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111103_1134_多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)

滋賀県犬上郡多賀町(地図)にある全国の多賀神社の総本社( Wikipedia )。
「お伊勢お多賀の子でござる」といわれるように、多賀大社は、伊勢神宮のご祭神である天照大神の親神様として知られる伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)をご祭神としており、延命長寿、厄除け、縁結びにご利益があるといわれています。
(写真:七五三で賑わう多賀大社=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ いのちの神様 多賀大社
  http://www.tagataisya.or.jp/
・ 多賀町役場ホームページ
  http://www.tagatown.jp/
・ 多賀観光協会
  http://www.taga-kankou.com/
・ 近江路観光ガイド(近江鉄道)
  http://www.ohmitetudo.co.jp/outdoor/index.html
 
  <参考資料> 多賀神社の概略
ご祭神
伊邪那岐大神 (いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神 (いざなみのおおかみ)

この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお産みになられましたので昔から、わが日本国の祖神(あやがみ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除の霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。
四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。

<参考資料> 多賀神社の由緒
「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢、お多賀の子でござる」という里謡がある通り、多賀大社のご祭神は伊勢神宮のご祭神天照大神の親神様にあたる伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神様です。
「古事記」に伝えるところによると、この二柱の神様は高天の原で初めて夫婦の道を始められ、我が国の国土をはじめ八百万の神々をお生みになり、その後琵琶湖を西に望む杉坂山にご降臨になり、この多賀の霊地にお鎮まりになりました。
古くから延命長寿、縁結びの神様として有名で、奈良時代、元正天皇のご病気に際しては、多賀の神主が強飯を炊き、ご神木で作った杓子を添えて献上したところたちまち治癒され、平安の昔には、俊乗坊重源という高僧が二十年の寿命を賜って東大寺の再建を成し遂げたと伝えられております。
中でも有名なのは太閤秀吉の母大政所の病気平癒祈願で、その治癒を喜んだ秀吉は米一万石を寄進しております。
又、遠く甲斐の武田信玄も二十五歳の約利に際し、厄除けを祈願しております。
境内の枝垂れ桜、紅葉も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数え、毎日、延命長寿、縁結び、厄除け、交通安全などのご祈願も奉修しております。

<参考資料> 胡宮神社の由緒
この地から約七百米のところにあり、ご祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさの)命。
古くから多賀大社の奥宮といわれているが、鎮座地の敏満寺は中世、敏満寺という寺を中心に仏教文化が栄えたところで、百を越える僧坊(戦国の兵火で焼失)が建ち並び、胡宮神社はその鎮守でした。
延命長寿の神様として崇敬され、本殿は県の重要文化財、その社宝、銅製五輪塔は国の重要文化財であります。

<参考資料> 大滝神社の由緒
この地から南南東五キロ米のところにあり、ご祭神は高龗(※環境依存文字)神(たかおかみのかみ)、闇靇(※)神(くらおかみのかみ)。水を司る神様で、犬上川の清流が奇岩怪岩の間から流れ落ちる滝のほとりに鎮座しています。
農業用水の要の位置に鎮座され、農家の守護神として古くから犬上郡一帯の篤い崇敬を受けています。
尚、胡宮神社と大滝神社は共に紅葉の名所として知られ、多賀町観光協会では、ここに多賀大社を加え、この三社を巡るコースを多賀三社参りと称し、皆様におすすめしております。
(以上、境内・駐車場にある案内板から)





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111103_1029_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_0931_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
彦根城 天守 彦根城 天秤櫓
111103_1003_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_0959_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」
111103_1027_国宝彦根城(滋賀県彦根市)
天守からの遠望
(正面左の小山が佐和山城)
111103_1022_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_1046_1_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市)
玄宮園周辺 人気のひこにゃん

滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、江戸時代初期の元和8年(1622)、井伊直継が築城した平山城( Wikipedia )。明治時代初期の廃城令による破却を免れた天守閣が現存。天主閣と附櫓、多聞櫓は国宝指定、天秤櫓・太鼓門櫓・佐和口多門櫓など5棟は国の重要文化財に指定されています。
(写真:彦根城とその周辺=平成23年11月3日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
名神自動車彦根ICから彦根城まではおよそ10分ほど。
佐和口多聞櫓から表門を通り、先ずは彦根城博物館前にある入場券販売コーナーへ。長浜城から移築されたという天秤櫓を右にみながらぐるりっと左に方向転換。廊下橋を渡り、天秤櫓へ。
天秤櫓では、特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」が行われていて、天下分け目の合戦として名高い関ヶ原の合戦に関わった武将たちの甲冑(レプリカ)を見学しました。
天秤櫓を抜けて更に坂を上ると太鼓門櫓、そして天主。彦根城の天守は、大津城から移築されたとも伝えられ、明治初期の廃城令を免れた国内に現存する4つの天守のひとつ。ただ、実戦のための城という位置づけは黒一色で板張りの壁の松本城(長野県松本市)と同じですが、最上階には外回り縁や高欄が設けられており、戦時期と安定期とが折衷した独特な趣きを見ることができました。
彦根城の見学はこの後、黒門や玄宮園を巡り、佐和口多門櫓へ戻るのが標準コースで、所要時間はおよそ90分。彦根市のキャラクター・ひこにゃんに遭遇する場合もありますので、家族連れのみなさんは、ある程度余裕をもった行動を。因みに管理人は、そのひこにゃんのユニークな姿にしっかり見入ってしまい、全てを巡ることなく、天守から再び天秤櫓を通り、佐和口多門櫓に戻りました。

<参考HP>
・ 彦根市ホームページ
  http://www.city.hikone.shiga.jp/
・ 彦根観光協会
  http://www.hikoneshi.com/jp/

<参考資料> 彦根城
この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてからの実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25キロ平方メートル(75,800余坪) 周囲約4km(1里) 高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・佐和口多門櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。
(案内板から)

<参考資料> 関ヶ原の戦い
慶長3年(1598)、栄華を極めた太閤・豊臣秀吉が病により死去した。その最後の願いは老いてさずかった我が子・豊臣秀頼の行く末の安泰のみであった。だが、その晩年に起こした朝鮮の役は未だに集結を見ず、朝鮮半島に渡った日本軍を無事帰国させることが急務であった。石田三成は奉行として豊臣政権発足以前からすぐれた才覚を見せ、有能な官僚として政権内で重きをなしていた。だが、朝鮮での作戦指導をめぐり、現地で戦った加藤清正らいわゆる武断派の大名と軋轢が生じる。また、朝鮮の役での恩賞はなく、長年にわたる戦いに疲弊した大名たちは、その苦労に報いてくれる新たなリーダーを求め始めていた。
そのようななか、五大老筆頭であった徳川家康は、反三成で団結する豊臣恩顧の武将を糾合し、一大勢力を築き上げようとする。すなわち、加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興らと盛んに婚姻関係を結ぶなどして誼(よしみ)を通じ合った。これを黙って見逃す三成でなく、慶長4年(1599)、亡き太閤の遺言に違反したと家康を糾弾し、さらには家康を襲撃しようとしたが、逆に反三成派の武将たちから襲われそうになる、結局家康の仲裁で三成は無事を得たが、政治的には失脚し、近江(滋賀県)の居城・佐和山城に逼塞した。
三成はその後も家康打倒の機会をうかがい続けたが、慶長5年(1600)ついにそのときがやってきた。上杉景勝の謀反の疑いありとして徳川家康が会津攻めを発動したのである。越後(新潟県)から会津(福島県西部)に転封し、関東の徳川家康を北から牽制する役を負っていた景勝だが、領国内の無断築城や武器製造などで謀反の疑いがかけられた。しかし、そもそも謀反の疑いは家康側にあるとして完全に立ち向かったのが景勝の智将・直江兼続であり、有名な「直江状」を送りつけて家康を激怒させたとされる。関ヶ原の戦いは、その背景に、北に家康をおびき寄せ、その隙に西で石田三成が兵を挙げるという作戦があったとされる。事実がどうかは定かでないが、石田三成と直江兼続は仲が良かったと言われ、そのような申し合わせがあっても決して不思議ではない。
上方で石田三成ら西軍が挙兵したことを知った家康は、下野(栃木県)小山で評定を開き、三成討伐を決定。直ちに軍を反転させた。家康にとって政権を奪取する絶好な機会が訪れたが、不安がないわけではない。徳川軍に味方する大名は多くが豊臣恩顧の者であり、最後まで徳川軍と行動を共にする保証はない。事実、東軍の先鋒であった福島正則は、西軍が大坂城に豊臣秀頼を擁立したことを知ると大いに逡巡(しゅんじゅん)したが、黒田長政に説得され、東軍に留まった。
そして9月15日、美濃(岐阜県)関ヶ原で東軍と西軍が激突、天下分け目の大合戦となった。
本田忠勝とともに東軍の軍監を務めていた井伊直政は、初陣となる家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐して先鋒の福島正則を出し抜き、真っ先に兵を入れ、徳川軍団の面目を保った。午前8時頃に始まった戦いは、両軍とも一進一退、石田隊の島左近らの奮戦もあり、一時は西軍有利かと思われた。だが、家康がかねて仕組んだ調略が奏功。すでに家康に内応していた吉川広家は、南宮山に布陣する毛利本体をさえぎって戦いに参加させず、松尾山に陣取った小早川秀秋は旗幟(さし)を鮮明にしないなど、西軍は軍の統一を乱していた。午後1時頃、家康に督戦された小早川秀秋が東軍に寝返ったことが決定打となり、西軍は総崩れ。勝利はわずか1日で東軍のものとなった。
不本意ななりゆきで西軍に参加し、兵を動かさなかった島津義弘は、状勢が東軍勝利と決まった午後3時頃、突然、敵中突破による戦場脱出を試みた。義弘の甥・島津豊久が数多(あまた)の槍に貫かれて壮絶な討ち死にを遂げるなど苦戦しながら、追撃する井伊直政に銃創を負わせるなど、薩摩武士の意地を見せて戦いつづけ、義弘を戦場から脱出させることに成功した。世に「島津の退き口(のきぐち)」をして名高い。
また、関ヶ原の戦いは各地でも戦闘が行われた。代表的な例として、真田昌幸・幸村(本名は信繁)父子の戦いがある。父子は西軍として本拠地である信濃(長野県)上田城に籠城し、中山道を進む徳川秀忠率いる徳川本軍の西進を食い止め、合戦に間に合わせなくさせるという大功を挙げた。奥州(東北)の独眼竜・伊達政宗は、東軍側につき最上義光とともに上杉景勝と戦った(長谷堂城の戦い)。戦前、家康から東軍が勝ったあかつきには49万石の加増を約束されていたともいわれ、「百万石のお墨付き」と言われたが、結局は反故されてしまったという。
合戦ののち、西軍の総大将となっていた毛利輝元は自ら大坂城を退去して、家康の軍門に降り、石田三成は逃亡中を近江で捕らえられ小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都六条河原で斬首された。
(特別展「甲冑でみる武将たちの関ヶ原」案内板から)





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111103_1011_国宝彦根城(滋賀県彦根市) 111103_1044_1_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市)
111103_1044_2_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市) 111103_1044_3_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市)
111103_1046_1_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市) 111103_1046_2_国宝彦根城・ひこにゃん(滋賀県彦根市)

ゆるキャラブームの火付け役にもなった滋賀県彦根市のキャラクター・ひこにやん( Wikipedia )。そのひこにゃんに会うため、当時、仮住まいをしていた伊那市から彦根市まで、延々と中央道・名神道を走り、国宝彦根城(地図)を訪ねました。
ひこにゃんは1日3回30分の登場で、現在、イベントが開催される以外は概ね次のようなスケジュールになっているようです。
 
・ 午前10時30分 … 彦根城本丸
・ 午後1時30分 … 彦根城博物館玄関前
・ 午後3時 … 彦根城博物館玄関前
 (雨天の場合は全て博物館内)

写真を撮影した頃、お世話係の職員さんに連れられ、ひこにゃんが登場するや否や、取り囲む輪が幾重にも連なる人気ぶりで、カメラを向けるのも大変なほど。
 
彦根宣伝のため、今日も大活躍のひこにゃんかもしれません。
(写真:国宝彦根城本丸に登場したひこにゃん=平成23年11月3日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ ひこにゃんと彦根の観光情報
  http://hikone-hikonyan.jp/





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130814_1527_掛川城(静岡県掛川市)

130814_1531_掛川城(静岡県掛川市)
掛川城要図
静岡県掛川市にある掛川城(地図)は、当初は現在の掛川城より東へ500mほどのところに掛川古城として、室町時代に今川氏が朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて築城させ、その後、今川氏の勢力拡大に伴い、現在の場所に築かれました。
然しながら、桶狭間の戦い(1560)で今川義元が織田信長に倒されると、今川氏の勢力が衰え、子の今川氏真は永禄11年(1568)武田信玄に駿河を追われ、掛川城に落ち延びることになります。さらに、翌年、今度は徳川家康の攻撃を受け、和睦により開城。掛川城は徳川の勢力下に入り、武田氏に対する備えの城となりました。
天正18年(1590)、家康の関東移封により、掛川城は豊臣秀吉配下の山内一豊が入城。掛川城の整備に取り組み、現在の掛川城および城下の基礎を築きました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦により、山内一豊は土佐に移り、その後は譜代大名(10の大名家)を経て、太田道灌の子孫である太田氏の時代に明治維新を迎えました。
山内一豊時代の天守閣は慶長9年(1604)の地震で倒壊。元和7年(1621)に再建されましたが、安政元年(1854)の東海大地震により再び倒壊。現在の天守閣は、地元のみなさんの熱意と努力により平成6年(1994)、木造建築にて再建されました。
また、二の丸跡にある城郭御殿は、安政元年の東海大地震の後に藩主太田資功(おおたすけかつ)により再建されたもので、全国でも現存するものが4つしかない城郭御殿のひとつとして、昭和55年(1980)に国の重要文化財に指定されました。
(写真:掛川城天守閣=14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 掛川城と城下町・掛川の歩き方
  http://kakegawajyo.info07.net/
・ 掛川城 公益財団法人掛川市生涯学習振興公社
  http://www.k-kousya.or.jp/kakegawacastle/


日本で初めて木造天守閣を復元 掛川城 (8月14日)
130814_1517_掛川城(静岡県掛川市) 130814_1523_掛川城(静岡県掛川市)
大手門礎石根固め石 十露盤堀(そろばんぼり)
130814_1526_掛川城(静岡県掛川市) 130814_1538_掛川城(静岡県掛川市)
本丸跡から天守閣を望む 霧吹き井戸
130814_1533_掛川城・太鼓櫓(静岡県掛川市) 130814_1535_掛川城・二の丸御殿(静岡県掛川市)
太鼓櫓 二の丸御殿


<参考資料> 掛川城大手門礎石根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないように基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を縁系に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存ができないので、そのままの状態で取り上げました。

<参考資料> 掛川城大手門番所 (掛川市指定文化財)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(一九七八)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に位置した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(一九八〇)市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(一六四四~一六四七)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(一九九五)周辺の区画整理により、本来の位置から約五十メートル北に大手門を復元するkとにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移転・復元しました。 (掛川市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 三光稲荷御由来
三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手廐の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる十二月二一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、

ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)

と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといいわれこうした御利益から大手廐の構内にお祀りされました。 (案内板から)

<参考資料> 十露盤掘(そろばんぼり)
本丸を囲む重要な掘りです。十露盤掘という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。 (城内案内板から)

<参考資料>太鼓櫓(たいこやぐら)
正保城絵図(しょうほしろえず)では、荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓です。何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。 (城内案内板から)

<参考資料> 天守丸 霧吹き井戸
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天主閣を配置する独立した曲輪になりました。

永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。(井戸は1522年に井戸が掘られ、深さ45m、日本第3位の深さがあり、昭和35年まで使われていました)





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120814_1412_見付天神・悉平太郎の像(静岡県磐田市)

長野県駒ケ根市の光前寺の霊犬早太郎伝説は、地元ではよく知られたいますが、その早太郎が妖怪退治のため向かったのが、今回訪ねた見付天神 矢奈此賣神社(地図)です。
見付では、早太郎を悉平(しっぺい)太郎と呼ばれており、今では磐田市のイメージキャラクターにも採用されるほどの人気。今回は、妖怪退治に大活躍したその悉平太郎について伝わる伝説を調べてみました。

見付では、どこからともなく白羽が町家の棟に突き刺さり、矢を立てられた家では娘を生きたまま柩に入れて、見付天神にお供えするしきたり(人身御供)がありました。
娘を入れた柩は8月10日、大勢の人たちに担がれ天神社に置かれますが、しばらくして天地雷鳴ととともに怪神が現れ、娘を喰い殺した…といわれています。
ある年、見付を訪れた僧が、このしきたりをなくすために修行を続けたところ、これが妖怪による仕業であることがわかり、その妖怪が信州にいる悉平太郎(早太郎)をひどく恐れていることがわかりました。
僧は中央アルプスの麓、現在の駒ヶ根市の光前寺で飼われている犬が悉平太郎と知り、寺僧に見付の話をして、悉平太郎を借り受けました。
そして、次の年の8月。柩には娘を入れず、この悉平太郎を入れ、天神社に運ぶと、やがて妖怪が現れ、いつもどおり柩を破り始めます。そこへ飛び出してきたのが、妖怪が最も恐れていた、あの悉平太郎…。
格闘の末妖怪は倒され、翌朝、村人が現場に向かうと、狒々(ひひ)が倒れ、悉平太郎も負傷を追いながらも元気な姿を見せてくれました。
村人は悉平太郎の活躍に感謝し、光前寺まで送り届けました。

駒ヶ根と見付では、霊犬の呼び名こそ異なりますが、伝えられている話は全く同じ。普段、駒ヶ根で勤務する管理人ひろさくには、幾ら妖怪退治とはいえ、山を越え、谷を越え、よくぞ、ここまで来たものだなぁ…と感心したのでありました。
これが縁で、現在、長野県駒ケ根市と静岡県磐田市とは友好都市関係にあり、現在も市民の交流が続けられています。
(写真:神社にある悉平太郎の像=14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 見付天神 矢奈此賣神社 公式ホームページ
  http://mitsuke-tenjin.com/
・ 磐田市役所ホームページ
  http://www.city.iwata.shizuoka.jp/
・ 磐田市観光協会
  http://www.kanko-iwata.jp/
・ 磐田市イメージキャラクター しっぺい
  http://shippei.jp/

<参考資料> 国指定重要無形民俗文化財 見付天神裸祭
矢奈比売(やなひめ)神社は、矢奈比売命・菅原道真を祭神とし、別名、見付天神とも言われています。矢奈比売命は六国史に「矢奈比売天神」と記載があり、また、菅原道真を祭神として祀ったのは正暦四年(九九三)八月十一日との記録があります。
塔神社に伝わる裸祭は旧暦八月十日・十一日に行われていましたが、昭和三六年(一九六一)からその直前の土・日曜日に行われるようになりました。この祭は当神社の御神霊が遠江国総社・淡海国玉神社へ渡御する際に行われる祭で、渡御に先立ち裸の群衆が見付地区内を練り歩き、神社拝殿で乱舞することからこの名があります。
大祭は一週間前の元宮天神社例祭(祭事始)から始まり、見付地区の清め(御斯葉おろし)、三日前の福田海岸における心身の清め(浜垢離)、前日の社殿・境内当の清め(御池の清祓)と続き、大祭では御神霊の渡御、翌日には御神霊の還御で一連の祭礼が終了します。
この祭は、厳粛な物忌みと心身の清めにより、祭事を行うという、古代の祭儀の法を伝承しているものと推定されます。
裸祭に参加する者は褌(ふんどし)・草鞋(わらじ)・腰蓑を着けたいでたちをし、また、地区内の祭礼組織は古くからのしきたりが継承されています。
(磐田市教育委員会文化財課設置の案内板から)




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