡・旧近衛邸(愛知県西尾市)
丑寅櫓から望む西尾市内 移築された旧近衛邸


<参考資料> 西尾城本丸表門跡
姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門式の門で、東西二間二尺(四・二メートル)、南北四間二尺(七・九メートル)で、高さ二丈四寸五尺(七・四メートル)でした。
現在、南側の土塁と石垣は失われましたが、北側の丑寅櫓から伸びる土塁を断ち切る面に積まれた野面積みの石垣と、石垣に接して布達の礎石のみが残されています。
本丸は土塁が廻り、四隅に櫓が築かれていました。その中で東北隅の最も大きい櫓が丑寅櫓です。郭内には西尾城の守護神である御剱八幡宮があり、本丸は西尾藩の心の支えとなった郭と想像されます。よってこの神社は代々の城主に尊敬され、拝殿前には城主寄進の石灯篭が立ち並んでいます。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 西尾城二之丸鍮石(ちゅうじゃく)門
二之丸御殿の玄関の前にあった門で、古くは「中柵門」、「玄関前門」と呼ばれていました。大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石門の名に因み、この文字を充てたと考えられます。御殿に至る高貴な門という意味です。門は楼門式で、規模が、東西二間二尺(四・二メートル)、南北四間半(八・二メートル)で、高さ二丈二尺五寸(六・二メートル)でした。
この門前の長さ一八・四メートルを測る内堀に架けられた欄干付の土橋は、城郭中で最も規模の大きなものでありました。
二之丸は西尾城で最も重要で中心となる郭で、中央に西尾藩の政庁である二之丸御殿を置き、北西隅には三重四層の天守を配置していました。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)





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愛知県岡崎市八帖町(地図)には、八丁味噌(岡崎城から八丁の距離にあることの意味)の伝統を受け継ぐ蔵元が2つあります。
八丁味噌(豆味噌・赤味噌)は、大豆と塩、水だけを原料に、二夏二冬(ふたなつふたふゆ)、川石を山のように積み上げ重石とし、自然の気温の変化にまかせ熟成された味噌で、信州味噌のような淡色な味噌(米味噌・赤と白味噌の中間)とは違い、黒味を帯びた濃厚な味噌へと変化するのが特徴( Wikipedia )。
江戸時代には「三河味噌」または「三州味噌」の名で、江戸などに出荷されました。
(写真:合資会社八丁味噌 本社事務所=平成23年11月23日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
今回訪ねた八丁味噌の蔵元は、合資会社八丁味噌(以下、カクキュー)さん。
もうひとつの蔵元・まるや八丁味噌さんと、旧東海道を挟んで建つカクキューさんには、味噌の蔵元とは想像できないほどハイカラな造りの建物があり、昭和2年に建てられた本社事務所(南北2棟)は、平成8年、国の有形文化財に登録されているそうです。
カクキューさんでは味噌蔵をめぐる工場見学が可能。岡崎まで来たら「八丁味噌」とはどんなものか、その独特な製造方法を実際に目で見てみると、話題のひとつも増えることになりますのでおススメしておきます。
 
さて管理人はといえば…。
本来であればここで「八丁味噌」の蘊蓄(うんちく)をひたすら書き綴るところなのですが、そもそも「八丁味噌」の名前こそ知れ、どんなものなのか知識もなく、更に時間にも余裕がなかったこともあって、現地ではさらりっと蔵元の雰囲気を味い、最後に2種類用意されたお味噌汁の味比べをしただけで、次なる目的地へとさっさと移動してしまったのでした。
こんなことなら、もう少し情報を仕入れてから訪ねればよかった…と思ってももう後の祭り。

次回の岡崎訪問は何時になるかわかりませんが、旧東海道・岡崎宿の町並みめぐりと併せて、この八丁味噌の、深~い味わいをじっくり楽しみたいと思っています。

<参考HP>
・ 八丁味噌協同組合
  http://www.hatcho.jp/
・ 合資会社八丁味噌
  http://hatcho-miso.co.jp/
・ 株式会社まるや八丁味噌
  http://www.8miso.co.jp/

<参考資料>
合資会社八丁味噌 登録文化財
(平成八年十二月二十日付)

本社事務所(南北二棟)
昭和二年(一九二七)十一月二十三日に完成した本社事務所は、白い柱を強調した教会風の南北二棟からなり、建築当時は大きく人目を引くデザインだった。平成二年(一九九〇)には、岡崎市景観環境賞を受賞した。

 八丁味噌本社事務所
 木造二階建、トタン葺、建築面積三三九平方メートル
 愛知県岡崎市八帖町字往還通六九

本社蔵(現史料館)
現史料館の建物は、明治四〇年(一九〇七)に味噌蔵として建てられた。石垣上の東西三十余メートルの巨大な姿は、城壁の観があって「大蔵」と命名、平成三年(一九九一)十二月一日から八丁味噌の郷・史料館として現在に至っている。

 八丁味噌本社蔵(史料館)
 木造二階建瓦葺、建築面積四六三平方メートル
 愛知県岡崎市八帖町字往還通六九

<参考資料> ボイラーとストーカー
111123_1039_カクキュー八丁味噌の郷・ボイラーとストーカー(愛知県岡崎市)
ボイラーとストーカー
昭和16年に投射は製造工場を移転・改築し、大豆蒸煮設備も一新しました。その時に導入したのが石炭を燃料とする火管式(1)ボイラー(左)で、発生した蒸気は蒸釜で大豆を蒸すのに用いられました。石炭の燃料効率を高める装置としてボイラーの下にストーカー(2右)も設置しました。ストーカーは燃焼中の石炭を鉄製の無限軌道(3)の上に載せて奥へ運び、燃え尽きた石炭は下へ落ちる(4)ように出来ていました。平成10年夏に新工場建設のため、これら装置の移転が必要になりましたが、元の姿のまま展示するのは困難なので両装置とも頭部だけここに残しました(5)。
布達の装置は昭和50年まで使用されていました。その後は石油ボイラーに、さらに平成9年初夏からはガスボイラーに変わりましたが、石炭時代のこの種の産業遺産が現在、東海地方にほとんど残っていないといわれています。
(合資会社八丁味噌設置の案内板から)





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111123_0949_岡崎城(愛知県岡崎市)

愛知県岡崎市康生町(地図)にある3層5階(復元前は3層3階)の天守と井戸櫓・附櫓からなる平城( Wikipedia )。岡崎市指定史跡。

<管理人ひとこと>
岡崎城といえば、誰もが思い浮かべるのが徳川家康( Wikipedia )出生の地ということ。整備された城址公園には、「東照公産湯の井戸」や「えな塚」など、家康出生にかかわる旧跡が残り、あの250余年も続く江戸幕府を築いた人物はここで生まれたのか…と感慨に耽る人たちも多いようです。
家康は天文11年(1542)12月、岡崎城内で誕生。しかし、世は戦乱続く戦国時代。西の織田氏と東の今川氏が互いに勢力を拡大するなか、その狭間にある岡崎も標的とされ、家康は6歳で織田氏へ、8歳で今川氏の人質とならざるをえませんでした。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、状況は一変。岡崎に戻った家康は、元亀元年(1570)に浜松城へ拠点を移すまで、この岡崎城から各地を転戦。徳川家ゆかりの武将(大名)の多くがこの三河から輩出する由縁にもなっています。

天守から望む岡崎の町並みは、庶民の日常生活がすぐ手にとれるほど近い距離にありました。矢作川や菅生川に挟まれた地形にも理由があるのかもしれませんが、そうした河川の氾濫から町並みを守るため、惣掘の土塁内にコンパクトに町並みが収める必要があったこともその理由なのかもしれません。
最上階の床には「17世紀本多時代の岡崎城図」(原資料 西尾市岩淵文庫蔵)が、東西南北の方向に合わせて貼られています。ぜひ、現在の町並みとの比較をされることをおススメします。

<参考HP>
・ 岡崎市ホームページ
  http://www.city.okazaki.aichi.jp/
・ 岡崎市観光協会
  http://okazaki-kanko.jp/
・ 岡崎公園
  http://okazakipark.com/


徳川家康出生の地 岡崎城
 (平成23年11月23日)
111123_0948_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1001_1_岡崎城(愛知県岡崎市)
岡崎公園案内板 解体前の天守
111123_1001_2_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1006_岡崎城(愛知県岡崎市)
本多時代の岡崎城図 天守から望む岡崎市内
111123_1022_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1018_岡崎城(愛知県岡崎市)
内堀と巽閣 舟着き場跡


<参考資料> 岡崎城
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清隆が入城し本格的な岡崎城を構えた。
1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した、江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本田氏(康重系統/前本田)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。

岡崎城の歴史
1452~1455年(享徳元~康正元年)
西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)、竜頭山に築城。
1531~32年(享禄4~5年)
安城松平4代清隆、竜頭山の岡崎城へ移る。
1542年(天文11年)12月26日
徳川家康、岡崎城内で誕生する。
1590~1600年(天正18~慶長5年)
岡崎城主田中吉政、城と城下町を大改造、天主閣・惣構えの堀を築く。
※1602年(慶長6年)
 岡崎藩( Wikipedia )立藩
1617年(元和3年)
櫓をもつ複合天守閣に再建。
1871年(明治4年)
廃藩置県、額田県成立し旧城内に県庁設置。
城址は県有地。
1873~74年(明治6~7年)
城郭取り壊し、天主閣解体、礎石のみ残る。
武家屋敷払い下げ。
1875年(明治8年)
旧本丸・二の丸、城址公園となる。
1959年(昭和34年)
岡崎城天守復元。
1962年(昭和37年)
岡崎城跡約96,700平方メートルを岡崎市史跡に指定。
1982年(昭和57年)
旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。
(案内板から)

<参考資料> 写された岡崎城
天守は城の中心となる建物で、物見櫓が発展したもの、城主の権威を象徴する建築物である。岡崎城の天守は、田中吉政が城主の時代に創建され、その後の地震等で倒壊したと考えられている。1617年(元和3)本多康紀が城主の時、3層3階、地下1階で東に井戸櫓、南に付櫓を附属した複合天守で再建されたものであったが、維新後の1873年(明治6)に廃城令が出され、翌7年にかけて取り壊された。1875年には本丸・二の丸部分が城址公園となり、後の1962年(昭和37)に公園の部分が市の史跡に指定され現在に至る。
再建の気運は1955年頃より市民の間から生じ、折しも日本各地で天主閣復興の気運が盛り上がり、近くでは岐阜城が56年に再建され、名古屋城の再建計画の話も伝わり、市のシンボル・観光の拠点として再建が多くの市民から望まれその道を歩みはじめた。当時5,700万円の総工費のうち、1,800万円が県費補助金、1,200万円は寄附金で賄われた。天主に飾られた鯱は青銅製で高さ1m36cm、重さ190kg、角のあるオスは南側、メスは北側にすえられた。
(城内案内板:「復元大系 日本の城4」ぎょうせい刊、「新編 岡崎市史 5現代」岡崎市刊から)

<参考資料> 東照公遺訓碑由来
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢次郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和十八年三月九十八歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に至った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和十一年四月十六日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年(※昭和六十一年)は、遺訓碑が建立されて五十年、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
(案内板から)

<参考資料> 昔の舟着き場
昔は帆掛け舟が荷物をたくさん積んで菅生川(乙川)を上り下りした。
ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場である。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。
(案内板から)





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111103_1456_「奥の細道・むすびの地」船町港跡と住吉燈台(岐阜県大垣市)

111103_1453_「奥の細道・むすびの地」船町港跡と住吉燈台(岐阜県大垣市)
奥の細道・むすびの地
(岐阜県大垣市船町)
岐阜県大垣市船町にある奥の細道むすびの地(地図)は、東北・北陸の旅を終え門人宅に滞在していた松尾芭蕉が、伊勢神宮の遷宮参拝のため舟で桑名に向けて立つ際に、「奥の細道」( Wikipedia )結びの句( 蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ)を詠んだとされる場所。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、江戸深川の採荼庵を出発した芭蕉は、河合曾良( Wikipedia )とともに東北・北陸をめぐり、同年8月21日に大垣着。門人宅に滞在した後、同年9月6日(新暦1689年10月18日)、桑名へ旅立ちました。
(写真:「奥の細道・むすびの地」 船町港跡と住吉燈台=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 大垣市ホームページ
  http://www.city.ogaki.lg.jp/
・ 奥の細道むすびの地 芭蕉と大垣
  http://www2.city.ogaki.lg.jp/basyo/basyo.htm
・ 岐阜県観光連盟
  http://www.kankou-gifu.jp/
・ 大垣・西美濃観光ポータルサイト「水都旅」
  http://www.ogakikanko.jp/
・ 大垣地域ポータルサイト西美濃
  http://www.nisimino.com/nisimino/

<参考資料> 大垣市指定史跡 奥の細道むすびの地
「蛤のふたみに別行く秋ぞ」
俳聖 松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。
元禄二年(一六八九)三月二十七日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曽良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。九月六日には、俳友の谷木因(たにぼくいん)や近藤如行(こんどうじょこう)ら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ舟で下りました。

<参考資料> 大垣市指定重要有形民俗文化財 谷木因俳句道標
貞享元年(一六八四)の冬、俳聖 松尾芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ、俳友谷木因の家に泊まりました。この道標は、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられており、道しるべの方向を俳句で表している全国的にも珍しく貴重なものです。
表面には「南いせ くわなへ十り ざいがうみち」の句が刻まれ、「くわなへ」は伊勢の「桑名へ」と季語の「桑苗(くわなえ)」を掛詞(かけことば)にしています。
なお、この道標は複製であり、実物は奥の細道むすびの地記念館で保存・展示されています。

<参考資料> 水門川の歴史
水門川は、大垣市から南流し揖斐川に合流する運河で、永禄4年(1561)大垣城主氏家直元が城池改築の際に開堀したと伝えられています。江戸時代に大垣藩初代藩主戸田氏鉄により改修され、この地方を集散する貨客の水運産業の振興とともに発展し、文化の興隆に大きく貢献しました。
当時は大量の自噴水が水門川にそそぎ、清らかな流れをみせ、アユやハエなどの清流魚が泳ぎまわるなど庶民生活と結びつき、広く親しまれ育まれてきました。また、この川は大垣城の外堀として幾多の攻防の歴史に秘められた物語も多く、沿線一帯には、「奥の細道むすびの地」や「住吉燈台」などの文化財が残され、水と緑の調和の中に詩情豊かな潤いのある風情をたたえています。
(以上、案内板から)

<参考資料>
岐阜県指定史跡 住吉燈台
大垣市指定史跡 船町港跡
船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣~桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は、元禄年間(1688~1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。
(大垣市教育委員会設置の案内板から)





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111103_1438_大垣城(岐阜県大垣市)

岐阜県大垣市(地図)にある四層四階の天守をもつ平城( Wikipedia )。
慶長5年(1600)に起きた徳川家康と石田三成とが争った関ヶ原合戦では、西軍・石田三成の拠地として、東軍・徳川家康の動きに備えました。
合戦後の慶長6年(1601)、家康は譜代大名の石川康通を城主に任命。その後、石川(2代)・松平(2代)・岡部(2代)・松平(1代)氏を経て、寛永12年(1635)に摂津尼崎藩より戸田氏鉄( Wikipedia )が入り、以降、明治4年(1871)の廃藩置県まで、戸田氏が大垣の地を治めています。
(写真:大垣城天守・西門と戸田氏鉄公騎馬像=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
関ヶ原の合戦では西軍・石田三成の本拠地となり、東軍・徳川家康と対峙するなかで、合戦前日の9月14日、家康本陣が大垣城北西の赤坂(地図)に移動。西軍を率いる石田三成はその夜、大垣城を出て関ヶ原に向かいました。
籠城戦をせず、家康との戦いを関ヶ原に選んだ三成の行動は諸説あるところですが、これに類似する事例がかつてありました。それは、甲斐の武田信玄が浜松城に攻め込まず、素通りしたことに激昂した若かりし家康が、信玄の罠にハマり城からおびき出されて大敗した、あの三方ヶ原の戦い( Wikipedia )です。
三成の性格をよく知る家康は、大垣城への総攻撃は行わずそのまま西に進めば、きっと三成は動くと考えたのでしょう。家康の巧妙な罠にハマった三成は、翌15日、関ヶ原で打ち破られることになります。

<参考HP>
・ 大垣・西美濃ポータルサイト
  http://www.ogakikanko.jp/
・ 今日は何の日?徒然日記 (羽柴茶々さん)
  http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/

<参考資料> 大垣城由来
111103_1425_大垣城(岐阜県大垣市)  
大垣城案内図
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び当時の城主は大井庄のうち石包名(いしかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後、天文四年宮川安定が城郭を築き、永禄二年大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年(一五八五)九月豊臣秀吉が一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年(一九三六)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年の戦災( Wikipedia )で惜しくも焼失しました。その後、お城再建の機運が高まり、昭和三十三年五月着工、翌三十四年四月、昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
なお江戸時代の城主は下記のとおりです。

石川康通  慶長六年二月~慶長十二年七月
石川家成  慶長十二年七月~慶長十四年十月
石川忠總  慶長十四年十二月~元和二年九月
松平忠良  元和二年九月~寛永元年五月
松平憲良  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部長盛  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部宣勝  寛永九年十一月~寛永十年三月
松平定綱  寛永十年三月~寛永十二年七月
戸田氏鉄  寛永十二年七月~慶安四年十一月
戸田氏信  慶安四年十一月~寛文十一年七月
戸田氏西  寛文十一年七月~貞享元年八月
戸田氏定  貞享元年八月~享保八年四月
戸田氏長  享保八年四月~享保二十年八月
戸田氏英  享保二十年九月~明和五年四月
戸田氏教  明和五年六月~文化三年四月
戸田氏庸  文化三年六月~天保十二年五月
戸田氏正  天保十二年五月~安政三年十月
戸田氏彬  安政三年十月~慶応元年八月
戸田氏共  慶応元年八月~明治二年六月

<参考資料> 明治29年(1896)7月・9月の風水害
111103_1424_大垣城(岐阜県大垣市)
大洪水の碑
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。
この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378ミリとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。
この大垣城石垣の刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投じて建てたのが、この洪水碑である。

<参考資料> おあむの松
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日東軍から矢文が届き「玄暦は家康様御手習師匠であったので逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母らと西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸無事に逃れた、そののちその松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
(以上、案内板から)





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